第一章 七『再会』
朝食中の呼び出し。本日何度目かの緊急出動。変わり映えこそしないけれど、昨日とは確実に違う今日。疲労度に大きな変化はなく、おそらく明日も同じことの繰り返し。それが私の仕事なのだから文句など微塵もない。新しいことが起こる方が私にとっては困惑の種だった。
「お疲れさまです」
ようやく取れた休憩時間。本日も気づけば夕方がもうすぐ終わりそうだった。私は同僚たちに声をかけ、その足で職場を後にする。太陽は地平線へと沈みきり、僅かな明かりがそこにあるだけだった。
頭上には相変わらず大きな月が浮かんでいる。そう言えば朝見かけたあの人は——大きな月を背負っていた『姫』だったのだろうか。確信を抱いていたはずなのに、今となってはそれも不確実。確かめなくては……。
本人か否かを。自分の感覚が正しかったかを。今すぐにでも確認しなくては。そう思うと、足は自然と色町に向いていた。
当たり前だが、夜の色町は昼の色町とは装いが違う。闇夜に浮かぶ橙の明かり。張見世に並ぶ身綺麗な女性たち。煌びやかさの中に垣間見える焦燥感。ここが夜の町と謳われるように、上品な活気で賑わっていた。
「こりゃ……参ったな」
何分、このような場所には慣れていない。色恋ごとに触れてこなかった付けが、今まさに自分に降りかかろうとしていた。とにかくあの女性を見た店へ行こう。そう息巻いて足を前に出す。店の明かりが足元までをも照らし、私は緊張感に身体を強張らせた。
前以外見てはいけない。別段、夜の相手を探しに来たわけではない。左右から聞こえる艶めかしい声に振り向いたが最後、拒否すら出来ない可能性すらある。
「ははっ」
自分がこれほどだったとは……。女性経験が無いというわけでもあるまいに。
「ちょいと、そこのお兄さん」
「お兄さん、今日はどちらへ~?」
自分に向けられた声なのか、そうではないのか、残念なことに判別は出来なかった。無視してしまう私のことをどうか許してほしい。そう懇願するようにしながら、なんとか例の店の前に辿り着く。この店も他と同じように、格子を構えた張見世には着飾った女性が数人座っている。
皆化粧をしているが、あいにくそこに『姫』は見当たらない。遊女であるならばいないはずがない。けれど、どれだけ見ても同一人物はいなかった。私の見間違いだったのだろうか。……居ないということはそうなのだろう。しかし、ここで帰るのはなんだか負けたような気分だ。
「……よし!」
私は再び気合を入れ直し、遊女屋の入口へ足を踏み入れた。
「いらっしゃいまし」
玄関へ入ると目の前には若い男が立っていた。きっとここで今晩の相手を指名するのだろう。だがあいにく私は表の方たちに用はない。
「少しお尋ねしたいのです」
私はそう前置きしてから、一拍置いて口を開く。
「店に、もう一人女性が居やしませんか?」
悲しいことに私は遊女屋の作法を知らない。この若い男性に聞くのが正解なのかすらよく分かってはいない。
「……お客さん、ここは初めてで?」
訝し気な表情を浮かべる男性に私は「はい」と答える。ここで嘘をついても客名簿を見ればバレるだろう。……その客名簿とやらがあるかは知らないが。私が素直に返事をすると、男性は呆れとも怒りとも分からない溜息を吐いた。
「あの人はやめておいた方がいいですよ。気味が悪くて仕方ない」
男性はさぞ迷惑そうに、そう口にしてからもう一度溜息を吐く。気味が悪いと思うのなら追い出せばいいのでは、と安易に思ってしまうが、それは私がここを知らなすぎるからだろう。それが出来るものなら誰が言わずともそうしているに違いない。そう出来ないのだから、今もこうして息を吐いては吸っているのだ。
「旦那、本当にあの子のところへ行くのかい?」
着物を引きずりながら、通りすがった一人の遊女が言った。遊女を正面からこれほど近くで見るのは初めてだった。
「あの方に会って、確かめたいことがあるのです」
「そうかい、なら気を付けるんだね。あの子は私たちと違うよ」
女性はそう言って袖で口元を隠し目を細めた。一見笑っているように見えるが、その裏にどんな感情を抱いているのかまでは分からない。分からないので、あまり深入りしないことにした。
「夕鷺、早う上へお行き。待ってるよ」
「はいはい。……旦那、今度は私に会いにおいでよ。たっぷり楽しませてあげるからさ」
「考えておきますね」
私が微笑みを浮かべると、女性も同じように微笑み返してくれる。彼女たちの方が私よりもずっと処世術が備わっていた。遊女が二階へ上がるのを見送ると、男性は再び私の方を向いて口を開く。
「本当にお会いになります?」
「ええ。その為に来たんですから」
「……分かりました。ではどうぞ」
あまり気乗りしないと言った風に、男性は掌をこちらに翳して上がるよう無言で告げる。私はその指示に従って靴を端の方へ脱ぐと、知らぬ間に歩き出した男性の背を追う。歩を進める度に感じるのは空気の違い。妖艶な表とは違い、奥は生活感に溢れていた。
食事を作る音や匂い。禿たちの話し声。時折戸口の間から顔を出している子と目が合い、私は軽く会釈をする。私の生活している場所とは全く違う別世界。切り離されているかのような、そんな孤独感さえ感じさせる。ここは幸福と悲壮の混ざった場所。大多数の陰に潜む楽園だ。
「こちらです」
廊下をとにかく真っすぐ進んだ突き当り。陽の当たらない湿度の高い最奥の部屋。男性は例の女性が居るのはこの部屋だという。本当に居るのだろうか……。そう疑ってしまうほど薄暗い場所だった。
「では私はこれで」
男性はその場から逃げるように、返事を待つことなくそそくさと去って行ってしまった。暗がりに一人、ぽつんと残される私。なんだか置いて行かれた子どものような心境だ。
「誰だ。客か?」
突如、襖の奥から声が響いた。その声は確かに昨晩聞いた『姫』と同じ声。自分の動体視力と感覚に拍手を送りたい。私はついに、不介入条約の〈例外〉と対面する。
「失礼いたします」
私はそう前置いてから床に座り、ゆっくりと襖を引いた。子どもの頃から身に付いている礼儀作法が、ここでも同じように役立った。実家には感謝してもし足りない。
「やはりな。常連ではなかった」
私の姿を見るや否や『姫』は落胆した声を上げた。常連と言うからには彼女も遊女なのだろうか。
「お初にお目にかかります。百瀬綾人と申します」
「よいよい。まどろっこしい挨拶など要らぬ」
頭を下げようとしたとき、さぞ迷惑と言うように手を振って止められた。私は頭を上げ、目の前の人をじっと見つめる。
「して何用じゃ。客ではあるまい?」
八畳ほどの部屋に女性一人。物は隅の方へ寄せられ、二本の蝋燭の灯りのみが優しくゆらゆら照っていた。静かな世界だ。切り取られた中の一部が、また違う形で存在している。
「貴女が……姫」
灯りが照らすは黒い艶のある長い髪。整った容姿。寒色の美しい着物。遥か昔の貴族を彷彿とさせるその人は、私の言葉に眉尻ひとつ動かさない。ただ真っ直ぐ、私のことを見ているだけだった。
「用は無さそうだな。……まぁいい、少し相手せい」
女性はそう言って隅の方から何かを引き摺ると、私との間にどんと置いた。
「部屋に入れ。そんな場所では届かんだろう」
状況の把握は少しも出来ていないが、言われるがまま入室する。そうしてから襖を閉めようと振り返れば、ひとりでに閉まるそれが一つ。脳内の困惑は加速の一途をたどっていく。
「そう怯えるな。取って食ったりはせん」
「貴女は、遊女ではないのですね」
フッと鼻で笑ったあと、女性が笑い交じりにこう口にする。
「遊女ではない。この館に住み着く座敷童だ。何も招かんがな」
言いながら、目の前の基盤に黒い石を置いた。
「客とこうして遊戯で遊ぶのが仕事だ。否、趣味だ。ほら、お前の番ぞ」
畳の上を滑る碁石入れ。この際、不思議なことは見ないふりをしよう。彼女が『姫』なのであれば全て説明がつく。私は碁石入れの中から白い石を手に取ると、適当に盤の上へ置いた。
「なんじゃ、囲碁は出来んのか」
女性は落胆を全身で表すと、それらを全て隅に追いやった。もっと勉強しておけばよかったと今日ほど思った日はないだろう。
「では帰れ。どうせ将棋も出来ぬのであろう。ここは遊戯の出来ぬ者が来る場所ではない」
その声とともに、私の身体は部屋の外へと押し出されていく。立ち上がったわけでも、足を動かしているわけでもない。正座のまま、じりじりとひとりでに畳を滑っている。きっとこれも彼女の取り巻きの仕業だろう。抗おうにも私一人の力では耐えることさえ難しい。見えない圧力で廊下の方へ押し出されていく中、せめてと思い声を上げる。
「異師連に来る気はないですか!」
途端、私の身体の動きが止まった。これ好機とばかりに私は再び女性の前に座る。今度は膝が触れるのではないかと思うほど近くに。この距離までくれば、目の前に座る人の表情が見やすくなる。
「今、なんと」
「異師連に来ませんか。そうすれば——」
「私にお前らの傀儡になれ、と。そう言うか」
「そういうわけでは!」
「何が違うと言うのじゃ。狭い場所に閉じ込め、外出すら許さず、お前らの要請に従わねば処分など……。傀儡以外になんと言う。仲間とでも言うつもりか」
静かに淡々と、事実のみを口にする。姫の言っていることは全て事実で、それが正しいことだとは微塵も思ってはいない。人の道を外れるギリギリだと自覚もしている。
「それが、上の方針なのです」
「上とはなんじゃ。神か? 地獄の長か? 人間如きに上も下もあるまい」
「貴女も、人間ではないですか」
「人間が何百年も生きるものか」
その言葉に私ははっと息を飲んだ。そうだ。この人は私と違うんだ。二つの世界を安寧へと導く姫。何をしているか定かではないが、彼女なりに仕事をしているのだろう。それに、姫が異師連に来ては不介入条約に大触れしてしまう。
「やはり今のは忘れてください。大変失礼いたしました」
姫の逆鱗に触れる前にお暇しよう。そう思って振り返れば、開いていたはずの襖が閉まっている。力を込めて開けようにも指一本の幅すら生まれない。これは——。
「勝手に逃げるなど許すものか」
いつの間にか立ち上がった姫は柄も言えぬ存在感を漂わせていた。
「言われっぱなしは癪じゃな」
「な、なんですか⁉」
「そうじゃな……お前、私と夫婦になれ」
この人は一体何を言っているのだろう。あいにく、今の私には理解不能だった。
「返事は」
「……分かりました」
「よし。では移転の準備でもしよう」
条件反射で返事をした自分が妙に憎らしくて仕方なかった。私は誰かと結ばれる気などなかったと言うのに……。それもこんな、姫と呼ばれる怪物と。
「お前の家はどこに在るのじゃ?」
私の腕を引きながら姫は夜の町を忙しなく歩いて行く。地面に着物が擦れるのを気にする様子は微塵もなく、衣擦れと下駄の音が闇夜に酷く響き渡る。美しい打掛が砂埃を立てながら着実に汚れていき、色は微かに、けれど速度を持って変わっていった。
彼女はといえば、あっちへ行ったりこっちへ行ったりと信じられないほど落ち着きがない。まるで知らない土地へ来た旅行者のようで、私は黙って振り回されながら後をついて回った。
「家はどこじゃ!」
陰りの無い空に、姫の玲瓏とした声が響き渡る。引かれる私の背後には彼女の私物と思われる木箱が数個宙に浮いていた。今背後に向かって武器を放てば百発百中で当てることが出来るだろう。つまりそれは不介入条約に反した操師たちを減らすことに繋がる。そうすれば、昇格も夢ではなくなるだろう。やるなら今だ。そう思い、私は腰に備えた対妖専用銃に手をかけた。
「只ではおかんぞ」
突如前方から放たれたのは、冷たく、殺意をはらんだ声だった。見れば私の家を捜していた姫は振り返り、忙しなく動いていた足はぴたりと止まっている。
「私の家族に手を出すことがどういう意味か、お前に分からんはずあるまい」
凍てつく視線から目が逸らせない。離れようにも、掴まれた腕に力が籠められ振りほどけない。私はもう、ここから抜け出す手段を持ち合わせていなかった。
「一族郎党、手にかけてやってもよいのじゃ」
「そんなことするな!」
「ならば……分かるな? お前の行動に、一族全員の命がかかっておるのじゃ」
そう言って不敵に笑う目の前の女性に、私は人生最大の恐怖を抱いた。変な人間に捕まってしまった。遊女屋になど訪問しなければこの状況を回避出来たはずなのに……。そう後悔しても既に後の祭り。今更どうにかするなど不可能だった。
「さぁ! 家に連れて行っておくれ、旦那様」
可愛い声色が妙に不気味で、私は硬直する体を懸命に動かした。頭は大して機能していないけれど、身体は自宅の場所をしっかりと記憶していた。気づけば目の前には自宅兼職場。こんな怪物のような人間を連れて来てよかったのだろうか。
「ここが家か。随分と大きいな」
「……職場も一緒なんです」
最早蚊の鳴くような声しか出ず、普段の自分ではない何かに成ったような気がした。私たちはそのまま大扉を抜け、階段で二階へと上り、自宅の扉を引き開けた。すると姫は誰よりも先に部屋へと足を踏み入れる。
「中も広いのぉ!」
彼女は玄関で黒の下駄を脱ぎ捨て、引き続き着物を引き摺って部屋を進む。部屋の中が汚れるな、とは思ったものの、あいにく姫を制するだけの気力は今の私にはなかった。もう寝てしまおう。寝て、全て忘れた方がいい。そう思ってからの行動は驚くほど速く、ものの数分で眠りに着いた。