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第二章 十八『嫌いじゃない』

 寒さ故かキィと音を立てる自宅の扉を開ければ部屋の奥に座る棗と目が合った。日中の彼女は相変わらず髪を梳き、窓の外を眺め、何もやることがないとでも言うように美しい曲線を描く睫毛を揺らしていた。化け姫の生活時間は夜なのだ。昼間に何もしないというのは最早健全とすら言えるのかもしれない。


「朝のお遊びは終わったのか?」


 その場から動くことなく整った唇を動かしたので、私は「終わりましたよ」と告げた後で遊んでいたわけではないんですけどね、と付け加えた。まぁ鍛錬だなんだと意味のない戦闘を見れば遊んでいると思われても仕方がない。彼女にとってはこの世の大半が戯れに過ぎないのかもしれない。


「姉さま! 千代が参りましたよ!」


 私の背後からひょこっと顔を出した妹は、目をキラキラさせながら楽し気に声を発した。すると彼女も控えめながらも歓喜の表情を表に出し、手にしていた櫛を置いて立ち上がった。大切な妹を好いてもらえている事実は嬉しいが、対応の違いに不満を募りそうになった。


「よく来たのぉ。今日は泊まっていくのじゃろ?」


「そのつもりです」


「松郎はどうした。あやつも来ると言っておったではないか」


「後から母さまと一緒に参りますよ」


 千代が母と口にした瞬間、私はそりゃそうかと思ってしまった。千代と父だけが来るものだと思い込んでいたのだ。母もともに来るという考えが頭の片隅にすらなかったことに我ながら驚きを隠せなかった。


「そうか、久々に会うのぉ。楽しみじゃ」


 優しい微笑みを妹に向けた棗は、あの日のことを微塵も気にしていない様子だった。すごい剣幕で嫌悪感を向けられたというのに、この人はそんなことは後にも先にもなかったかのように振舞っている。それが長く生きた者の余裕から来るのか、それとも長いこと投げかけられた言葉故の慣れなのか、私にはなんとなく予想が出来てしまっていた。けれど、そんな彼女に掛ける言葉は何もなかった。否、私如きが分かったような口でかけられる言葉など無いに等しかった。棗のことなど、たかが数か月一緒に暮らした程度で知れはしない。


「兄さま、姉さま。少しだけ六華さんと遊んできてもよいでしょうか?」


「もちろんじゃ。あまり暗くならない内に戻るのじゃぞ」


「はい!」


 家では見せない妹の無邪気さは新鮮だった。年相応と言えば聞こえはいいが、それは母に抑圧されてきた過去から生じる反動だった。兄としては今の生き生きとしている妹の方が好きなのだが、きっと母が見たら怒るに違いない。普通ではない家に入った普通の人間は、家族であろうと言葉や行動を慎む方法を知らなかった。一度好奇の目に晒された人たちを受け入れるなど一般人には無理な話なのだ。棗は楽し気にぱたぱたと駆けていく音を最後まで聞いてから、私の手中にあった荷物に目を落とした。


「なんじゃそれは」


「着物だそうですよ。前に仕立てた物を千代が持ってきてくれたんです」


「おぉ、そうか。どんな出来かのぉ」


「広げてみましょうか」


 声音が一層明るくなった棗とともに、私は部屋の真ん中で風呂敷を開けた。丁寧に畳まれた着物は数にして八枚。そのどれもが日常使い出来る淡い色味に控えめな柄があしらわれている。ところどころ金や銀の糸が使われ、落ち着きの中にも確かな華やかさを演出していた。棗が着ても違和感のないそれは、正真正銘彼女のために作られた唯一無二の着物たちだった。




 新品の着物の肌触りを確かめ、差し込む光に透かし、満足げに口角を上げてからそれら全てを箪笥にしまう。棗用に空けた一段が着物で溢れ、引き入れる音の重量感が増す。明日はきっとこの中のどれかに腕を通すのだろう。生温くなった室内の空気を身体に纏いながら、私はコンコンと音を立てた玄関の扉を開けた。


「元気か」


 再会早々私の体調を気に掛ける父は、新緑よりも深い緑の羽織を身に着けていた。袖の先にのびる手には小さな風呂敷包みを持ち、背後には穏やかな顔で佇む母がいる。


「元気ですよ、父さん。母さんもお変わりないようで」


「えぇ、寒いですけどね。私も絃子も元気ですよ」


 まるで何事もなかったかのような振る舞いに、私は思わず父の顔を見やった。けれど父は何も言わずただ頷くだけで、私への言葉は何一つなかった。言わなくとも分かるだろうという態度に少々腹が立ちつつも理解出来てしまう自分がなんとも憎い。これだから嫌なのだ、異師なんて。


「綾人、このままここに立たせておくつもり?」


 母の耐えかねたような声音に、私は自分の身体の向きを変えた。部屋の奥に居る棗はこちらへ歩き来る様子も、どこかへ行ってしまう様子もない。部屋の中で再会した二人がどんな惨状を繰り広げるのか、考えるだけで頭が痛くなってくる。父だけならどんなに良かったことだろう。これはきっと私だけでなく千代も思っていることだろう。


「上がるわね」


 目の前に立っていた父に構うことなく母は誰よりも先に私の家へ上がった。続けて草履を脱ぐ父は私の肩をポンと叩き、手にしていた風呂敷包みを手渡した。気が重い。このままどこかへ行ってしまおうかと考えるほどに自宅が窮屈だった。


「ちょっと綾人! 貴方、女性と暮らしているの!?」


 取り乱しながら玄関へと舞い戻る母の様子に、私の脚がジリと微かに下がった。この人は何を言っているのだろう。私が彼女と暮らすのだと言ったとき誰よりも反対したではないか。それはもう物凄い言い方で。忘れたなんて、そんなこと言わせたりはしない。


「何を言っているんですか」


「私は聞いてないわよ! 一体どういうことなの」


 づいっと顔を伸ばして聞いてくる母に、私は何と言えばいいか分からなかった。母が棗のことを忘れているという薄々感じていた予想は確信に変わり、安心を通り越して最早怖くなってしまっていた。

 昔からよくある母の記憶喪失。おそらく父によって消し去られたその情報が、これから放つ私の言葉ひとつで呼び起こされるかもしれない。棗のふとした振る舞いで察され、またあの日のような暴言が飛び出すかもしれない。考えれば考えるほどに私の中から声が消えていく。声帯が———失われていく。


「結婚はしないって言ってたわよね? それなのに母に黙って女性と一緒なんて……松郎さんは知っていらっしゃったの?」


「あぁ、知っていたとも。初を驚かせようと、私と綾人で黙っていたのだよ」


「まぁ! 意地の悪い人だこと」


 ぷりぷりと怒る母は父の顔を見ながら大きく息を吐き出した。その辺に居る若い女性のような振る舞いに私は飽きれながら扉を閉めた。父は何故母とともに暮らしているのだろう。一緒に生活していて嫌にならないのだろうか。


「お初にお目にかかります、お母様。棗と申します」


 いつの間にかすぐそこに立っていた棗は、柔らかな空気を纏いながら口を開いた。紅を引いた口の端が一見分からない程度に上がっている。けれど視線は真っ直ぐに母を見据え、恐ろしい程に全く目の縦幅を変えなかった。その眼光は獲物を狙う強者のもの。鷹か、狼か、はたまた得体の知れない何かか。とは言えそれら全ては私に向けられたものではない。えも言えぬ圧力に私はハハッと笑った。


「取り合えず中に入りましょう、玄関は寒いですから」


 足の指はすっかり冷え、下の方からじわじわと冷気が上って来る。日光の熱で温まった部屋の中央とは大違いだった。薄着では明日にでも風邪を引くに違いない。


「そうだな、入ろうか」


「……えぇ」


 父は母の腰を抱き、仲良く揃って足を踏み出した。二人が寄り添う姿は端から見れば微笑ましいもの。だが身内の、子どもである私から見れば気味が悪いほどだった。どうしてここまで父は母に寄り添えるのか。ひとつ屋根の下でともに生活出来るのか。私にはきっとこの先も理解出来はしないのだろう。

 ちらと棗を見やれば彼女は表情一つ変えずに二人のことを目で追っていた。そこにどんな感情があるのか私には分からなかった。部屋の中央に腰を下ろした二人は、差し込んだ陽光を背中に受け止めていた。冷えた身体にはさぞ温かいことだろう。


「お前は黙っておれ」


 私が彼女の横まで歩き来ると吐息交じりの声でそう言われた。発言の意図はよく分からないが、一旦彼女の指示に従うことにする。棗は落ち着いた色の着物に黒髪を揺らめかせつつ、輪郭を白く縁取った一対の夫婦の前に座った。私は端の方に寄せていた机をその間に置き、受け取った風呂敷を机上で開ける。中から出てきたのは粒あんを包んだ丸く白い大福だった。


「改めましてお母様。綾人さんと同居しております、棗と申します」


 棗は再度自己紹介をした後、深々と頭を下げた。普段とは違う礼儀正しい振る舞いに私は彼女を凝視し、ハッと我に返って母を見やった。母は困惑した頭を何とか整理した後でふーっと息を吐き出した。


「急に結婚した理由も、私に黙っていた理由も全く分からないけれど、こんなに素敵なお嬢さんなら異論はないわ。百瀬家の存続も確約されたようなものですからね。……それで、子どもはいつ産まれるのかしら」


「はぁ?」


「嫌だわお母様ったら。そんなすぐに出来るわけないではないですか」


 棗はおほほと口元を隠しながら上品に笑った。遠慮と繊細で綺麗な心を失ったらしい母も彼女と同じくおほほと笑う。二人の間に流れる空気は静かな波のようであったが、踏み入れたらいとも簡単に足元を掬われる恐ろしさがあった。えも言えぬ感情に視線を父へと動かせば、父は微笑ましそうな表情で私を見て数回頷いた。これが嫁姑の関係性なのだと言いたげなその顔に私は失語せざるを得なかった。

 水面下での殺伐は仕事だけで十分だ。家の中は平和に、争い事とは無縁でいたい。そんな切実な願いが聞き届けられないことは、未だ聞こえる笑い声によって掻き消えていった。そうして女性二人は一見親し気に見えるような会話を続け、私と父はその光景を他所に大福を頬張った。隣の人たちとは世界が違うのだ、と意識的に思うことで大福の味を堪能することにした。


「ただいま帰りました!」


 丁度大福を平らげたところで自宅の扉が開き、深栖と遊び終わった千代が帰宅した。満面の笑みでキラキラとした輝きを纏った妹は、室内の濁り始めた空気に眉を一瞬だけ顰めた。そうしてからいつもの表情に戻った千代は「お早いお着きですね、母さま」と声を発した。


「陽が出てきたから早くに出たのよ。寒くなってからじゃ外出が億劫じゃない」


「そうですね、暖かいうちに着いてよかったです」


「千代、父さんたちが大福を持ってきてくれたんだ。一緒に食べよう」


 私は千代を隣に呼び、座った彼女の手に綺麗な白いそれを置いた。母から一番遠い端の方に座らせたのは英断だったと思う。この二人は棗以上に近づけない方がいいのだ。何故なら母の圧に千代が押し潰されてしまうから。千代は手渡された大福を両手で持ち、小さな口でパクッと一口噛り付いた。大福の纏う白い粉がはらはらと落ちていくのを私はただ隣で見ていた。何事もない、ただの平和な昼下がり。肌を刺すような寒さを小脇に抱えた外とは違い、室内は毛布に包まったときのような温もりを感じる。これでいいのだ。この何気ないひと時が私の中で大切だった。


「粉が落ちてるわよ、千代」


 そのひと時をぶち壊すのはいつだって母だった。

 日が沈みかけ窓の隙間から冷気が入ってくるようになると、母は「異師の住居は冷えるのね、これじゃあ風邪引くわよ」と小言をひとつぼやいて見せた。けして建付けが悪いわけではない。冬の室温とはこういうものなのだ。


「火鉢でもつけましょうか」


 棗の異様な敬語に私と千代が慣れることはない。私たちはお互いに顔を見合わせながら、緩んだ表情筋をそのままに上に羽織を羽織った。それにしても火鉢などこの家にあっただろうか。長年住んではいるが、どうしても暖を取りたいときはお湯を沸かすぐらいしかしてこなかった。まさか棗の荷物に入っていたのだろうか。であればもっと早くに出してほしいものだが、そんな期待はするだけ無駄というものだった。


「要らないわ。それより夕餉にしましょうよ。何がいいかしらね……すき焼きなんてどう?」


 一人で食べてきてください、などとは口が裂けても言えるはずがなく、私は「いいですね」と賛同の言葉を口にした。この際温かいものであれば、たとえそこに誰が居ようとどうでもよかった。


「じゃあそうしましょう! 貴方もそれでいいわよね」


「あぁ、勿論だとも」


 母の言葉に父は二つ返事で賛同した。この人が母の提案を断った試しはなかった。端から見ればただの言いなり。一家の大黒柱にこうも意思がないのは何故なのか。父と母の関係性は子どもである私には一切分からなかった。


「すき焼き楽しみです!」


 千代がうきうきした風に感情を表に出した。こういうときでなければ食べれないのだから無理もなかった。私が「好きなだけお代わりしていいんだからな」と言うと、千代は「お店のお肉食べ尽くしますよ!」と腕まくりする勢いで声を放った。

 生き生きとしている妹はいつだって愛いもの。私は千代の頭をわしわしと撫で回してから自宅の玄関扉を押し開けた。幸いにも今日はこの時間まで出動要請が無かった。竹原はまだ寝ているだろうか。隣からは物音ひとつ聞こえてはこない。職場内も僅かな物音を残すのみで、異師の姿は殆ど見受けられなかった。今日は平和な一日のまま終わるのかもしれない。


「夕餉が済んだら約束の世界を見に行くか? 千代」


 敬語ではえない棗に安堵を覚えつつ、威勢よく「はい!」と返事をした千代の声にふふっと笑いを零した。やはりこの空間は居心地が良い。何処の場所でもこうあってほしいものだと、私はぼんやりと思った。




「おなかいっぱいです……吐きそう」


 千代は満腹になった腹を摩りながら幸福な苦しみを訴えていた。食前の意気込みはどこへやら。妹は大してお代わりすることもなく、人並み程度しか食していなかった。


「それは何より」


 私は苦しむ千代の様を隣で眺めながら視線を町並みに動かした。寒かろうと人々の生活は止まらない。すっかり傾いた陽光を家の屋根が、住民の髪がキラキラと反射させている。微かな風は店の暖簾をゆらゆらと靡かせ、それぞれの羽織の袖を肌に密着させていく。一日の進む速度はやはり冬の方が早いらしい。山の端は濃い輪郭を携えて遠くの方に聳え立っていた。


「ちと散歩でもしてから帰るかのぉ」


 後ろの方でぼそっと呟いた棗は、その声に振り向いた千代をじっと見つめた。


「散歩ですか! 私もご一緒します」


「この寒い中散歩するの? 風邪引くじゃない」


 千代の言葉に被せるように母が声を発する。その声音はどこか否定するような、咎めるような、そんなものだった。


「私も付いていきますし大丈夫ですよ。羽織も着てますしね」


「そうだな、このくらいの気温なら心配要らないだろう。さ、初。私たちは先に帰ろうか」


 母の言葉や行動を緩く宥めるのはいつだって父の役目だった。長く共に生活していると相手の扱いも上手くなるのかもしれない。母は父の言葉に「そうね、帰りましょう」とだけ言うと一人先を歩いていく。その様子に父は私の顔を見て頷くと、母の背中を追ってゆったりと歩いて行った。母と子の関係性は一体何が正解なのだろう。歩み寄りも共生も、きっと私たち兄妹には難しい。


「千代、少し歩くぞ」


 下駄をカランコロンと響かせながら棗は喧騒の中を歩き始めた。千代がその後を小走りで歩き行くさらに後ろを、私は両手を袖に突っ込みながら追った。それからどれほど歩いただろうか。空の色は紺と橙が混在し、微かに吹いていた風は完全に止んでいた。冷え込んだ空気は肌を刺し、指先や耳を赤く染め上げる一端を担っていた。


「あとどのくらいですか」


 羽織を着ているとは言え寒いものは寒い。早く寒さを凌げる場所に移動したいのに、先を行く女性二人の脚は止まる気配を一向に見せなかった。果たしてどこまで行くというのだろうか。町の中心街は遥か遠く、辺りは寂れて乾いた枯れ葉が積もったままになっている。


「そう急くな。もうすぐじゃ」


 一切振り返ることなく棗が言った。心なしか千代がきょろきょろと周辺を見まわしているようだ。二人にしか見えない〝者〟が現れ始めているのだろうか。


「そもそも見えるってどんな感じなんですか?」

 知らない世界に興味が湧くというのは人間の性というものだった。見えないから知りたい。話を聞きたい。一種の憧れとも言えるその感情はおそらく相手にとっては迷惑なものなのだろう。例に漏れず先頭を行く棗は面倒そうに口を開いた。


「どんな感じも何もない。ただの日常じゃ。その辺の人間と同じように異形の者たちが見えるだけ。良い悪いはよう分からぬ」


「そうですね、日常って感じですよ兄さま」


「そんなもの……なのか」


 興味を削がれたまではいかないが、二人の平常さになんだか妙に冷静になってしまう。毎日見ている景色を言葉にするときは誰しもこんな様子になるのかもしれない。


「おぉ、白」


 突きつけられた見えない世界の現実にほんの少しだけ肩を落としていると、棗が空を見上げて白蛇の名前を呼んだ。そこで初めて白蛇が帯同していない事実に気付く私は何とも情けなかった。仮にも異師なのに、という感情が沸き上がるのは仕事に誇りを持っているからなのだろうか。それとも疎外感を感じているからなのだろうか。


「皆は集まったか?」


 穏やかな声は私や千代に向けるそれとはまた違っていた。彼女はどこまでも妖の姫で、それでいて私たちと同じ人間だった。


「姉さま……私、やはり白様は苦手でございます」


「白は何もせんぞ。ただ大きいだけじゃ。この白い体躯は他の誰よりも綺麗で美しい。のぉ、白」


 無風の中彼女の黒髪がふわっと揺れた。きっと白蛇が彼女に擦り寄っているのだろう。猫が愛しい者の足に身体を擦り付けるように、犬が再会した者に尾を振って駆け寄るように、白蛇は棗に親愛を示しているのだろう。時折見える彼女の表情はどこにでもいる女性そのものだった。


「では行こう。もうすぐそこじゃ」


 白蛇に腰掛けたらしい棗は、爪先が僅かに浮いた状態で振り向きざまに言った。棗の口にする『もうすぐ』がどれほどの近さなのかは検討も付かなかった。そうして数分歩くと、千代が「わぁ」と感嘆と拒絶感の入り混じった声を上げた。私たち三人が辿り着いたのは活気のない家々の裏手にある、ほんのり盛り上がった丘と細道だった。私の目にはそれ以上何も映りはしない。虫の一匹さえ見当たらないような、そんななんてことないただの場所だ。


「こ、こんなにどうやって集めたんですか?」


 千代は棗をまん丸の目で見上げて言った。すると棗はニヤッと得意げに笑いながら「姫じゃからな」と口にする。別段得意げになる必要も自慢げに言う必要もないように感じるが、棗にしか出来ないことなのであれば仕方がない。もっとも、千代の様子を見る限りそんなことをする必要はないのかもしれないが。


「どのくらいいらっしゃるのですか?」


「さぁの。私も知らぬ」


 無責任というか何というか。相変わらず白蛇に乗ったままの棗は優雅に髪を手で梳いた。千代はと言えば、最初こそ驚いていたもののあっという間に場に馴染み、その場に屈んで何者かを愛でているようだった。こうしてみると、改めて千代も棗と同じ世界を見ているのだと実感する。幼い頃からそうであったように、たとえ兄妹と言えど生きる世界は僅かに違っていた。


「そうじゃ綾人。どうせならお前にも見せてやろう、私たちの世界を」


「そんなこと出来るんですか?」


 棗から提示された魅力的な提案に驚いて見せれば、彼女は自分に不可能なことはないとでも言うように得意げにふふんと鼻を鳴らした。これからもこの先も、私が彼方側の世界を見ることなど出来ないと思っていた。不可能故に魅力があるように。出来ないと思ったが故に憧れが消えないように。私の中に燻り続けていた欲を彼女が叶えようとしてくれている。これほどまでに待ち望んでいた提案はない。何より、千代の見ている世界を知れるのは兄としてこの上ない喜びだった。


「なら、お願いします」


「よし」


 静かに呟いた彼女は花びらが舞い落ちるように白蛇から降りると、その足で私の方へと向かい来る。一体どうやって見せてくれるというのだろう。まさか操師にするとは言うまいな————そう考えたら紙一枚分ほどの恐怖が湧き出てきた。彼女に限ってそんな強行的手段をとって来るとは思えないが、彼女だからあり得なくはないと思えてしまうのは日頃の行いからだろう。


「なに、痛いことをするわけではないのじゃ。そこまで身構えんでも良い」


「そうだとしても何が起こるのか分からないのは怖いじゃないですか」


「私の目を分けてやるだけじゃ」


 目を分けるという言葉の意味はイマイチ理解出来ない。何なのだ、目を分けるというのは。私の目を抉って彼女の目を取り付けるというわけではないよな? それほどまでに恐ろしい過程を踏まなければいけないのなら、私がこれまで抱き続けていた憧れも羨望も、その何もかもを今この場で捨ててもいい。否、むしろ捨てさせてほしい。仕事以外で痛い目を見るのは嫌なのだ。平和主義はいつだって自分自身に向いている。


「怖ければ目でも瞑っておれ」


 すぐそこまで来た棗は私の目を真っ直ぐ見ながら言った。その黒目に映るのはこれまで見てきた、ただの〝棗〟としてのそれだった。恐怖もある意味での期待感も、その目に吸い込まれて消えていくようだった。なんだ、大丈夫じゃないか。私は胸中に渦巻く感情が無くなるのを感じてから、硬直していた顔の筋肉を緩めた。

 そんな私の心境を知ってか知らずか、棗はゆっくりとした瞬きを一度だけしてから私の襟元を掴み、ぐっと自分の方へと引き寄せた。そうしてから私の額に自分の額をくっつけた。棗は再び瞼を閉じると紅を引いた唇を微かに動かした。何を言っていたのか私には分からない。おそらく声にならない声を発していたのだろう。彼方の者たちに、彼女の古くからの家族にしか聞こえないような、そんな聞き取れない声。

 私たちに特異な能力があるように、彼女には彼女だけしか持ちえない力がある。それは私にも千代にも、誰にも得ることは出来ない特別なもの。数秒して彼女は私の襟元を掴んだまま、長く綺麗な睫毛とともに瞼を上げた。黒縁の綺麗な瞳はしっかりと私を映していた。


「一度目を閉じよ」


 私は棗に言われるがままに目を閉じた。瞼の裏に見えるのは真っ暗な闇だ。太陽が沈み遠くの山際に橙を残すのみとなった空には星が煌めいているが、私の瞼に小さな光は散っていない。正真正銘、前にあるのは闇だった。

 ともすれば鼻の奥に気になる匂いが入り込んでくる。日常で嗅ぐ事はきっとない。否、きっとではなくこれまで一切なかった。例えるならば滞留した川の水に死んだ魚が浮いているような匂い。汚泥に腐った食べ物を混ぜて何日も放置したような匂い。鼻腔を掠めるそれらはとても心地の良いものではなかった。


「もうよいぞ」


 声と同時に襟元から棗の手が離れた。私は鼻の奥に残る不快な匂いをそのままに、ゆっくりと瞼を開けた。視界を取り戻した先に居たのは棗だった。目を閉じる前と何も変わってはいない。これまで見てきた世界も何一つ変わってはいない。変わっては——————棗の背後はこんなにも白かっただろうか。純白と言うほど白くはないが、灰色と言うほどくすんでもいない。ほんのりと発光するその白は闇夜を僅かに明るく照らしていた。

 私は怖いもの見たさに恐る恐る視線を上へと上げていく。ずっと白い。棗の頭を通り過ぎても尚、白いそれは上へと伸びている。一体どこまで、と思ったところで白いそれと目が合った。高さはおよそ人間二人分といったところだろうか。長さにすればきっとそれよりもあるのだろう。彼女を守るように背後に佇む姿は言われなくとも誰だか分かってしまう。


「—————————白蛇」


 ここまで大きいとは思ってもみなかった。せいぜい棗の身長ほどだと予想していたのだ。それが……まぁ、なんと大きいのだろうか。これでは千代が怖がるのも無理はない。私は目の前の光景に妙に納得してしまった。


「どうじゃ? 見える世界というのは。大して感動もないじゃろう」


「いえ……何というか————」


 白蛇は金の目で私のことをじっと見つめ、長い舌をペロッと外に出した。その様を他所に視線を横にずらせば、何も居なかったはずの低い丘にはこれでもかと大小様々な者たちが居た。下の地面が見えないほど密集した彼らは私を見たり千代を見たり、棗をキラキラした目で見上げていたりした。多様な姿形は一見受け入れ難い。が、見方を変えれば可愛らしくもあった。

 兎のような耳の生えた小さな人型の者や、よく本などで見るひとつ目の妖。小さな馬に、妙に大きな羊。木よりも大きな猫は丘より少し離れたところで顔を洗っている。その他にも、液体を緩く固めたような者、棒のように長細い者、小さなおじさん、灰色の煙を吐き続けるもじゃもじゃの何か。これぞまさに千差万別、といった具合だった。不気味と言えば確かに不気味だが、面白さはこれまで生きてきた世界の何倍にもなった。この感情をあえて言葉にするならば————


「嫌いじゃない、です」


 そう、嫌いではないのだ。この異様な空間は、同じ異様とされている異師にはむしろ温かくすらある。後ろ指をさされることも、身に覚えのない暴言を吐かれることもない。人間だけの世界よりずっと居心地がよかった。


「嫌いではない、か……あれを見てもか?」


 真顔のまま棗は私の後方を指さした。振り返って見れば妖とは違う、人型の何かが暗がりにポツンと佇んでいた。一見木の幹のように見えるそれを認識しようと目を細めれば、夜の世界に灯りがぽうっと差し込んだ。壺のような形をしたその小さな妖は、私の足元からてけてけとたどたどしい足取りで人型の方へと歩いていく。時折こちらを振り返り目だけしかない顔で私のことをちらと見やった。別棟へ向かう道中で棗の足元を照らしていたのはこの子かもしれない。私は何故だかそう思った。

 蟻よりもずっと早く歩く壺型のその子は、人型の数歩手前で立ち止まった。そうして一等自身の灯りと強くして周囲をぱっと照らした。


「———————!?」


 照らされた人型は、言葉通り人型だった。否、人型と言うにはあまりにも人間だ。長い髪に、指に脚。私と何ら変わりないその姿は腐敗したように所々朽ち果て、とても水分を含んでいるようには見えなかった。言ってしまえば放置された骸だった。


「幽霊……?」


 最早目の前の存在に何と名前を付ければいいのか分からなかった。骸のような妖が居るのかもしれない。そう思うと目に映る全てを妖と呼んでも差し支えないような気がしてくる。それに、酷い有様の者を見ても驚いていない自分がなんだか面白いのだ。初めて目にしたはずなのに、居て当たり前だと、まぁ居るよなと、どこか納得するような感情が沸き上がる。


「間違いではない。此方側を見ると言うことは妖だけではなく、常人の目に映らぬありとあらゆるものを見るということじゃ。気持ちの良いものではけしてない。愉快さなど微塵もない」


 鼻に残る異様な匂いの正体はきっと彼らなのだろう。かつては人だった者たちがひっそりと暮らす様は、匂いという手段を使って私たちとともにそこに在るのかもしれない。


「これが、棗たちが毎日目にしている光景なんですね」


 知った気になってはいけない。ただ一時棗の目を分けてもらっただけで、この先の人生を今の状態のまま過ごすわけではない。ただの好奇心で、軽い気持ちで、私は彼女たちの世界を覗き見ただけ。今抱いている感情だって、月日が経てば忘れてしまうのだろう。それでもその一端に触れたというのには意味があるだろう。憧れを日常には出来ずとも、存在を意識することは出来る。


「賑やかな世界でしょう? 兄さま。今はみんな黙ってますけど、話し出したらもう凄いんですから」


 にこやかに微笑む千代に「そうなのか」と柔らかな声音で返せば、棗は「皆自由にしてよいぞ」と開口の合図を出した。途端にがやがやとした喧騒が私の全身を取り囲み、昼時の飯屋のような賑わいを見せた。人間同士が話すにはそれなりに声を張り上げなければ聞こえないだろう。それほどまでに騒がしかった。


「これでは生活がままならんな」


「この数が一堂に会するなんて滅多にないですからね。少し賑やかだなぁくらいで普通にお話出来ますよ」


 ただ、と千代は眉尻を下げてから続ける。


「頭の中に語り掛けて来る子も居るので、それだけはちょっと面倒なのですけどね」


「そうなのか……伝令みたいなものか?」


「うーん、似てはいます。伝令が反響したような感じです」


 ただでさえ苦手な精神感応に反響が加わるとは……想像しただけで眉間に皴が寄ってしまう。仕事上彼方の世界は見えた方がいいのだろうが、なんがか見えない方がいいのかもしれないと思えてくる。今回に限っては良し悪しは共存し得ない。


「ところで姉さま。妖の集まりとは一体何をするのですか?」


「何もせぬ」


「え」


 千代の問いに間髪入れず返答した棗は、何を聞かれているのか分からないとでも言うようにはて? と首を傾げた。集まりと言うのだから何か特別な、それこそ会議のようなものが行われるものだとばかり思っていた。それは妹も同じだったようで、豆鉄砲を食らった鳩のように目を丸くして自身の時を止めていた。


「じゃあ、なんでこんなに妖が集まっているんですか」


「綾人、よく考えてみよ。人間とて意味もなくその辺に集まったりするではないか。それは妖とて例外ではないのじゃ。集合することに特段理由などない」


 棗の言っている意味が理解出来ない。これでは彼女が自分の権力を振りかざすような振る舞いをしているだけではないか。自分がいかに凄いかを見せつける野良と行動自体は何ら変わりない。私は意味の分からない行動に視線を彷徨わせつつ、頭の端で彼女の言葉を咀嚼した。意味もなく人間がその辺に集まるというのはよく見る光景だ。井戸端会議だの、立ち話だの、丘を埋め尽くすほどの規模ではないが、町の片隅で行われているのは事実だ。それと同義だと言われてしまえば私には返す言葉はない。何故なら事実であるから。


「私のためにわざわざ集めてくださったのですか?」


 私の脳内を他所に、千代は戻って来た壺型のその子を手に乗せながら棗に問うた。ぼんやりと発光する小さな壺は、短い手足を器用に畳んで掌の上に座っている。


「まぁ、せっかくじゃからな。たくさんいた方が楽しいであろう?」


 実妹を見るような温かい目の棗は、壺の子をつんと突いた。その顔に擦り寄る白蛇は金の目を瞬かせ、ただ静かに隣に鎮座した。非日常はすぐそこに在る。見ないだけで、知らないだけで、こうして手の届く範囲にある。私は一歩足を踏み出して白蛇との距離を縮めた。

 あくる日の私を支えてくれたのは他の誰でもないこの白蛇だ。ここまで大きいとは思っていなかったが、棗とともに在るのなら同居していたも同然。私はその姿を目に焼き付けるようにじっと見つめ、言葉を発さずに頭を下げた。妖とは言え感謝はしなければならない。人かそれ以外かなんて私の生きる狭い世界では大した違いではない。差別するに値しない。


「ちと休んでいこう。帰りも歩かねばならぬからな」


「どうせ棗は歩かないでしょう」


「失敬な。私とて歩くときは歩くのじゃ!」


 語気の強くなった彼女を嘘つけと思いながら見ていれば、視界の端に遠くに居たはずの朽ちた骸が見えた。私がぎょっとして小さな悲鳴を口内に響かせて、反射的に動いた身体を捩って対面させる。いつの間に動いたのだ。そもそも動けた事実に驚いてしまう。


「なんじゃ、驚いたのか」


 揶揄うような物言いにムッとすれば、棗は楽し気にケラケラと笑った。その声に呼応するように他の妖たちも笑ってみせる。途端に周囲には笑い声の渦が発生し、それ以外何も聞こえなくなってしまった。

 これでは気の休まる隙がなさそうだ。やはり見えない方がいいのかもしれない。



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