第二章 十七『重く苦しむということ』
よくあることの繰り返し。毎日同じような作業の連続。人生なんて所詮そんなものの積み重ねでしかないのだけれど、それでも心に付いた小さな傷はズキズキと熱を持ちながら酷く傷んでいる。治りかけの傷が痒いのは回復している証拠だが、内部に付いた傷は痒みをもたらすことなくじくじくと膿み始めそうだった。朝になってようやく気付いたその痛みに、私は玄関先で一人呻いていた。
「……クソッ」
胡口の身体はあれからすぐに回収された。持ち上げられた身体から力なく伸びる腕が、目の前の出来事を現実へと押し上げていた。後に残ったのは大きな血溜まりと、完全に色を変えた一枚の紙だけ。よくあること————そう、よくあることだ。
真顔の顔が黒い服を着ている。皆揃って同じ服装なのは、それが組織の制服だったからだ。他にこの場に相応しい服など誰も持ってはいなかった。小さな火葬場は静かなものだった。異師の弔いに協力する僧侶は誰一人としておらず、鎮魂歌を披露するものはどこにもいない。異師の扱いなど所詮そんなもの。誰が死のうと世界は何気ない顔をしながら回り続けるのだ。
「またね、胡口くん」
瑞城が歪な手製の木箱に収められた胡口の骸を撫でた。焼香さえないこの火葬場では、彼女の放った言葉が亡くなった者へのせめてもの慰めだった。
「楓太郎くん……またね」
目に涙をいっぱい溜めた千代が、瑞城の隣で死者の頬を撫でる。彼の死を悲しみ悼むのは百瀬組と深栖、それから私の父と妹だけだった。皆それぞれに仕事を抱えている。来れないのも無理はない。だが、こんなに淋しい最後はあんまりだった。そうして一頻り胡口に言葉を投げかけた後、長細い木箱は業火の中に入っていった。火の勢いは凄まじいのに耳に届くのは静寂だった。
「椿さん……!」
瑞城の腕の中で千代が声を上げて泣き出した。けれど、私は泣けなかった。胡口が異師になった頃からともに仕事に励んでいたのに、涙の一滴すら目から流れ出ることはなかった。
* * * * *
毎日を無為に、無感情に過ごしていれば、年末の忙しさなど少しも気にならなかった。棗に「死にそうな顔をしておるな」と言われても反論どころか反応さえしなかった。忙殺という言葉があるけれど、私は自らその環境へと飛び込んでいた。休みなど最早要らない。こんなイかれた世界は早く終わらせた方がいいのだ。そう思ってはいても、毎年のことながら元旦は異師連が休日を与えてくれていた。いつもなら心から待ち望むはずのそれが、今回はどうしようもなく鬱陶しかった。
「百瀬さん、行くよ~!」
自宅の扉を叩きながら、瑞城が私のことを呼んだ。私は布団から起き上がり真っ黒な上着を手に扉を開けた。
「おはよう」
「おはよう、百瀬さん」
「元気ねぇな」
瑞城と竹原が揃って私を待ち構え、明るく元気に朝の挨拶をした。至って平常運転。何も変わらない彼らの振る舞いはこれまでと同じ日常を描いている。けれど瑞城の目の下には濃いくまが広がっているし、竹原に至っては顔に小さな傷が幾つも付いている。取り繕っているだけで、彼らもまた私と同じ心境の中にいた。
「たまには羽を伸ばしてくるとよい。気分転換は必要じゃ」
部屋の奥から歩き来る棗が言った。どこか慈愛に満ちた瞳は私のみならず二人のことも優しく包み込んでいくかのようだった。
「行ってきます」
「帰りを待っておるからの」
柔らかな声音に小さく頷いた後、私たち三人は揃って外出した。澄みきった冬の空は雲一つない綺麗な青一色だった。その中を優雅に飛行する一羽の鳥の姿が、濃い影となって私の頭上を行き過ぎた。暢気なものだな、なんて思ってしまうのは私の心が荒んでいるからだろうか。鳥には鳥の苦悩というものがあるに違いないというのに。
「何買って行ってあげようかなぁ」
瑞城が独り言のようにぼやいた。元旦故に賑やかな商店の立ち並ぶ道に人はいない。もちろん店々も禄にやっておらず、私たちは毎年同じ店で焼き団子を大量に購入していた。例に漏れず今年も元旦に店を開く稀有な店で焼き団子を買い、温かいそれを抱え目的地へと歩を進めた。
「寒いねぇ」
「でもいい天気だな」
「もっと厚着してくればよかった……」
白い息を吐きながら口々に言葉を発する。自由で何にも囚われないこの時間が好きだった。横並びで閑散とした道を歩き続ければ、郊外にひっそりと佇む異師育成所が目に入る。年始の挨拶という名の訪問は、私たち三人の恒例行事だった。瑞城が厚い木の門を押し開ければ、奥に広がっているのはだだっ広い砂地だった。
「明けましておめでとうございます」
少々大きめの声で叫べば、奥から出てくるのは子ども、子ども、子ども。その他には指導者である大人が三人ほど。私たちがここに居た頃から顔触れは変わっていない。
「あけましておめでとう」
「おめでとうございます」
わらわらと集まって来た子どもたちに団子を渡す友人を横目に、私は随分年老いた恩師と言葉を交わした。話したいことは山のようにあったはずなのに、喉の奥に栓をされたかのような感覚が全身を占めていた。何も発せない。そんな気分じゃない。新年の訪れを祝えるような心地じゃないのは一体誰のせいなのだろう。否、誰のせいでもないのかもしれない。
「ゆっくりしてお行き」
恩師は私の背中を優しくポンと叩いてから柔らかな笑みを浮かべた。心の奥が解されていくような感覚は久しぶりだった。それから私は縁側に腰かけながら温かなお茶を飲み、目の前でキャイキャイと楽しそうに戯れる皆を見ていた。未来ある若者たちの笑い声は耳に心地よかった。
「椿! 起こしてくれたって良かったのに!!」
爽やかな音に耳を傾けていると、閉めたはずの門を勢いよく開けて深栖が登場した。慌てて来たのか髪はぼさぼさで、制服のボタンを幾つか掛け違えている。心地よさに快活な声が混ざったおかげで、微睡み始めていた意識が一瞬にして覚醒してしまう。彼女は何故こうも元気が有り余っているのだろう。今はまだ限りなく昼に近い朝だというのに。
「私ちゃんと起こしたよ? 起きなかったのは六華ちゃんでしょ」
「知らないぞ!」
起こした起こさないの言い合いほど不毛なものはない。別段急がなければいけないような行事でもないのだから少しはゆっくりしたらいい。私のようにのんびり生きるのも悪くはないはずだ。
「六華、明けましておめでとう」
「先生! おめでとうございます!!」
何をするにしても声の大きい深栖を落ち着けるように、先生と呼ばれた指導者が彼女の頭を撫でた。嬉しそうに目を細める深栖の姿はまるで幼い子どものよう。無垢で純粋な昔に、今この場でだけは戻れるのかもしれない。彼女にとって、指導者たちは紛れもない親だった。
「先生私も!」
「俺も俺も!」
「六華だけずるい」
子どもたちが深栖と先生を囲むように群がり始めた。その子どもたちの頭を順に撫でていく先生の表情はまるで聖母のようだった。
「平和だねぇ」
いつの間にか横に居た瑞城が、目の前の光景を眺めて言った。膝にはどこで見つけたのか、一匹の猫を抱いている。
「いつもこうならいいんだがな」
「そうだね、ずっとこのままがいい」
子どもたちに便乗して、竹原が先生に頭を撫でられているのが見えた。今の彼が浮かべる表情は私に見せるいつものとは違い、はるか昔に見た、親に褒められた子どもがするそれだった。
育成所に居る子どもたちの大半は親に捨てられた者———否、異師の大半がそうだった。皆親に見放され、連が運営する育成所に預けるという形で捨てられる。能力を持つ子どもは親の手に余るのだろう。異師というある意味蔑称で呼ばれている者が自分の子どもだと分かったときの、親の恐怖は計り知れない。だからこそ、私のように家から学校に通う者は数えられるほどしかいなかった。本部に居る者で言えば私と瑞城、そして坂百合副連長のみだ。
「また一段と大きくなりましたね」
「先生、俺もう三十一ですよ」
「あたしも二十九だぞ!」
「それでも、大切な子どもたちの一人であることに変わりはないでしょう」
私には分からない捨てられるという感覚。それを彼女は、彼は—————彼らは身を持って知っていた。能力の出現は早くて三歳と言われている。ここに居る子どもたちも、自我が芽生えるより早くに親と別れているのかもしれない。いくら親の顔や声を覚えていなくとも、捨てられたという事実だけで胸が張り裂ける日もあるのだろう。であれば、私に出来るのは少しでも暮らしやすい状況を作ることだった。それが、異師である人間の役割なのかもしれない。
「彼らがこれ以上傷つかない未来を渡さなければならんな」
もう誰にも傷ついてほしくはない。誰にも死んでほしくはない。この理不尽とも言える環境で私のような思いを、胡口や新室さんのような目に遭う人を、私は減らしていきたい。これ以上苦痛は要らない。
「ならもっと頑張らないとね、百瀬さん!」
もっと働けと言われているような気がして私の身体は重くなった。頭の奥には胡口の姿がよぎるし、気を抜けば何も出来ないと表現するかのように自然と蹲ってしまう。新室さんのときだって乗り越えたふりをしていただけ。今回も、私はきっと乗り越えることは出来ない。全て抱えて後ろを振り向きながら、時に立ち止まって過去を見ながら、そうやって生きる他なかった。その生き方を、私は選ぶしかなかった。
* * * * *
年が明けたとて私たちの仕事内容は変わらない。暴れ狂う野良を捕まえて、操師の発見情報が入れば対処して。晴れの日も、風の日も、雨の日も、寝ては仕事をしてまた寝るだけ。面白味など無いに等しかった。
「おい百瀬! 鈍ってるぞ!」
楽し気にニヤッと口角を上げながら言う深栖に、私は至って冷静に「そんなことはない」と言い返す。そうすればすかさず「ならこれはどうだ!」と意気揚々と自分の能力を行使してくるのだ。遠慮がないことは大いに結構なのだが、悪役のような表情は改めた方がいい。
「深栖の方が鈍ってるんじゃないのか?」
「なんだと?」
私たちは今、冷えに冷えた早朝に鍛錬という名の憂さ晴らしをしていた。口から吐き出される息は煮え切った鍋から立ち昇る湯気より白い。着慣れた制服は随分前に冬仕様になったが、生地が多少分厚くなっただけで寒さはそこまで凌げなかった。私たちの指先は赤くなり、気温の低さに汗すらもかかない。
「本気で来い、百瀬!」
「はなからそのつもりだよ」
対峙した私たちは、どちらが合図するでもなくほぼ同時に地を蹴った。能力を行使した私の方が彼女よりずっと早く距離を詰める。けれど詰めたところで私の能力は近距離戦向きではないので、今回もやはり苦手な体術でどうにかするよりほかなかった。私は身体の速度を維持したまま再度地面を蹴り、上半身を捻って回転した。回りながらも深栖との距離は縮まり続け、脚を伸ばして一回転する頃には軌道上に彼女の頭部があった。
私の能力の特性上、触れたものを弾いたり投げたりすると得てして速度が付与される。このまま伸ばした片方の脚で彼女を弾き飛ばせば、頭部を軸として鍛錬場の端の方まで飛んでいくだろう。死んでしまうだろうか。否、すぐそこに趙野が居るのだから心配は要らない。手酷くやっても怒られるだけだ。私は一瞬だけ脳裏に浮かんだ不安感を瞬時に搔き消すと、勢いを維持したまま脚を回した。その瞬間、深栖がにやりと笑うのが見えた。
「こりゃ、またしくじったな」
体術が苦手だと自負する所以はここにあった。相手が自分の動きを見てどう動くのか、その先読みが出来ないのだ。何通りも考え予想して動くなど性に合わない。だから毎度こうなる。
「単調だって言われなかったか?」
彼女にしては随分と落ち着いた口調で囁いた。やられるのは私の方だったらしい。全てを予見していたかのように、深栖は向かい来る脚を屈むことで軽々と避けた。その流れで伸ばしていない方の脚を掴むと、勢いを殺すように真下へと投げた。宙に浮いていた私の身体はあっという間に地面に叩きつけられ、触れられた皮膚が軽く凍っている。凍傷とまではいかないが、感覚が完全に戻るには少し時間がかかりそうだ。
「どうするのが正解なんだろうな……」
この世界に入ってもう何年も経つというのに、私はこれっぽっちも成長していなかった。指定異師になったのだってまぐれかもしれない。大して強くない人間が居座っていい肩書ではない。私は地面に叩きつけられた身体を両手で支え、脚を勢いよく上に突き上げた。傍に立っていた者の顔目掛けて上げた足は黒髪の端にさっと当たり、物体に当たることは少しもなかった。深栖が自分目掛けて上がって来た脚を掌で外の方へ払ったので、その反動を使いもう片方の脚も顔面目掛けて伸ばす。執拗に顔ばかりを狙うのは強能力を持ちえない私の戦い方だった。
「鬱陶しいな!」
もう片方の脚も当然のことながら躱されるので、私は上半身を飛び上がらせ掌を首元に伸ばした。払われる手。下から突き上げるように向かい来る拳。それを払う私。そんな暴力的な攻撃をお互いに繰り返していた。双方一発も入らない単純な戦いは、視界の外から繰り出された深栖の蹴りによって風向きを変えた。脇腹に入った彼女の脚は私の内臓を微かに揺らし、続けて振り上げられた脚が私の顔の側面に真っ直ぐ当たった。
「—————ッ」
再び地面へと舞い戻った私の身体は砂に塗れた。
「まだ終わりじゃないぞ!」
地に転がった私を目掛け深栖が両手を振り下ろし、続いて足をダンダンと鳴らした。迫り来る両手から逃げるようにゴロゴロと砂地を転がれば、後を追いかけるように冷えた地面がやって来る。触れたら最後、あくる日の村のようになってしまうような気がした。それは何としても避けなければならない。
「だが……」
深栖の能力の効果範囲に入ることは出来ない。今も尚空気中の水分がキラキラと輝き続けている中、私はどうやって彼女をやり込めるべきなのだろう。地面を転がり続けながら冴えた頭で思考するも、残念なことに良い案はちっとも思いつかなかった。それに寒いのだ。寒いと身体が思うように動かない。今日ばかりは寒さに慣れている深栖の方が有利だった。
「あたしの勝ちか!?」
凍り付く地面の真ん中で仁王立ちする彼女の姿が目に入る。面倒だしこのまま凍ってしまおうか、などと考えるあたり、今年も私は私だった。
「—————一応指定異師だしな」
鍛錬とはいえ負けたことが広まれば肩書が無くなりかねない。いっそのことそれでも良い気がしないでもないが、それでは過去の自分に罵られそうだ。私は溜息をひとつ吐き、転がり続ける身体を片腕でひょいと起こした。黒い上着が翻り、服に付いた砂が宙を舞った。埃っぽい空気が鼻の中を通り過ぎた。あまり心地のいい匂いではない。
「さて、本格的な憂さ晴らしといこう」
私は気持ちを切り替えるように一度だけ手を叩く。気持ちのいい破裂音は澄み切った早朝の空気にどこまでも反響していった。未だ乾燥した大地の温度を下げ続けている深栖は、私の奇妙な行動にはてと首を傾げていた。勝利を確信しているせいか、どこかに隙が生じているような気がする。私は履いていた比較的新しい靴を片方脱ぎ、勢いよく天に向かって投げた。
速度を得た無機物は鳥が滑空するよりも早く上昇し、小さな点になって視界から消えた。また新しいのを貰わなければ、とこれから起こる出来事に憂鬱になりながら、靴を履いている方の脚で地面を斜めに蹴る。ふわりと舞い上がる身体。視界に映るのは凍って弾けた水蒸気のきらめきだ。
「下りたら凍るぞ!」
親切なことに能力を使用している張本人が注意喚起をしてくれている。凍るのは勘弁なので、私は地面に降り立たない方法を今まさに試そうとしていた。だが初めての試み故に成功するかは運次第だった。失敗すれば最後、私は氷像に成り果てるだろう。こんな真冬に凍るなど絶対に風邪を引く。視界に映る景色が建物の壁から屋根の上部へと変化していく中で、どこまで飛んで行ったのか分からない靴の姿が見えたような気がした。私が頂点に上がるのと同時かそれよりも早く、私の靴の片割れはくるくると回転しながら落下する。何よりも早いそれに当たればきっと怪我をするに違いない。
「息はぴったりだな」
ひとりでに落下してきたわけではないのに、私は靴に語り掛けるように言葉を口にした。生き物ではない何かに話しかけてしまうのは年をとったせいだろうか。重力に従って頂点から降下を始めた私の身体は、上昇するよりもずっと速度を持っていた。けれど靴の方が遥かに早く落下していくので、私は一瞬だけ能力を解除して距離を縮めた。
そうしてやっとのことで靴に爪先が触れる頃には凍った地面がすぐそこに迫っていた。間に合ってよかったと安堵する私を他所に、勝利を確信した深栖はどこか誇らしげにふんと鼻を鳴らした。地面すれすれで靴に触れた私は、再度能力を行使して宙に舞い上がった。踏みつけられた靴は霜を帯びながら砂地に半分埋まっていた。
「落ちないように気を付けることだな」
親切には親切で返す主義である。私は柔らかな声で深栖に言葉を投げると、角度をつけて上昇した身体をくるりと回した。丁度真下に深栖の頭が見える。これから起こることを予見していないのか、彼女はただ下から私のことを見上げているだけだった。逃げる素振りは微塵もない。私は狙いを定めるように丁度いい瞬間を見定め、躊躇うことなく能力の効果を切った。ただ物を落としたときよりも遥かに速く私の身体が地球に引き付けられていく。こうなってしまったら自分で自分を制御することは叶わなかった。
落ち行く先に居るのは後輩の深栖。急激に迫る私の様にみるみるうちに血相を変え、慌てて逃げていく姿が目に入った。これで彼女の身を案じる必要はなくなった。先を全く見据えない私の行動は、鍛錬場を大きく抉るという形に落ち着いた。
「百瀬!? 無事か!」
あまりの惨状に深栖が声を荒げた。立ち込める砂埃はひんやりと冷えていて、氷の破片がパラパラと服に当たった。私は彼女の言葉に返事をせず、視界を遮るぼんやりとした幕から飛び出した。
「これが本番だったら死んでたな」
油断していたのだろう。深栖が私に気付くのに一瞬だけ遅れた。その遅れが生死を分けることは、きっと深栖自身も痛いほど知っているだろう。彼女の眼前に飛び出した私はぐっと手を伸ばした。その手を深栖が払い、反対に私に向かって手を伸ばしてくる。体温を下げている今の深栖に触れられることは避けたかった。彼女の能力は私と相性が悪いのだ。私は伸ばされた手を制服越しに掴むと、勢いを利用して深栖を地面に背中から叩きつけた。しかし彼女の両足が私の首に絡みつき、叩きつけたと思った矢先に私の方が地面に転がっていた。視界に広がる一面の青は、今年一番綺麗だった。
「勝負あり、だな!」
私の首周りに脚を置いたまま、深栖が今日の訓練は終わりだと告げた。薄暗かった世界は光を取り入れ、太陽の明かりが放射線状に空に広がっている。煌びやかな世界は今まで生きてきたそれとは大きく異なっているように感じた。
「まさか深栖に負けるとは……」
私が事実を口にすると彼女は得意げにふふんと鼻を鳴らした。たった今彼女に負けたというのに、清々しいほどに悔しくはなかった。後輩の成長を肌で感じられたことに喜びさえ感じている。これが先輩としての最終的な終着点なのかもしれない。後輩は先輩を追い越していくものなのだ。
「もう一戦やるか?」
「いや、もういい。戻って寝るよ」
「せっかく早起きしたのにもう寝るのか!? 今日はこれからだぞ」
「深栖が夜明けから叩き起こしたんじゃないか。そのせいで私は眠いんだよ……」
私は天を仰ぎながら欠伸をひとつし、目尻に滲んだ涙を指の腹で拭った。これから任務に行かなければならないなんて到底考えられない。今日はもうサボってしまおうか。———そうしよう、今日の百瀬綾人は活動を停止することに決めた。
「よし、寝に戻るか」
そう思うと途端に気力が戻るのは人間の七不思議のひとつだった。私は深栖の脚の間から起き上がり、砂埃を払うのもそこそこに立ち上がる。建物の片面が神々しく輝き、朝特有の澄み切った空気が肺を占めた。そうして呼吸を繰り返していると、鍛錬場へと延びる唯一の道から足音が聞こえた。前にもこんなことがあったな、と心の端で万が一に備えると、それが杞憂だったことにすぐさま肩を下ろした。やって来たのは大きな風呂敷を両手に抱えた千代だった。
「あ、兄さま! こっちにいらっしゃったんですね」
重そうな風呂敷は千代の胸から上をすっぽりと覆い隠していた。声が聞こえなければ誰だか分からないだろう。
「千代、すごい荷物だな」
「姉さまのお着物です。持ってくるのが遅くなってしまってごめんなさい」
小さな歩幅でこちらに歩み来る姿は、幼い頃に私の後ろを付いて来ていたときそっくりだった。私は千代に歩み寄って大きく重い荷物を受け取ると、背後で「千代か!?」と破裂音のような声がした。
「六華さん! お久しぶりです」
「久しぶりだな!」
朗らかにはにかむ千代と、興奮故に声量がいつもの二倍になってしまった深栖。微笑ましい平和な日常は私の鼓膜を犠牲にせんとしていた。
楽し気に話す二人を引き連れて、私は職場の重苦しい扉を押し開けた。朝になったばかりなので人は疎らだった。竹原も瑞城もきっとまだ寝ているに違いない。年が明けて数日経つが、未だに正月気分が抜けないのはいかがなものか……まぁ、人のことは言えないのだが。
「仕事はしないに限るしな」
物好きな人たちを横目に、私は背後で繰り広げられている会話を何の気なしに聞いていた。調子のお伺いから始まった会話は近所の甘味屋の話に変わり、どこから仕入れたのか分からない噂話に変わっていた。私たちと居るときの深栖は幼く感じるのに、千代と話している今の深栖はどこか大人びているように見えた。やはり年下との会話は人を少しだけ成長させるのかもしれない。私はちらりと愉快な様を見やったあと、視線を前方に戻した。
「っと、すまん」
私がぶつかりそうになった相手———烏の人身売買の一件で保護した女の子、もとい笑子という名の少女は、私に軽く会釈をして職場から出て行った。名前とは裏腹に一切笑わない少女。あんな場所に居たのだから無理もないが、もう少しまともに会話が出来ればいいなと思ってしまう。おまけに趙野が少女のことを気に入ってしまったらしく、これから医務室の手伝いをさせていくらしい。長い付き合いになるのは確定したわけだ。まぁ、長い人生全てこれからというもの。こうなったらいい、ああなればいい、は今すぐでなくていい。
「そうだ兄さま。父さまと母さまは遅れて来るそうですよ」
可愛い妹からの報告に「分かった」と返事をし、私は二階へと上がる階段へ足をかけた。上りきる前に一階から威勢のいい声が聞こえた。同じく烏の一件で重傷を負い、私たちが保護した少年は未だ医務室に居るらしい。全快したら彼には本格的な調査が入ることになるだろう。
「賑やかですね、六華さん」
「朝から元気でいいな!」
暢気な会話に胸中でフフッと笑みを零しながら、私たちは自宅へと向かった。




