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第二章 十六『変わらぬ面々で来年も』

 脳内にこびり付いて離れないものは山のようにある。初めて家族みんなで夏祭りに行ったときの、りんご飴の甘さ。ふいに使った能力に父が眉を下げた顔。初めて操師を殺したときの銃の軽さ。新室さんの、冷たくなっていく身体の感触。良いことも悪いことも、全てひっくるめて今の私を作り上げていた。



『こんな奴ら死んじゃえばいいのよ!』



 記憶の中にいつまでも居座る金切り声は、私の意思を確かめることなく再生される。忘れたころにやって来るのは何か考えがあってのことだろうか。絶対に忘れるんじゃないぞ、と後ろから囁かれている気分だった。



『なんで……なんで生きてるの!!』



 何年も前のことだ。それこそ私が異師育成所を出たばかりの頃。当時の別棟を囲んでいた塀は背丈ほどの高さしかなく、入ろうと思えば誰でも簡単に出入り出来たし物を投げ込むことも容易だった。操師という存在へ向ける感情と対応が、今よりも過激で杜撰であった。それが原因なのかもしれない。


 ある時、操師に恋人を殺されたと主張する女性が壁をよじ登り、中に居た子どもたちを包丁で端から切りつけたことがあった。そのある意味勇気のある行動に感化された市民たちは、女性と同じく次々に壁を越え、別棟内で大人たちによる私刑が行われた。緑の芝は赤に塗り替えられ、壁や建物には血液が飛び散っていた。血みどろなんて言葉では全てを表現しきることは出来ない。どれだけ傷つけられても死ねない子どもたちの悲痛な声は、私が駆け付けたときには既に消えていた。



『あっ……———』



 希望が失われた目は虚無しか映していなかった。どれだけ刺されようと、殴りつけられようと、口から洩れるのは音のない息だけ。飛び散る血が私の頬に付く。生温い感覚。指先で触れれば潤滑剤のようにぬるぬるとしていた。


「————————っは!」


「悪夢は嫌じゃの」


 汗を滲ませながら勢いよく起き上がった私の横で、棗は木櫛で髪を梳きながらそう言った。部屋の窓から差し込む明かりは弱弱しく、空は薄曇りで青くはない。


「鳥が鳴きだすにはまだ早い。まだ寝ておれ」


 彼女はこちらをちらりとも見ることなく髪を梳き続けていた。布団から足の先を出してみれば、冬の寒さが即座に体温を奪っていく。目まぐるしく過ぎた日々に身を投じていれば、気づいた頃には世間は冬を迎え入れ、ついには年末まで来ている始末。凍えるような寒さは部屋の端からじわじわと侵食していた。私は冷えた足先をすぐに布団の中へ戻し、枕に頭をついてから彼女を見上げた。青みがかった白い着物は、彼女の長い黒髪を一層美しく際立てる。梳かれた髪の束がさらさらと音を立てて落下していく。薄明りに縁取られた輪郭はどこか物寂し気だった。


「寝方を忘れたか?」


 肩口から私を見下ろした彼女の顔はいつも通り。相変わらず何を考えているのか分かりにくいその表情は柔らかく温かいものだった。


「添い寝がないと寝られないのかのぉ」


 まるで子どもに投げかけるような呆れた声。その声の中に優しさが含まれていることはなんとなく分かっていた。


「それは棗の方なんじゃないですか?」


「ほう、言うようになったの」


 楽し気な声音はどこまでも弾む鞠のよう。感心したらしい彼女は木櫛を脇に置き私の横に寝転んだ。布団の上に寝転ぶ私と、畳の上に寝転ぶ棗。顔同士の距離はかつてないほどに短い。僅かな身長差は、こうなってしまえばさして気にもならなかった。


「寝ぬのか」


「目が覚めてしまいました」


 繰り返される瞬き。長く緩やかに曲がった睫毛が綺麗な瞳を縁取っている。微かに聞こえる呼吸音は彼女が今このときも生きていることを証明していた。操師であれ生きているのだ。私と同じように心臓が動き、息をしている。しっかりとそこに存在している。


「早起きした褒美に一つ話でもしてやろう」


「話、ですか」


「愉快な話じゃ。……むかしむかしある山奥に爺さんと婆さんがおった。子どもの居ない夫婦は我が子を切に願ったが、それでも子宝には恵まれなかったのじゃ———」


「桃太郎ですか?」


 棗が語り出した話の題名を口にすると、彼女は黙ってこちらをじっと見た。話を遮ってしまったからか、私が桃太郎を知っていたからか、はたまたその両方かもしれないがむっとした顔でこちらを見続けている棗がほんの少しだけ恐ろしかった。もちろん人間としての意味で。


「なんじゃ、つまらんのぉ」


 彼女は口を尖らせながら不満を露にした。楽し気な彼女の気持ちを害してしまっただろうか。口を挟まず話を聞いていればよかったという後悔は、どんなときも僅かに遅かった。


「すみません」


「綾人は、結末まで知っておるのか?」


 目を細めながらこちらを試すかのような物言いに、私は静かに息を吐き出した。微かな頭部の揺れに彼女の前髪がさらりと額の上を滑る。お互いに薄暗闇の中に寝転んだまま、私は棗の問いかけに記憶の棚を引き出した。


「……桃から生まれた子どもが鬼を倒し住民に感謝される、ですよね」


「子どもが桃から産まれるわけないではないか、なんじゃその話は。さてはお前、そのあたりの教育を受けておらぬのだな?」


 どうやら私と棗では桃太郎の内容が異なっているらしい。桃から産まれないというのなら、一体桃太郎はどこから誕生するのだろうか。私の知らない話には興味があった。しかし憐れみを含んだ眼差しは居た堪れない。


「誰にも教えてもらえぬというのは何とも悲しいことじゃな」


 棗は同情をはらんだ言葉を放ちながら身体を倒して仰向けになった。横顔の造形はこの時間であっても美しい。口を開かなければ男女問わず多くのものが惹かれることだろう。結婚にしてもそうだ。私でなくとも素敵な人間などこの世にいくらでもいるはずだ。それなのに彼女は私を選び、今日もこうしてひとつ屋根の下で生活している。不思議というか違和感というか……棗が私とともにいる現実がやはり不可解だった。


「これでは駄目だな」


 彼女に幸福を感じてほしいと思ったあの日の夜。お互いに交わした結婚という名の相棒契約は、今も尚効力を持っている。ならば不可解や違和感に目を向けてはいけない。全て纏めて彼女であるならば、私はそれを丸ごと抱えるべきなのだ。信念は強く、揺らいではいけない。


「何が駄目なのじゃ」


 私がボソッと呟いた言葉に彼女が反応を示す。天井を見ていたはずの顔は再び私の方へ向き、硝子玉のように輝いた瞳が私を真っ直ぐ捉えていた。


「なんでもありませんよ」


「なんでもないわけないであろう。駄目とは何のことじゃ」


 逆光に照らされた黒い影が勢いよく身体を起こせば、細く柔らかな髪が揺れた。まるで簾のように、床に伸びた髪越しに部屋の奥が微かに見える。そうして衣擦れ音を湛えながら、じりじりとこちらに近づいてきた。


「隠し事は無しじゃぞ。どうせいずれバレるのじゃ、今白状せい」


 言いながら私を逃がさんとばかりに覆い被さった彼女の顔が、闇と相まって魅惑的に視界を覆いつくした。顔を挟むように置かれた手が私の耳の先に触れている。伝わってくる熱はそこらに居る人と少しも変わらない。


「綾人」


 整った唇が私の名前の形に動く。目が離せないのは彼女が何か使っているからだろうか。それとも、私の気持ちが目の前の人間に向き過ぎているからだろうか。いずれにしても視界一帯を覆いつくす一人の人間は、私のことを真面目な顔で見下ろしていた。


「綾人」


 時間とともに昇り来る太陽は、薄く広がった雲を美しく着色していく。早起きした者だけが見ることを許された刹那の景色。朝の涼やかで透き通った空気の香りが、じわじわと締め切った部屋に充満する。


「くまが出来てますよ、棗」


 私は左手でそっと彼女の目元に触れた。よく見ても気づかない程度の薄いくま。普段は化粧で隠しているのだろうか。寝なくても死なないと口にする彼女には縁遠いものだと、私は無意識にそう思っていたのかもしれない。


「そんなものない」


「ありますよ……やっぱり寝た方がいいです」


 生きとし生けるものにとって、やはり睡眠は何よりも大切なものなのだろう。それは異師も操師も一般人も関係ない。たとえ寝不足で死に至ることがないとしても、心身を癒すという意味では必要不可欠なことなのだ。


「ここで寝てください。着替えるなら着物貸しますし」


 親指で彼女の目尻をそっと撫でれば、彼女は目を細めてからゆっくりと開く。ほのかに香る花のような甘い香りは、すっかり明るくなった室内でも褪せることはない。彼女が僅かに頭を動かすと、輪郭を保った香りが私の周りに広がっていくのを感じた。まるで部屋中を花の優しい香りで包んでいくかのような……そんな感覚になる。遠くにある玄関の向こうでは、まだ早朝なのにも関わらず靴音がひとつ鳴った。どこかへ出かけるのか、出勤か。いずれにしても動き出しの早い人だった。


「ふぅ」


 私に覆い被さった棗は大きく息を吐き出すと、そのまま私の右肩目掛けて突っ伏した。不意に加えられた重さに驚くも、彼女は全く意に介さずこう口にした。


「ならばここで寝る」


「……ここで?」


 自分の頭を私の肩に乗せ、右腕も同じく私の身体上に置いたまま、彼女は寝ると口にした。布団の上でも畳の上でもなく、上半身で私を下敷きにしたまま寝ると言った。一体全体どういうことなのか、働き始めたばかりの私の脳では分からなかった。


「棗……?」


 小さすぎず、大きすぎず。そんな絶妙な声量で彼女の名前を呼んでみた。しかし悲しいことに何の反応も見られない。あるのは棗の質量と、近くで聞こえる呼吸音のみ。最早身動ぎひとつ許されない今の状況に私の脳はゆっくりと、けれど確実に覚醒しつつあった。この状況で二度寝出来ない自分が情けない。


「はぁ」


 太陽が完全に昇り人々が活動を始めるにはまだまだ時間がある。私だってもう少し寝ていたい。けれど棗の布団という役目を放り出すのは些か気が引けた。彼女に寝ろと言った手前、重いから起きろと言うのも変な話だろう。


「どうするかな……」


 私は視界に広がる天井を眺めながら瞼の開閉を繰り返していた。首筋に触る彼女の黒い髪は今日も変わらず綺麗だった。





 人々の活動音は今日も健在で、それぞれの営みがそこにあることを実感する。毎日同じことの繰り返しでも、それが安心感の種になることもあるのだろう。退屈な変わり映えのしない日々は平穏と言えるのかもしれない。


「おはよう、百瀬!」


 どこか上機嫌な竹原は、私に会うや背中を軽く叩いてきた。何か良いことがあったのだろうか。さてはついに付き合い始めたとでも言うのだろうか———否、そういうことではないらしい。職場に居る異師と名の付く者は、どれもかれも皆どこかそわそわして落ち着きがない。口数が多くて部屋の中は普段より賑やかだった。そう、今日は異師たちが評価を受け取る日。年末は毎回このような異様な空気に包まれていた。


「おはよう、竹原」


「なんだよ元気無いな。風邪でも引いたか?」


「引いてない、今日もしっかり二度寝したしな」


 私はあれから彼女とともに二度寝することに成功した。人間やれば出来るらしい。心なしか身体がすっきりしている。


「本当に好きだな、寝るの。異師向いてねーんじゃねぇの?」


「それは私も思う」


 そもそも労働に向いている気がしないのだ。異師などという過酷な仕事に向いているわけがない。毎日温かい布団で寝れて、そこそこの食事が取れれば十分。世界を良くしようなんて、町の治安を守ろうなんて、異質とも言えるこの能力がなければ手を出さなかった。半ば強制的なその使命はやはり私には合っていない。


「そのニヤついた顔どうにかしろ」


 いくら友人とはいえ口角の上がり続ける顔は気味が悪い。異師になって何度目の年末だと思っているのだろうか。評価云々などさして良いものでもないというのに。


「仕方ないだろ。高評価が貰えることは確定してんの。ニヤけずにいられるかっての」


「今年、言うほど活躍してたか?」


「隣で何見てたんだよ!」


 上機嫌から僅かに不機嫌になった友人がおかしくて、私は隣でふっと息交じりに笑った。竹原がどれだけ頑張って仕事をしているのかは知っている。今年もきっと良い評価が貰えることも確信している。だからこそ、私はこうして揶揄うのが好きだった。


「おはようっす、百瀬さん。竹原さん」


 軽快に靴音を鳴らしながらやって来た胡口に、私たちも朝の挨拶をする。いつも通りの彼の表情は、職場内で私の次に日常を演出していた。


「今年は良いの貰えるといいな」


「そうっすね! 頑張ったっすから、俺」


 竹原の言葉に笑顔で返す胡口の姿はあどけない子どものようで、私は何も言ってやることが出来なかった。励ましも応援も彼にとってはただの圧力で、慰めのひとつにもなりはしないと知っていたから。


「そろそろ行くか」


 わらわらと人の波が動き始めた。皆が向かう先は地下講堂。一階に下りる階段の真裏に存在する、日光の届かない階段をそれぞれがさらに下っていく。無論私たちも人波に合わせて歩き出す。こんなものに参加するくらいなら町の治安を守る方がずっと性に合っている。憂鬱さに首を回しながら、私は竹原と胡口に挟まれつつ階段へと足を踏み出した。





 別棟への階段とは違い、地下講堂へと抜ける階段は綺麗なものだった。ゴミどころか埃のひとつも見当たらない。待遇の差が、差別の心が、何気ないありふれた場所に散見されていた。長い長い階段を下り終えると、目の前にはだだっ広い空間が現れる。数えきれないほどの椅子は端から奥までひたすらに整列し、几帳面な人がいるのだろうと思うほどに美しく並んでいた。

 全国の異師が来てもけして埋まらない椅子の数は、毎度のことながら見事だった。誰かの能力であろう橙の鮮やかな明かりが空間と階段を照らし、私たちに陰る隙も与えはしない。異師が真の世界の頂点であると言わんばかりの、派手過ぎない装飾が講堂内を飾り立てる。


「どこに座るかなぁ」


「前の方にでも座ったらいい。私は後ろに居る」


 この場所には自分の席という概念は存在しない。各々がどこに座り誰と隣になろうとも、上層部が指摘することはなかった。


「そんなこと言うなよ……しょうがない奴だな、俺も後ろに座る」


「なら俺も一緒に座るっす」


「気を使わなくていい」


「使ってねぇよ。俺がそうしたいだけ」


 竹原はそう言って一番後ろの隅の椅子に腰かけた。表彰台である舞台はかなり遠い。この位置ではたとえ寝ていたとしても前からは見えないだろう。座らないのか? とでも言うように竹原がこちらをじっと見やるので、私は溜息をひとつ吐きながら友人の隣に座った。それに続けて胡口が着席すれば、椅子の間に出来た通路を行く瑞城が「あ」と声を発した。


「なんでこんな端っこに座ってるの? もっと前行こうよ」


「参加意欲の薄い人間はここでいいんだよ」


「だってさ」


「謙虚なんだか面倒くさがりなんだか……」


 呆れたと言わんばかりの言葉に、私は視線を前方へ向けて抗議した。ともすれば胡口の隣に瑞城と一緒に居た深栖が座り、瑞城も何も言わずその隣へ着席する。意図せず百瀬組の主要人物が集まったことは心なしか不満だった。なんで真似するんだ、とか。もっと前に座れよ、とか。そんな幼い子どものような感情が湧くのは、存外私がこの人たちを好きな証拠なのかもしれない。そうして始まった年末の表彰式。舞台上には進行役の見知らぬ男性異師が立ち、副連長、連長の順に長い挨拶が披露された。



「この異師連本部に集まる皆の姿を、今年もこうして見れたことに安心感を抱いています。今年もよく頑張ってくれました。異師連を代表してここに感謝を。本当にありがとう。全国で見れば亡くなった者も少なくはありませんが、それでも治安維持に徹してくれたおかげで今日があります。君たちの仕事は素晴らしいものです。ぜひ来年も励んでいただきたい」



 全国の参加可能な異師が一堂に会したこの地下講堂。連長の言葉が上っ面の、大して感情の籠っていないものだったと分かっていながら、私は不覚にも感動してしまっていた。自分たちの仕事が認められたようで。日の当たらない毎日でも見てくれている人がいると実感できたようで。報われたと、そう思ってしまった。きっとこう思わせるのが連長の真の目的なのだろう。異師であれば誰しもが向けられたことのある負の感情。一般人に歓迎されることのない世界で、連だけが私たちの存在を認めてくれていた。



「そして、出来るならば自分の身も大切にしていただきたいと思っています。日々の過酷な任務故にそこまで目を向けることは出来ないかもしれません。それでも、君たちは私たちの大切な仲間なのです。たった一人であっても、仲間の死は耐え難い。横や前に居る仲間に涙を流させないためにも、どうか頭の片隅にでも置いておいてください。変わらぬ面々が来年もこの場に集まることを、私は願っています」



 そう締め括り、連長は頭を下げて降壇した。周辺からはすすり泣く声と鼻水を啜る音が無数に聞こえてくる。皆連長の言葉に救われてしまった。異師を辞めようと思っていた人も多いだろうに……これではきっと辞められない。辞める瞬間にこの言葉を思い出し、死にかけた瞬間にもうひと踏ん張りする力を起こすのだ。言葉を操り、部下を自分の掌に乗せている。連長を連長たらしめているのはおそらくこの他人の心を掌握する話術なのだろう。欲しい言葉を欲しいときにくれる人間は、有無を言わさず善人になれるのだ。例えそれが悪人でも。


「それでは表彰に移らせていただきます。まず初めに各支部ごとの表彰者です————」


 よく通る進行役の男性の声は、日本最北端に位置する支部名を口にした。続けて支部の操師討伐総数、野良の対処総数、総合的に支部に一番貢献した異師の名を読み上げ、地下講堂は端から端まで拍手の音で満ち満ちていた。呼ばれた異師は登壇し、降壇したはずの連長が賞状を持って再度舞台上に現れる。賞状を授与すれば静まったはずの拍手がどこからか湧き出て、全体を覆いつくすように広がった。それを支部の数だけ繰り返していく。


 支部自体全国に数か所しかないため、一連の流れを含めてもさほど時間はかからない。欠伸をしながらうつらうつらしていれば気づいた頃には終わっている。ほんの少し……いや、かなり退屈な時間を耐えるだけだ。


「つまんなそうにするなよ」


 竹原が肘で私の脇腹を小突いた。退屈するものは仕方がない。表彰だの成果発表だの、何が面白いのかちっとも分からなかった。


「寝ないだけマシだろ」


「寝たら引っ叩くからな」


 こいつはどうしてこうも真面目なのだろう。力を抜いてだらけるのも仕事の内だと思えないものか————無理だろうな。私ははぁ、と息を吐き出して、前方を見据えながら胸の前で腕を組んだ。興味のない物事は時間の経過をいつもの何倍も緩やかなものにしていた。そうしているうちに男性異師は私たちの支部名を口にし、一つひとつ今年の実績を皆に示していった。


 私たちの中で一番貢献したのは————残念ながら深栖だった。彼女は登壇のために立ち上がると、竹原にドヤ顔を披露した。布切れを引き千切らんばかりの悔し気な彼の表情に、私の眠気がほんの少しだけ吹き飛んでいった。





 全ての表彰が終了し、各々が自分の職場へと帰っていく。年に一度しか顔を合わせない名も知らぬ同僚たちとは、ついぞ今年も言葉を交わさなかった。


「新しい子いたね! 初々しくて可愛かったなぁ」


 百瀬組の部屋で瑞城が楽し気に言った。若者が入るということは異師という職業が続くということ。未だ減ることを知らない怪奇的な事象は、これからも私たちのことを惑わすのだろう。


「でも今年はあいつ見なかったっす……毎年見る顔が居ないってのは寂しいっすね」


 胡口の言葉に、室内の空気は途端にしんみりとしたものに変化した。今年は重要任務が入って出られなかったのかもしれない。もしかすれば体調不良だったのかもしれない。そんな気休めが的を得ていないことはこの場に居る誰もが知っていた。毎年休まず来ていた人間が来なかったとなれば、大抵そういうことなのだ。


「おいこれ見てみろよ!」


 空気を裂くように声を上げて部屋に入って来た竹原の手には、一枚の紙が握られていた。その紙は各支部ごとの成績表のようなもので、個人の貢献順位が全て記されていた。誰よりも早く入手してきたらしい竹原は、私の眼前に紙を突き出すと自慢げに鼻を鳴らした。


「俺二位だったぜ! 深栖にはかなりの差で負けてるけど、それでもお前には勝った!」


「あぁ、そうだな。よくやったよくやった」


「もっと感情込めろって! だから言っただろ、今年は確定してるって」


 ここまでくると相手をするのも億劫になってくる。私はこいつと何年も一緒に居るのに、上手い受け流し方が分からなかった。ちなみに私の順位は三位。正直言って誤差だった。突き出された紙をちらりと見やった胡口は「またっす」と落胆の声を上げた。視線を下へとずらしていくと、彼の名前は最下部に見て取れた。野良の対処件数はぶっちぎりで多いものの、操師討伐数は限りなくゼロに近い。総合的な成績となると低い成績が高い成績の足を引っ張ってしまうため、彼は今年も最下位だった。


「これで何度目だ?」


 竹原が疑問を口にすれば、胡口は「異師になってから割とずっとっす」と唇を嘴のように尖らせながら言った。どうしてここまで操師討伐数が低いのだろう。仮にも指定異師である彼の実力はよく知っている。他人を従わせる強い能力は勿論操師にも有効で、有利か不利かで言えば考えるまでもなく前者だった。


「俺も上位になりたいんすけど、どうしてもダメなんすよねぇ。殴れても銃口は向けられないっていうか」


 胡口は悲しいほどに優しかった。操師に銃口を向ける行為は気持ちのいいものではない。間接的な殺人。否、最早直接的と言っても過言ではない。それは操師になった者が一番最初に当たる壁であり、乗り越えなければならない試練だった。


「まぁ、気持ちは分かるけど……仕事だって割り切らないとね」


 瑞城の言うとおりだった。異師になってしまった以上、操師討伐と言う名の殺人は業務に組み込まれてしまっている。皆が皆銃口を向けられないとなれば、この町の均衡が崩れてしまうかもしれない。日本異師連が『操師は不介入条約に違反している』と定めた以上、反論することも業務を放棄することも叶わなかった。私たちは所詮会社に使われている兵隊の一人にすぎない。


「そうっすよね。分かってはいるんす……それでも、なかなか」


 ヘラッと笑って見せた胡口は、どこか寂しそうな表情を奥から覗かせていた。そうしてからぼそっと「子どもが好きなせいなんすかね」と口にした。妹の千代と同い年の青年はまだうら若い二十五歳だ。感情も思考も、これからどんどん大人になっていくに違いない。だから、今すぐ出来るようになれだとか、何も考えるなだとか、そんな鬼のような助言は誰もしなかった。彼の長所がその優しさだと言うのなら、それを最大限伸ばしてやるのも上司の———先輩としての使命だった。


「おいおいだ、おいおい手柄を増やせるようにすればいい。今日のところは業務終了だ。パーッと飲みにでも行こう」


「それお前が仕事したくないだけだろ」


「年末だぞ、誰だって休みたいに決まってる」


「そうね、私も今日くらい良いと思う!」


 怠けたい私の味方が多かったおかげで、百瀬組の今日の仕事は終了した。それでも伝令が入れば出なければいけないのだが、そんなことを気にする人間は幸か不幸か一人も居なかった。私たちは目配せをしながら、他の者にバレないよう時間をかけて一人ずつ退社した。そうして指定した飲食店に再度集まると、寒空の中にほっこりと温かな気持ちが沸き上がった。それぞれのにこやかな笑顔が眩しかった。


「一年間お疲れさまでした」


 真昼間から飲む酒ほど美味しいものはない。この感情を組の皆で分かち合えたことが心なしか嬉しく、私はいつもの倍以上の酒を胃袋に収めることとなった。私は存外、この人たちのことが好きだったのかもしれない。





 その日の夜更け。どうやって帰ったのか、気づくと自宅の布団の上で制服のまま大の字で寝ていた。おおよそ竹原か棗辺りが私をここまで運んだのだろう。記憶が無くなるほど飲んだのは成人したとき以来かもしれない。ぼんやりと動きの悪い頭と身体を何とか動かして、私は一杯の水を飲んだ。部屋の中に棗の姿はなかった。


「いつもどこか行くんだよな」


 夜は操師の、妖たちの世界。妖の姫である棗にもそれなりに仕事があるのだろう。私は薄明かりに照らされた室内を何の気なしに眺めた後、酔い覚ましを兼ねて町をぶらつくことにした。適当に足を入れた草履は安物のそれで、足になれて随分柔らかくなっていた。


「ハハッ」


 静寂に包まれた職場に草履の音だけが響き、冬の透き通った空気と相まって私の耳に気持ちよく届いた。未だ酒の抜けきらぬ身体では、ほんの些細な物音が愉快だった。ゆったりとした足取りで職場の入り口まで歩き、ピッタリ閉じている扉を押し開ける。ギッと軋む音とともに隙間から差し込む自然の光に目を細めた後、私の視線は足元から動かせなくなった。


「————————————————————————……ぇ」


 正直理解が出来なかった。夢の中に居るような心地だった。扉の先で、私の目の前で、血塗れの胡口が地面に突っ伏して死んでいた。スパッと切られた首元から流れ出る真っ赤な血液が、乾いていたはずの地面をじわじわと濡らしていく。その液体は私の草履の先までやってきて、終には綺麗に編まれたそれが赤を吸い上げた。傍らに落ちている成績表は白の範囲をどんどん狭めていき、紙としての役割を放棄しつつあった。私の酔いは、完全に冷め切っていた。





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