表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/38

第二章 十三『鉄格子の外と中』

 喉元を震わせる本部長は副連長の問いに答えた後、数分してから再び口を開いた。


「私は、元締め……じゃ、ない」


 絞り出すように放たれた言葉はいとも簡単に雨音に負けた。時間を経るごとに顔色が悪くなっているが、副連長は一歩も動かずただただ冷たい目で見下ろしているだけだった。


「では、本当の元締めは誰なんですか」


 一言も発さない上司に代わり、私が傷ついた仲間に問うた。泥水を跳ね上げる地面に膝をつく女性は、傍らで焦った表情を浮かべながら傷口を袖で押さえていた。


「か、烏の名前は、知りません。いつも面を被っているから、性別もよく……。ただ、おそらくは女性です。あの歩き方は、男……とは、とても思えない。それから、あの人は……野良です」


 死に掛けの人間が振り絞った手掛かりにどれほどの信用性があるかは分からない。だがこの場面で、奥さんの命に手をかけられた状況で、偽り事を口にする理由も同様に解らなかった。


「お前が市場に関わっていた理由は?」


 金の切っ先は、今も尚下ろされることなく女性に向けられ続けている。


「……そうしなければ、いけなかったんです。夢の命を守るには、私には、それしか出来なかった。誰かに言えたら……もっと、違ってたんだろうか」


「命を守る……脅されてたんすか」


「夢とは————ここで出会ったんだ。任務で、この辺に来たときに……売られてた。一目惚れだった。だから、買った。金で、夢を買った。間違いだったとは思わない。けれど、正しかったとも思えない。誰かに、買いましたとは……言えなかったが、弱みが増えたって、私は彼女を愛してる。だから、言いなりになるしかなかった。子どもを、操師を、望まれるがまま烏に流した。私は異師なのに……ハハッ」


 掠れて消えていきかける声で、まるで懺悔でもするかのように言った。彼の奥さん———もとい夢さんは、突き刺さった棒を引き抜こうと必死になっている。出会った過程やその手段が綺麗なものとはけして言えないが、それでも二人の関係を嫌悪することは出来なかった。しかし、子どもと操師を流していた事実は目に余る。情状酌量の余地はない。


「それは単に弱かっただけだ。能力的にも、精神的にも」


 辛辣な言葉が前方に投げられる。副連長は冷淡で、残酷で、優しさの欠片なんてこれっぽっちも見せはしない。厳しいだけの人。けれどその厳しさの中に悲しみが含まれていることを、私は見上げた横顔から知った。


「男どもは皆女を買う。だから別にお前がそうであったとしてもきっと評価は変わらないし、助けを求められたなら手を差し伸べた。だが商品を斡旋していたと言うのなら……もう仲間とは思わない。異師と名乗ることは、許さない」


 副連長はそう言いながら向けた棒をゆっくりと下ろしていった。何かを口にすることが憚られる空間。私たちには分からない二人の世界が、ガラガラと音を立てて崩れていった。

 雨の降り止む気配はどこにもない。同様に、この場に居る誰もが笑顔で今日を終わらせることは出来なかった。





 それから二日して、私たちは人売り市場よりずっと奥にあるだだっ広い空き家に居た。かつては富豪でも住んでいたのだろう。何もない更地の真ん中に、ポツンと大きな家が建っている。中に入って見れば外見とは明らかに不釣り合いな芝居小屋が目の前に広がり、じめっとした重たい空気が蔓延していた。


「すごいな!!」


「しー。静かにするっす。バレちゃうっすよ」


 感嘆声を上げた深栖に胡口がすぐさま黙るよう言った。その様は胡口の能力によって何ひとつ見えはしない。私を含めた四人は、現在誰からも認識されることはなかった。薄暗がりの室内には既に数多の人が集まっていたが、幸いなことに誰一人深栖の上げた声に反応を示さなかった。


「本当に今日なんだな?」


「はい、間違いないです」


 坂百合副連長の部下からただの能力持ちへと降格した楠浦本部長は、投げかけられた問いにすぐさま返事をした。あれから先生の治療を受け回復した元上司は、棗に対する問いにこう答えた。



『二日後、芝居小屋を模した建物内で競りが行われるんだ。容姿から言葉遣いまで、烏自らが選定した〝一級品〟のみが出品される。きっと彼女はそこに居るはずだよ』



 そう告げた後『それから』と言葉を繋いだ。



『競りには毎回烏自身も参加してる。自分で商品たちを売るためにね。だからおそらくは今回も来るはずだよ、烏の面を被った元締めが』



 観念したのか包み隠さず一切を話した楠浦さんは、変わらず恐怖の表情を浮かべながらもどこか安心したようだった。奥さんの身の安全は一人のときの何倍も強固に確保される。それだけで不安要素の多くは拭えたのかもしれない。


「もうすぐ始まると思います」


 真っ直ぐ前方を見据えながら言う楠浦さんの右手には、副連長が生成した金の腕輪が嵌められている。万が一逃走を図った際追えるようにするためらしいが、今は成金のような印象しか与えてはくれなかった。傍らには相変わらず女性が寄り添い、彼の手をぎゅっと握っている。


「一応これからの行動を伝えておく」


 危うく聞き逃してしまいそうなほど小さな声で、私の僅か頭上より声が降る。その声からはやっぱり感情が読み取れず、姿が見えないだけに背筋が一瞬ゾッとした。


「棗が出て来次第、私は烏へ実力行使を開始する。お前たちは各々参加者と出品された人間の保護、楠浦と夢さんはその場で彼らの補助を。烏が逃走を図った場合、私と百瀬で追うこととする」


 それ以外は各自臨機応変に、と付け足し、それ以降一言も発することはなかった。要するに自分たちで考えて行動しろ、ということらしい。なんとも雑な説明だ。だがそもそも深栖が居る時点で、事前の打ち合わせなど用を成さないことは分かりきっている。型にはまらないと言えば聞こえはいいが、ただ単に自由奔放なだけ。大それたことはきっと何も考えちゃいない。


「保護だな! 任せろ!!」


「だから静かにするっすよ。姿消してる意味無くなるっす」


「ほら、もう始まる。緊張感持て」


 視線の先にある舞台上。人々の視線が集まるその先に、つい二日前に見たのと同じ人影がひとつ現れていた。


「紳士淑女の皆さま、大変お待たせいたしました。本日も見目麗しい一級品を取り揃えておりますので、どうぞ最後までご覧くださいませ」


 流暢な語り口は演目前の挨拶のよう。人影———おそらくは烏の元締めはたったの一度も噛むことなく、すらすらと言ってのけてから一礼した。どこからともなく拍手が巻き起こる。この建物内に居る人間の目的が一致していることに私は心底嫌気がした。


「ではさっそく一品目。色素の薄い茶色の瞳、薄く平らな腹、それでいてしっかりとした体躯。齢十三の少年です」


 簡素な説明が終わると、舞台上の天幕が勢いよく引き下ろされた。僅かに跳ねた水滴が真上まで昇った太陽に照らされキラキラと輝いた。


「おぉ」


「見事ですね」


 参加者が口々に感想を述べていく。輝いた水滴が落ちた先には腰ほどの高さの檻。中には狭そうに足を抱える一人の少年が、陽光に肌を照らされながら静かに収まっていた。


「一発殴っていいか!?」


「駄目だ」


 深栖の言葉に一言返せば、彼女は苦しそうに息をゆっくりと吐きだした。胸糞の悪さは私にだって分かる。棗が登場するまでもなく、今走り出したいのを止める理由はおそらくない。だが今じゃない。

 演目の始まりは緊張感に満ち満ちている。これが多少なりとも和らがなければ、烏を捕らえることも彼らを助け出すことも出来はしない。私たちに出来ることは時間経過を待ち、ぎゅっと拳を握って耐えることだけだった。


「二円から始めましょう。いかがですか?」


「二円六十銭!」


「いいや、二円九十銭!」


「三円出そう」


 少年を何としても手に入れようと、いい年した大人たちが声を張り上げる。そうやって販売価格が釣り上がっていく中、檻を囲むように蝋燭の灯がひとつ、またひとつと増えていった。頭上からは太陽の光。下からは橙の蝋燭の灯り。揺らめく火に映し出された少年の顔は、多額の金に反して明るくはない。


「五円!」


「五円が出ました! 他にいらっしゃいませんか? いかがでしょう……では、五円で落札です」


 軽快に、愉快に、烏は売却を宣言しながら手を叩く。それに続くように参加者も手を叩けば室内は大きな拍手で包まれた。何もめでたいことじゃない。人が人を買っただけだ。笑顔で拍手をするな。悔しそうに手を叩くな。

 脳内に彼らとは相対する感情が湧き出て、溢れて、零れていく。けれど特段何か出来るわけではない。私はただ正面を向いてその時が来るのを待つのみだった。


「それでは続いて、二品目————」


 烏は自らの手で檻に収容した少年を下げ、同じ色形の柵を引いて来る。違いがあるのは中身だけ。檻に収められた商品は、短く乱雑に切られた髪の隙間から瞳をキラリと光らせていた。

 その子は争奪戦の末十円で売れ、続いて競りにかけられた一歳の子どもは十二円で売れた。助けを求めるように反抗し鞭で打たれた少女は二十円で買われていき、檻に入ることを逃れた少年は髪を掴まれながら登壇し三円で売却された。値段だけを見れば安価とは言い切れない。が、命の売買としては破格の安さだった。


「あいつも、こいつらも、みんな人でなしだ」


 抑揚のない深栖の物言いには賛同する。この空間内では呼吸することを身体が拒絶していた。


「……でも、子どもたちがみんな不幸とは限らないと思うのです」


 柔らかな声が、競りの中でも際立って聞こえた。


「親に捨てられ、行き場を無くし、そうしてここに行きつく子もあると聞きます。売られ買われの関係でも、野犬以下の生活よりはずっとマシでしょう? 温かいご飯が食べられて、綺麗な布団で寝られて……それが小さな幸せ。人道的におかしくとも手に入れたい些細な幸福なのですよ、きっと」


 まるで過去へと思いを馳せるように、夢さんは瞬きをゆっくりしながら言った。


「あたしには理解出来ない」


「出来なくて当然。それが正しいのだと思います」


 彼女は腹の前で組んだ手を握り直しながら、たった今買い手のついた子どもが檻ごと消えていくのをただただ眺めていた。親の無い子どもに主人をあてがうこと。これを幸と取るか不幸と取るかはその子による。恵まれた私なぞには到底分からない境地だった。


「続いての商品はこちら」


 何人目かも数えるのをやめた烏は、重く頑丈な檻を引き摺って何度目かの登場をして見せた。ここでふと疑問が浮かぶ。楠浦さんの見解を信用するなら、競りを取り仕切る烏は女性ということになる。だとしたら、たった一人で檻を軽々と運べるものだろうか。子どもとはいえ中に人が入っているというのに……。


「ご覧ください。玉のような白い肌、艶やかな長い黒髪、しなやかな指先と整った唇は花魁にも勝ることでしょう」


 上下から照らし出された檻の中。上等な自前の着物に身を包み、窮屈そうに眉をしかめた女性———棗は、檻の柵を片手でそっと掴んでいた。


「な……棗」


 本当に捕らえられていた事実に唖然とした。妖たちの手を借りれば逃げることなど容易いはずなのに、何故こうして行儀良く檻の中に居るのだろう。私には彼女の考えがやはり理解出来なかった。


「暇じゃのぉ。……のぉ、お前様」


 儚げな素振りとともに、私と彼女の視線がぶつかったような気がした。玲瓏な声が空き家全体に響き渡りぼんやりと落下していく。するとある者は魅せられ恍惚とした眼差しを向け、ある者は吐息をはぁと漏らした。甘美な声音はたった一言で多くの人間を魅了するらしい。

 私は手を額から頭部へと滑らせ、何をするでもなくそのまま力なく下ろした。他人を惑わす女性の夫は私ですなんて、この場では口が裂けても言ってはいけない。言ってしまったが最後、私はどこの誰とも知れない人たちに滅多刺しにされてしまう。そんな最期は御免だ。


「こちらは五十円から始めましょう」


「五十一円!」


「五十五円」


「六十円だ!!」


 方々から声が飛び交った。誰にも譲らんとばかりの勢いに私は苦笑いを浮かべるしかなかった。成長の止まった麗しい女性はそこに居るだけで花になる。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花……まぁ、黙っていればの話だが。


「そこまでの値打ちなどない」


 副連長は上がり続ける売買価格に耐えかねて独り言ちた。素性を知っている身からすれば至極当然。良いのは外見だけで、中身は目を背けたくなるほどの非道さと幼さで構成されている。おまけに酷く長寿だ。


「……値段止まりませんね」


「ほんに金持ちばかりだな」


 驚きを通り越して呆れてしまう。買われるのを待つ当の本人は口を薄らと開いて笑っていた。その動作に不気味さを感じるのは、きっと私と横に立つ上司だけなのだろう。


「やるか」


「はい」


「やっとか!」


「殴っちゃダメですからね! 俺たちは保護優先っすよ」


「どさくさに紛れて殴ってもバレん!!」


「今言っちゃったじゃないっすか!」


 私たちの賑やかさは、周囲の人間の騒めきに紛れて誰も気づかない。


「では各々考えて動くように」


 淡白な声の向こうではどんな表情を浮かべているのだろう。獲物を狙う鷹のような面持ちか。鹿を撃とうと銃を構えた狩猟者のそれか。視線を動かしても、上司の居るであろう真横は見ず知らずのご婦人だった。


「お前様ぁ」


 悲劇の主人公のように棗が格子から手を伸ばす。それと同時に足音がゆっくりと前方へ移動しているのを聞いた。その足音は次第に速く軽いものに変化する。私は遠ざかっていく足音に意識を向けながら、同じように一歩ずつ前進する。烏に向けた攻撃が全ての合図。姿が見えない今、何ひとつ逃してなるものかと神経を鋭くした。


「九十三円!」


 視界が捉え続けていた舞台上へ向けて、素早く何かが投げられたのを見た。その()()は景色の中でブレながら、競りを続ける烏に向かって突き進んでいった。だが烏は意識的にか、はたまた無意識にか、身体をひらりと翻してそれとの衝突を免れた。

 棒は直線状に勢いよく突き刺さり、そうして音を立てながら穴を開ける。薄暗い壁面に一つの不格好な明かりが差し込んだ。


「なんだ!?」


「壁に穴が開いたぞ!」


「邏卒が来たんじゃないだろうな!? おい烏!!」


 穴がひとつ開いた。ただそれだけなのに参加者は酷い慌てぶりだった。対する私たちは派手な合図に動揺することなく己の任務に従事する。芝居小屋を模した室内の天井はさほど高くなく、私の能力を使うのは難しい。仕方なく人混みを掻き分け前進すれば、複数の頭越しに烏の逃げ行く姿を見つけた。


「待て!」


「逃げるなぁ!」


 私の声と重なって聞こえた副連長の声は、周囲を取り巻く喧騒の中でもハッキリと聞こえた。烏は舞台の左側へ足取り軽く消えていく。逃げる算段が出来ているのかもしれない。ここで逃がせば、おそらく二度と私たちの前に姿を見せることはないだろう。人身売買の首謀者で責任者。その上野良であるならば予想される未来の被害は計り知れない。


「烏!!」


「優秀で貴重な異師様に、(わたくし)()から些細な贈り物でございます」


 クルリとこちらを向いた烏は、片手を胸の前に置いてから一礼した。上品な所作はきちんと教育を受けて来た人のそれだった。


「贈り物だと!?」


 深栖のように声を張り上げる副連長の足音は止まらない。一瞬の隙。この機を逃すものかと、私の急く気持ちが加速した。———次の瞬間、建物の屋根が飛びそうなほどの爆発が起こった。至る所で引き起こされる爆音は初手を合図に連鎖していく。


「なっ————!!」


 手段を択ばないというのはこういうことなのだと、私は身を持って実感した。贈り物という名の足止めは、参加者の身体を風船のように舞い上がらせた。体重のある人々が鞠のように跳ねていく。着物が破れ、肌が裂け、腕が、足が、蟹の足を捥ぐみたいに消し飛んでいった。辺りは血の海。砕けた床板が誰かの足首を掴んで離さない。


「胡口! 解除だ」


 張り裂けんばかりに叫べば、返事の代わりに仲間の姿が空間に追加される。ぐるりと見回し全員の安否を確認し終える頃には、私の心臓はどうしようもなくドクドクと煩く鳴っていた。目の前の光景にはどこか既視感があった。思い出したくない、無意識のずっと奥にしまい込みたいもの。再上演などこれっぽっちも望んではいない。


「百瀬さん! 本部長と夢さんがいません!!」


 声のした方を振り返ればそこには確かに二人の姿はなかった。次から次へと、どうしてこうも厄介事が起こるのか……。


「一旦凍らすぞ!!」


 動揺しつつも適切に状況を見極めた深栖は、周囲の気温を下げ空気中の水分を凍らせた。湿度の高かった室内はあっという間にキラキラと輝く結晶に包まれる。そうしてそれらが地に落ちたとき、あたり一帯の床が凍った。千切れ飛んだ手足や人々の靴裏ごと、床という床を全て氷の中に埋めてしまった。


「これでここは大丈夫だ!」


 先日と違うのは雨が降っていないこと。人々が凍り付いたのはせいぜい脛当たりまでということ。まぁ、上々だろう。


「百瀬! お前は副連長のところに行っていいぞ!!」


「頼んだ」


 頷きながら彼女の言葉に甘えた。今にも烏を殺しかねない勢いの副連長を、私は何としても止めなければならなかった。罪人を裁くのは私たちの仕事ではない。そんなことで手を汚していいわけがない。私は決意新たかに、再度捉えた上司の背を追い駆け出した。喧騒は尚も方々で続いている。


「坂百合さん」


 かつての呼び方で上司の名前を口にすれば、どこからかバキッと鈍く何かの折れる音が聞こえた。同時に空気感が僅かに一変したが、なにがどう変わったのか分からなかった。私は建物内の安全を確認するように足を動かしながら天井へ目を向け、柱を見まわし、ぐるっと全体を確認した。そうして最後に視線を向けた舞台の中央。丁度棗が入った檻の向こう側に、人影があった。


「—————————ッ」


 歩を進めれば、凍り付いた床が赤く染まり、温度の低さ故に血液が液体から固体へと素早く変わる様が目に入る。視界の先で、姿を消したはずの夢さんが足を抑えて蹲っていた。その手には金の腕輪が嵌められ、すぐ横には折れた足が凍り付いたままひとりでに立っている。


「役立たずが」


 小さく小さく呟いたその声は舞台の右側から聞こえ、烏の姿も同様に右側にあった。まるで瞬間移動したかのような移動の速さに困惑した。そして、烏の口にした『役立たず』という言葉の意味が私にはピンとこない。


「何がしたいんだ、お前」


 突然のことに動揺するでもなく、上司は感情を失った言葉を発する。否、私には感じられないほどの怒りが籠っていた。そうして右側へ走り出しながら放った金の棒は、またもや烏に当たることはなかった。

 再び颯爽と駆け出した烏の外套が視界から消える。続いて副連長が後を追って消え、私もその背中に付き従った。競り小屋の外は快晴だった。雲一つない空は気持ちがいいほど真っ青で、多くの人が傷ついていることなど知らないみたいだった。


「坂百合さん!」


 小さくなっていく上司を呼びながら、私は得意の能力を行使して距離を縮めた。


「百瀬、私を飛ばせ」


 揺れる髪の奥で切れ長な目が私をちらと見た。断る理由など微塵もない。私は差し出された手を固く掴み、ありったけの力を込めて腕を前に動かした。重力を無視したかのような上司の姿は弾丸よりも速く動く。周辺の空気を裂き、弾けた空間は家や私を力で揺すった。


「うぉ」


 靡いた前髪と土埃の向こう側で副連長が烏に掴みかかる様が見えた。それでも速度が落ちる様子はなく、瞬く間に米粒よりも小さくなってしまう。私は暫くその姿を呆然と眺め、感心し、そうしてから再び地を蹴った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ