第二章 十二『命より大切なもの』
「坂百合さん、本部長です……楠浦さんです!」
「楠浦……?」
「前に居ます。烏です」
視界が捉えた捜索中の上司は、霧の中に隠れるが如く不気味な烏の面をゆっくりと顔に装着した。まるでここの元締めが自分であると示すように。
「ぶん殴るどころじゃ済まないな」
怒気をこれでもかと乗せた声音は、人間だけではなく大気さえも震わせていくかのようだった。烏面を被ったところを見てしまっては関わっていたどころの話ではなくなる。単独であれ集団であれ、少なからず中心人物であることは確定した。
その事実は、異師としての生活を続けられなくするだけの力がある。そうまでして楠浦零大という男は一体何を目論んでいるのだろう。何もかもを捨て去らなければならなくなる可能性に勝るものが、私には一向に思い浮かばなかった。
「殺しちゃ駄目ですからね」
冗談っぽく真剣に言ってみれば、副連長は何を当たり前なことをと言いたげに「あぁ」とだけ口にする。この人の目は既に問題行動を起こした部下へと向けられ続けていた。
地響きが起こりそうなほど力強く踏み進む人影がぼやけていく頃、私の爪先は漸く大地に降り立った。場所は初期位置と烏顔……もとい楠浦本部長との丁度中間あたり。負傷した少女はもうすぐそこだった。が、不運なのか引きが悪いのか、残念なことに靴がふわりとした羽根に触れた。
「……っ!」
触れるのと同時に羽根の形を崩した爆弾は、私の身体を足元から吹き飛ばす。子どもの玩具のように見事に宙を舞う様を、私は他人事のように端から観察していた。自ら浮遊するときとは異なる感覚。けして制御出来ないそれに身を任せることしかかなわない。今の私はさながら鞠のようだった。
「いっ……カハッ」
再度地を離れた身体は、やはり放物線を描きながら背中から着地した。一番の衝撃が肺へ入ったことで、瞬発的に空気が吐き出され吸うことが許されない。けれどそれもものの数秒で改善され、残ったのは服に付いた汚れだけだった。
私は大きく息を吸い込み、吐き出しながら上半身を起こす。辺り一帯はほぼ何も見えなかったが、伸ばした指の先に赤く染まった砂がちらりと見えた。
「おい、大丈夫か!?」
その色を頼りに道を進めば、第一目標としていた人物が視界に飛び込んでくる。既にぐったりと地面に横たわった少女の顔色は悪く、服や前腕をぐっしょりと血で濡らしていた。このままでは失血死してしまう。
「一刻も早く連れてかねば……」
私は着ていた上着を脱ぎ、少女の腹部に掛けてから袖同士をきつく縛り上げた。止血の方法が合っているかは分からない。ここまで体外に流れ出てしまっては意味を成さないような気もするが、多少でも気休めになれれば十分だった。
「人手が足りないな」
少女を背負いながら子どもたちの縄をどうにかするには時間がかかり過ぎる。しかしこのまま危険に晒しておくわけにもいかない。だがこうして迷っている間にも時は刻一刻と経過していき、目の前の命が存在を薄くしていく。流暢に考えている時間などどこにもなかった。
「……すまない」
私は上着で包んだ少女を抱き抱え、血溜まりを蹴って浮遊する。向かう先は羽根の落ちていない安全圏。どちらかしか手に出来ないというのなら、私は目の前の命を優先する。異師であっても全員は救えない。そう自分に言い聞かせながら、横たえさせた少年を拾い上げ本部へと帰還した。
帰還後すぐに医務室へと向かえば、そこにはただひたすらに寝息を立てる竹原の姿が目に入る。続けて強制的に布団を被せられた瑞城が何食わぬ顔で手を上げるので、私の表情筋が自然と緩むのを感じた。
「これはまた、何事です?」
特に驚きもせず趙野が言う。負傷した人間はさすがに珍しくないようだった。
「出先で負傷者が出まして……。この少年は重要参考人、こっちの女の子は重症です」
事態を簡潔に伝えながら、私は抱えていた二人を綺麗な畳の上に置く。幸か不幸かどちらも意識はなく、素早く治療に取り掛かってもらえそうだった。
「酷い有様ですね……おや、この子は傷口塞がってますね」
「え?」
薄い布を捲り上げ、趙野は血に濡れた女の子の腹を見た。傷が塞がっている? そんなはずあるわけがない。だってつい先程この目で見たばかりなのだ。烏と名乗った人物———同じく畳上に横たわる少年の手によって命の危機に晒されていた。何がどうなってこの数分で傷が塞がると……。
「まさか」
「まぁ、とにかく今は処置を優先しましょう。話はそれからでも遅くはないですから」
穏やかに言う彼の姿に、私は頷きでしか返すことが出来なかった。そうして負傷者二名を趙野に任せ、私は再び廃れた町へと駆け戻った。町の様子は微かに変わり、人の混乱が音となって廃墟の隙間に漂っている。不気味なほどの静けさも、身体中を這うようなむず痒さも感じられない。
「胡口。深栖も」
吹きすさぶ風が鼓膜をぼうぼうと揺らしている。その中で、私の優秀な部下たちは肩を寄せ合うでもなく膝を抱え、髪の毛をただただ靡かせていた。場所は突き当りのずっと手前。人っ子一人居ない一度目にした通りだった。
二人の姿はまるで叱られた挙句家を追い出された子どものような。幽霊を見て恐怖に震えている幼子のような。そんな印象が彼らの身体をより一層小さくか弱いものに見せていく。
「風邪を引く」
「俺、今日まだ何もしてないっす。何も、出来なかった」
「……」
「そう気負うな、人には適材適所があるものだ。今日はそのときじゃなかった。それだけの話だ」
上司としての振る舞いが、先輩異師としての言葉が、これで合っている自信は微塵もない。こんな言葉で救われるほど、彼らの精神は図太くも鈍感でもないことを知っている。どこまでも優しいのだ。
「あんな……どうにも出来なかった。どうにかしなきゃって思うのに、あたしには何も出来ない」
悔しい。深栖はただそれだけを口にした。かくいう私だって何も出来ちゃいない。縄に繋がれた子どもたちを逃がしてやるどころか置き去りにして、負傷者を本部へと連れ帰った。けれど自分を責めることも、悔しいと思うことももはやない。どこかで割り切らなければ、こんな仕事何年も続けられはしなかった。
「胡口も、深栖も、いつの日かお前たちが居なきゃどうしようもない場面がきっと来る。だから顔を上げろ。悔しいと思うなら、その日に備えて一層訓練に励むしかない。沈んだ気持ちを糧にしろ」
どの口が言ってるんだ。冷静な脳内の片隅で、他人のような私がそう言ったのを聞いた。無理やり割り切るなんて到底無理な話だ。私だって過去を……新室さんの件を始めとした様々なことが未だに割り切れず、受け入れられないでいる。だが、おそらくはそれでいいのだ。全て吹っ切れてしまっては人間味が無くなってしまう。味のしない味噌汁は美味しくない。
「さぁ、行こう。今日の仕事はまだ終わっていない」
私は言いながらそれぞれに手を差し出す。今休んでいる暇はない。働いて何としても休暇を勝ち取らなければならないのだから。
「っす」
「馬車馬だな、あたしたちは」
二人はそうしてゆっくりと顔を上げ、私の手を力一杯握り締めた。これだけ力が出せるなら大丈夫だ。挫けて折れる心配はずっと先に取っておくことにした。
握り締められた手を引っ張ると、釣られて二人の身体が動き出す。曲げていた膝が伸び、項垂れていた背筋がピンと張る。皴のひとつもない真っ黒な制服は、絶妙な表情を浮かべる二人の輪郭を強調していた。
「あ、雨っす」
飛来した雨粒がひとつ、真っ直ぐ乾いた地面に色を付ける。またひとつ。またひとつ。次々に落ちて来る雫は、あっという間に足元に水溜まりを作り上げた。いよいよ降ってきたかと思う間も与えてはくれなかった。
「取り合えず副連長を追おう」
轟音に負けぬよう声を張り上げて告げれば、二人は何か言いながら首を縦に振った。これでは会話もままならない。またこうして雨に打たれなければならない現実に舌打ちをしつつ、特に走るでも雨宿りするでもなく足を動かした。降りしきる雨が風に乗って斜めに身体を打ち続ける。靴が泥を跳ね上げる感覚は、裾から滴る水のせいで既に分からなくなっていた。
「お風呂の代わりだな!」
ザァァという音の奥で僅かに暢気な声が聞こえた。天気も気分もどこか鬱々としているのに、視界の端だけは愉快な気分だった。暢気な散歩とは言い難い速度で歩き、副連長が本部長を追いかけて行ったであろう方向———突き当りを左側へと曲がっていく。
そのときちらと見やった右側では、奥に隠れた店主たちが皆こぞって商品の状態を確認していた。やはりどの子も怪我をしているが、それがひとりでに治っていく子どもも何人かいる。死んで、そして生き長らえても尚大人の手に人生が握られ続けていた。
「……人のこと言えんがな」
異師だって同じことをしている。一概に店主だけが責められるべきではない。
「寒いな!」
「そうっすね。風邪引きそう」
彼の特徴でもある癖毛はその良さを消し、くしゃみをひとつすれば寒さに気付いたのか全身に鳥肌が走っていく。風呂だなんだと暢気に言っていた深栖の唇は血色を無くし、綺麗な黒髪は幾本もの束になって水滴を滴らせていた。
体温が着々と失われていく現状に、果たして副連長の後を追うことが正しいのかと疑問が湧く。今すぐにでも温かい風呂に入るべきではないだろうか。私はぶるぶると身を震わせながら、濡れた服越しに腕を摩り続けていた。
「……? 何か来るぞ」
「この雨の中でか?」
「あ、本当っす……すごい勢いっすね」
豪雨で視界が白む中、次第に近づく影が人間であるとしっかり認識出来たのは、目や口が視認出来る距離に来てからだった。その人は上等そうな着物をぐっしょりと濡らし、結っていたであろう髪を乱しながらこう言った。
「どうか、どうかあの人をお助けくださいませ!」
今にも泣き出しそうな……いや、もしかすれば泣いているのかもしれない。女性はなんとか振り絞った声で私たちに助けを求めると、深く深く頭を下げた。
「お願いいたします。どうかお助けください」
どうかどうかと何度も口にしながら女性は頭を下げ続け、ついには泥の上で土下座をした。切実な願い。ここまで懇願されては無下にも出来なかった。
「頭を上げてください。楠浦本部長の奥さまですね? 一体何があったのですか」
膝をついて頭を上げさせれば、充血した瞳と視線がぶつかった。本部長宅で会った優美な女性は、高価な簪を泥の付いた手でギュッと握り締めながら口を開く。
「このままでは殺されてしまいます。お助けください」
「誰が殺されるというのです」
「夫にございます。零大さんが……!」
縋りつくように、女性の手が私の服を掴んだ。本部長が殺される。それは何としても阻止しなければならなかった。棗の居場所も、人身売買についても、まだ何ひとつ聞けていないのだから。
「案内してくださいますか?」
私の言葉に女性は何度も頷き、「こちらです」と言いながら再び駆け出した。値の張る着物が着崩れることも転ぶことも厭わず、ただただ助けたい一心でぬかるみを走っている。上司が何を企んでいるのかは知らないが、この女性を酷く悲しませるようなことはしてくれるなよと思ってしまう。大切な人を悲しませること以上の悲劇は、きっとどこにもない。
* * * * *
女性に付き走ること数分、いや数十分かもしれない。どれほど進んでも景色はさして変わらず、この雨の中で誰かに出くわすこともなかった。木製の屋根を打つ雨音が軽快に鳴り響いている。
「ここです!」
勢いよく振り返った女性が指差す先には、人ひとりがやっと通れるだけの道が延びていた。左右に聳え立つ白壁には、雨と混ざり合った汚れが線となり不細工な模様を描いていた。本当にこの先に本部長が居るのだろうか。私たち三人は目の前に提示された情報を疑わずにはいられなかった。
「この奥に零大さんが」
そんな疑心感を他所に、女性は変わらず切羽詰まった形相で一人細道へと足を踏み出した。このまま疑い続けていても仕方がない。正誤を確認するためにも進む以外の選択肢はなかった。私たちはそれぞれの顔を一度だけ見てから、遠ざかっていく褪せた人影を追った。
「零大さん!」
暫く壁の間を行くとその先に開けた空間があった。行き止まりの謎空間には枯れた草がそこかしこで地に伏している。それ以外は何もない、侘しいだけの場所。そんなところに居たのは見慣れた上司の黒い背中と、端で引き攣った表情を浮かべる探し人の姿だった。
「零大さん大丈夫ですか⁉」
駆け寄り肩へ、頬へ。配偶者の安否を確認するように優しく手を添える女性の姿を、私はその場から一歩も動くことなく見ていることしか出来なかった。本部長の腕や脚には金の棒が突き刺さっている。
「副連長」
「もう逃げることはない」
副連長の左頬の傷口から滲み出た血液は、髪から垂れた雫に乗ってじわりと色を広げていた。視線を下へとずらしていけば、服が数か所破れ切れている。
「楠浦本部長は、助かるんすよね……?」「
「この先の行動次第ではな」
冷淡な声色が胡口の肩をビクッと揺らす。一人の人間の運命は、たった今目の前の人物に一任されている。私がいくら説得したとて無意味。本気を出した坂百合副連長にはけして勝てやしない。
「楠浦、いい加減言え。お前がここの元締めだな?」
「……」
「まだ黙秘するか」
無感情の言葉が聞こえたと同時に、本部長に突き刺さった棒がズッとさらに体内へと侵食する。太い血管を傷つけているのか、大腿部からは止めどなく出血していた。このままではあと一時間もしない内に死に至るだろう。自分の命を懸けてまで何を守っているというのか。
「先程の爆発中、百瀬がお前の顔を見たらしい。そうだな?」
「あ……はい」
「この地域に今お前が居ること。目撃者が見間違える可能性の低さ。————他にどんな証拠が欲しい」
酷く冷たい声は寒雨にも勝っていた。
「早く言った方がいい! このままじゃ本当に死ぬぞ、本部長」
「そうっす」
私の後方で二人が上司を説得する。死ぬということはどうしようもなく怖いことだ。だが、ときにそれよりも恐ろしいことがこの世界には存在する。自分の命よりも守りたいと思うことがある。あいにく今の私にそんな殊勝な感情はないが、傷ついた目の前の人間にはあるらしい。こうなると私たちの言葉ではどうしようもなかった。
「そうか、なら手段を変える。お前が何も言わないというのなら横の女を殺す」
明確にハッキリと言い切った副連長は、新しく生成した棒の切っ先を前方へ向けた。キラリと鈍く光る金の棒は水滴を弾き、艶やかな表面を曇天に晒していた。
「ぁ……」
副連長の脅しとも言えぬ脅迫に本部長の顔色が一層悪くなる。引き攣った表情筋は彼の心理を反映し、震える口元は弱さを示し出していた。この人の守りたいものは、おそらく奥さんなのだろう。伴侶だからとか、愛しているからとか、そういったありきたりなものを超えているのかもしれない。
「零大さん……」
包み込むような温かな声。ありとあらゆる感情をはらんだ上司の視線は女性に向けられ、流れるように副連長へと移った。
「わ、私は」
寒さ故か、震える口元から絞り出された声も同様に震えていた。
「元締めでは、ありません」
坂百合三色という鬼に屈した本部長は拳を握っていた。びしょ濡れの顔に浮かび上がるのは恐怖、焦燥、切迫、憂慮。副連長に対して恐れ戦いているのかとも思ったが、なぜだか違う気がしてならなかった。




