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第二章 九『独りぼっちと乙女』


 気が付けば目の前には猫の足。猫は顔周りをうろついた後、私の身体を横断して開け放たれた窓から外へと消えていった。ゆっくりと上体を起こせばささくれだった畳に血が滲んでいる。


「おい、無事か?」


 左右に倒れた二人の身体を順に揺する。力なく横たわる竹原とは違い、瑞城は微かに唸り声を発しながら瞼を上げた。


「百瀬、さん……」


「喋らなくていい。状況は……よく分からないが、何となく理解は出来る」


 寝起きとはまた違うぼんやり気味の頭を手に、私は室内をぐるっと見回した。

 破れた障子に穴の開いた襖。美しかった畳は色褪せ、見事な欄間はバキバキに折れている。とても同じ家とは言い難い惨状だった。鼻から空気を吸い込めば、本部長が能力を使用した証拠である樟脳(しょうのう)の香りが鼻腔を掠めた。


「してやられたな」


 香りを纏い他人になることの出来る本部長は、成り代わった者の能力すらも自在に使うことが出来る。仮に今回私になったとすれば追いかけるのはほぼ不可能だった。香りなど屋外ではあっという間に消え去ってしまうから。


「でも収穫はあった。本部長が絡んでるって知れただけでも上々よ」


 寝返りを打ち天井を見上げた瑞城は、こめかみをぐりぐりと揉みながら言った。対する竹原は相変わらず目を覚ます素振りを見せはしない。


「とりあえず帰ろう。竹原も瑞城も先生に診てもらわないと」


 四つ足の一本が折れた机に手をついて立ち上がれば、窓の外で木が左右に揺れているのが目に入る。これから荒れるのだろうか。天気も仕事も、厄介事の類は全て御免だった。私は負傷した二人を担ぎ上げ、玄関で靴を履いて外へ出る。


「……は?」


 世界は一変していた。

 人々が殴り合い、刃物を、武器を、振りかざし傷つけ合っていた。そこには穏やかさも朗らかさもなく、殺伐とした戦場の空気が漂っていた。果たしてここは戦場の最前線だっただろうか。もしくは過激戦を終えた残党同士の決闘場だっただろうか。

 穏やかさの欠片も無い光景に思考が止まる。状況を整理出来るだけの頭は数時間前に置いてきてしまっていた。


「何が起こってるの……?」


 頭を上げて変わり果てた世界を見た瑞城も状況の把握が出来ていないようだった。こんな争いを生み出した原因が野良なのか操師なのか、はたまた妖そのものなのか皆目見当もつかない。つかないものは対処のしようもなく、人間二人を抱えた私には一般人を止めることすら出来なかった。

 目の前で血が流れる。まるで何かに取り憑かれたかのように暴動が繰り広げられている。


「止まるっす!」


 聞き慣れた叫び声。しかし人々の動きが止まることはない。


「なんで殴り合ってんだ!? あたしには理解出来ないぞ!」


 混乱を前面に出しながら、深栖は包丁を手にした人間の顔を勢いよく殴りつけた。吹っ飛んだ人間はズザァと地面に身体を擦りつけ、口の端から血を垂らして気絶した。宙を舞った包丁は竹原の服を掠って背後のボロ家に突き刺さる。


「百瀬……椿!? 生きてるか! 無事なのか? 何があったんだ!」


「深栖さん、話は後っす。それどころじゃない」

 俺の能力効かないんすよ! と文句を零しながら胡口は深栖を制圧に引き戻す。彼の能力が効かないとなれば、それ以上に強力な何か……命令や拘束の類がかかっているのかもしれない。


「下ろして、百瀬さん。私もやる」


「無理言うな。起きてるのでやっとだろう」


「だって、この人数で収めるなんていくらなんでも無茶よ。早くしないとみんな死んじゃう」


「じきに邏卒も来る。ここで下ろして瑞城に何かあったらたまったもんじゃない」


 私は瑞城を担ぐ手にグッと力を込めた。下ろしてなんかやるもんか。必ず後悔するというのなら、私は仲間を守る方に全力を注ぐ。そのせいで一般人が何人死のうが、だ。

 こんな仕事に従事していながら仲間の死が怖い。目の前で息絶える人間が知り合いだと想像するだけで息が詰まる。だったら赤の他人を犠牲にする方がよっぽどいい———私はつくづく異師に向いていない。


「百瀬さん」


「駄目だ」


「百瀬さん!」


「駄目だ」


 誰かが誰かを殴る音が至る所で聞こえる。一体何人がこの現状に巻き込まれているのか分からないが、膨大な人数であることは窺えた。


「どうしてそんなに頑ななの」


 呆れたように言う瑞城に、私の本音がつい口から零れた。


「手が届かなくなるのは嫌なんだ、本当に」


「……五年前のこと?」


 周囲の音を掻き消すように、担がれた彼女は静かに言葉を発した。





 五年前、私が特別指定異師になって一年ほどが経った頃。当時所属していた新室(にいむろ)組が任務先で操師に襲撃され、人気のない山奥の小川沿いで壊滅した。まだ夏の盛りだった。


 木の根に躓いた私に「ドジったなぁ百瀬、先行ってるぞ~」と掌をひらひらさせながら、朗笑を湛えた人のいい先輩たちを襲ったのは若い三人の女だったらしい。

 躓いた拍子に無くした専用銃を捜し僅かに遅れて合流する頃には、私の目の前で先程まで手を振り笑っていた組の面々は皆死に絶えていた。任務を遂行することも襲い来た野良を捕らえることも出来ず、私だけを置いて死んでしまっていた。理解出来ない惨烈な痕跡にただただ膝をつき、速まる呼吸をそのままに眺めることしかなかったのを覚えている。


 じんわりと面積を大きくしていく血液。地表を這って垂れた血は、透明で綺麗な小川に色を滲ませていく。木々に止まった鳥たちが囀り合う声が静寂に包まれた山中に響き、私の思考力を奪っていく。


 暫くそうして抜け殻になった後、私は着ていた上着で千切れ飛んだ腕やら足やらを回収し、風呂敷きの様に包んで腕に引っ提げた。続けて新室さんを含め数人を背負い、背負いきれなかった組員の服の襟首を掴んで歩いた。

 重かった。足が、膝が、指が、どうにかなってしまいそうなくらいだった。生命力を失った人間はこれほどまでに重く感じるのかと、そう呻きながら私は独り咽び泣くしかなかった。


 服に冷え始めた血が滲む感触も、肩に掛けた複数の手から酸化し始めた赤が滴るのも、私の無力を突きつけられるようで。肩書に驕り高ぶっていた油断を、命という代償を持って思い知らされたみたいで。後悔なんて生温い言葉で表しきれないほど、自分自身が恨めしくて仕方なかった。


 転んだ私がみんなを引き留めていればよかった。そもそも躓かなければよかった。考えれば考えるほど苦しくなる。それが全て自己満足だと分かっていながら、自分ひとりだけ生き長らえてしまっている現実が残酷だった。


「手が届かなきゃ、どんなに力をつけても助けられない」


 何時間もかけて小川に沿って歩いた。ずり落ちていく仲間の身体を背負い直し、限界を迎えそうになった指を叱咤して。

 そうして一歩ずつ前進し続けて、本部に着く頃には三日も経っていた。不眠不休で歩いて三日。達成感なんてなかった。


「あれは百瀬さんのせいじゃない」


「じゃあなんで生き残ったんだ。私が悪くないなら、一緒に死ななかった理由は……」


 全身を仲間の血で濡らしながら帰還した私を、仲間も都田連長も坂百合副連長も、みんな一言だって責めなかった。



『よくやった』

『無事に帰って来てくれてよかった』

『連れ帰ってくれてありがとう』



 私の欲しかった言葉は感謝でも労いでもなかった。帰還後、暫くは現場に出ることが出来なかった。怖かった。また親しい人が死んだらどうしよう。間に合わなかったら私は再び独りぼっちだ。考えだしたら震えが止まらなかった。どうしようもなく恐ろしかった。


「そんなこと、私には分からないよ」


 当時の私は目の前の事実から目を背けるために結論を出した。きっと理由など無いのだろう。運命と言えば聞こえはいいが所詮その程度のこと。私が生きていることも、仲間が命を落としたことも、そのときの偶々と偶々が重なっただけ。そう片付けるにしては失ったものが大きすぎる。簡単にありきたりな枠に嵌め込むべきじゃない。

 けれど、多少強引にでも答えを出さなければ壊れそうだった。強制的に回答を出して、私は今日も生きている。


「でもね、私は死なないよ。百瀬さんと竹原さんをふたりぼっちにはしないし、勿論独りぼっちにもしない。私たちはずっと三人」


「ずっと……って」


「ずっとよ、ずっと。十年後も、五十年後も、死んだあとだって」


「乙女みたいなこと言うな、瑞城は」


 私がフッと笑えば、瑞城はむくれたように「本気なんだから」と口にする。


「苦しんでる人をひとりになんてするわけないでしょ。それはきっと竹原さんも同じ」


「どうだか……」


 一般人を殴り続けている同僚を見やる。みんな元気そうで、とてもじゃないが死ぬ気配はしない。生命力は有り余っているらしい。深栖も胡口も、新人も熟練者も、今目の前に居る人間はどいつもこいつも元気。それだけが救いだった。


「私は死んでからも二人の痴話喧嘩を止めるのか? それは嫌だな」


「痴話は余計! ただの喧嘩なんだから」


「尚更嫌だな」


 瑞城が文句ありげに背中を勢いよく叩く。ジンジンとした特有の感覚がじんわりと広がっていく。肺の中に溜まった鉛がほんの少しだけ流れ出て、同時に全身に掛かる重さが微かに増える。

 背負うものが多くなるのは年を取った証拠だ。私には吐き出すことも投げ出すことも許されないけれど、それでも多少は良いのかもしれない。こんな些細な瞬間を楽しんでも。


「それより、竹原さん大丈夫なの? 全然起きないけど」


「さぁ……一応呼吸はしてるから生きてはいる」


 指の先で背中を叩いても、揺すっても、声を上げるどころか微塵も動かない。私が気を失った後に何があったのか分からないが、安心出来る状況ではなさそうだった。


「お前ら止まれ! 止まれ!!」


 道の先で声を張り上げ、向かい来る人々を縄で羽交い絞めにするのは制服姿の邏卒だった。私たちとは違う、表立って治安を守る者たち。彼らは私たちは用済みだとでも言うように、手の甲をこちらに向けて前後に素早く振った。ここは大人しく日向の住人に場所を譲ることにする。


「帰ろう」


 誰に言うでもなく呟けば、遠くの方で乱闘していた深栖が駆けながら瑞城の身体を奪い去った。


「あたしも手伝う!」


 まるで玩具を取られた子どものように、深栖は踵を返してこちらを見やる。誰よりも真剣に言う彼女に私も瑞城もフッと笑みを零した。


「じゃあ頼む」


「落とさないでね、六華ちゃん」


 俵担ぎから横抱きに変わった瑞城が冗談半分で言えば、深栖は胸を張って自慢げに「任せろ!」と口にする。これほどまでに可愛げのある後輩はいないだろう。

 私は止めた足を再び動かしながら、空いた手を私の姿を目で追う同僚の頭にポンと乗せる。たった二つしか離れていないのに、こんなにも幼く見えるのはどうしてなのだろう。千代の方がずっと大人っぽく見えるのは、どうしてなのだろう。


「俺置いてくんすかー」


 遠く遠く、何回か跳ね返ったやまびこのように、慣れ親しんだ口調が耳に届く。随分数の減った暴徒たちが怯むことはなく、深栖に、私に、胡口に尚も襲い掛かる。


「百瀬さーん」


 気の抜けた声に相槌をするように胡口の殴る音がする。邏卒が端から縛り上げている状況の中へ突き進む私たちとは違い、背後は未だに大変な剣幕らしい。私たちはけして歩みを止めることなく、近づきつつある声をそのままに本部へと帰還した。




** * * *




「で、何があったって?」


 威圧的な女性を前に、私は仲間を置いて帰りたくなった。

 本部長宅から竹原を背負い帰還した私は、医務室に負傷者を運んだ後で幹部室の扉を叩いた。重苦しい音に室内から柔らかな声が返され、扉を開ければ上司二人と視線がぶつかった。


「ですから、楠浦本部長宅で何者かに殴られ気絶。暫くしてから竹原たちを連れて家を出た際、町中で発生した大規模な乱闘に遭遇しました。竹原は酷い脳震盪で未だ意識不明。瑞城は意識清明ですが、念のため先生に診てもらっています」


「楠浦くんが何かしら絡んでいると、百瀬くんはそう言いたいわけだね?」


 窓からの明かりを一身に受け、光り輝きながら連長が立ち上がった。


「だが、本当にそうだろうか。楠浦くんが巻き込まれた可能性は否定出来ない」


「ボロ家だったぞ、本部長の家は」


 拳に血を滲ませ、上着を砂埃で汚し、珍しく声を抑えた深栖が隣で口を開く。


「俺の能力は効きませんでした。強力な何かがかかっていたのは明白っす」


 胡口も私の隣で、深栖と同じようななりで述べる。二人ともどうして一緒に入ってきたのかと一人呆れながら、その心強さが今の私をどうにか幹部室に立たせていた。


「何が言いたいんだい?」


「本部長が巻き込まれた可能性は確かに否定出来ないっす。だけど、百瀬さんたちの追尾を難しくするための策略だった可能性も否定出来ません」


 語尾が定まらない彼はどこか落ち着きがないように見える。もしかすれば連長たちにこうして進言するのは初めてなのかもしれない。だとすれば幹部室に足を踏み入れるのも初めてなのだろう。初体験がこんな状況になってしまったのは不運としか言いようがなかった。


「なら二つの可能性を視野に入れ各々調べればいいだろ。稼働可能な指定異師が二人も居るんだ。報告は事後でいい」


 心なしか副連長の機嫌が悪い。その原因に心当たりが有り過ぎて、私は意識的に右側を見ないようにした。


「異師の幹部が発端だとすれば組織の秩序に関わる。良く調べるように。それから坂百合くん。君もこの捜査に加わっておくれ」


 連長の言葉に、副連長は豆鉄砲を食らった鳩のように暫く呆けていた。そうして状況を把握し終えると「え!?」と裏返った声音を上げながら勢いよく立ち上がる。

 あまりの勢いに椅子が転ぶ。ガタンという音の後には、ただ静まり返った静寂が披露されていた。




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