第二章 八『捜索』
朝だというのに真夜中よりも暗いこの道は、相変わらず誰にも掃除されることはない。十八間おきに設置された灯りだって点検すらされないのだから切れている。正真正銘の真っ暗闇。前も後ろも、息遣いが無ければ二人がいる確証は無いに等しい。
「灯りぐらい直しても文句言われないよね?」
不意に呟いた瑞城に、私は「どうだろうな」としか言い返すことが出来なかった。おそらくお咎めはないだろうが、万一誰かに何かあったらたまったものではない。火のない所に煙は立たず。仲間が渦中になってしまうのを防ぐのも私の役目だった。
私たちは真っ暗闇の中でただひたすらに足を動かし続け、頭上に見えた一筋の明かりに縋るよう歩みを一層早くしていく。そうして開けた眼前を目を細めながら見渡せば、何事かと窓から顔を出す子どもたちと目が合った。薄汚れた階段とは裏腹に、やはり別棟内は綺麗なものだった。
「竹原! なんだよ、俺と遊んでくれるのか?」
器用に窓を飛び越えた彌祐は、素足のままの手入れのされていない芝生を歩いて来る。
「遊ばねぇよ!」
「いいや遊ぶね。丁度退屈してたところなんだ」
嬉々と小走りで向かい来る少年に竹原は柄にもなく逃げ回る。嫌だ嫌だとは言いつつも、なんだかんだ彼自身もこの状況を楽しんでいそうだった。
「あ、羽鈴ちゃん」
瑞城が見据える先には小さな女の子がいた。
「あそびにきたの?」
誰かがあげたのであろう鳥の人形を抱いた羽鈴は、彌祐同様靴を履かずに玄関から歩き出る。昼寝でもしていたのだろう。覚束ない足取りは幼子のそれと同じだった。
「竹原はそうでしょうが、あいにく私たちは違うのですよ」
「俺も違う!」
遠くの方で叫ぶ彼を他所に、瑞城はその場にしゃがみゆっくりと歩く羽鈴を待つ。
「おはなししてくれるの?」
「夕方でよかったら話しに来るね」
目線を合わせて柔らかく彼女が告げると、羽鈴はほんのりと笑顔を浮かべ抱いていた鳥の人形をぎゅっと強く抱きしめた。
事あるごとに実感する。この子はまだ五歳の、そこいらに居る子どもと何ら変わりはないただの女の子だと。操師とはいえこんな閉鎖的な空間で過ごさせている現実が、言葉に出来ない感情となって私の中に溢れていく。しかしそれを強いているのは紛れもなく私たちで、盾と矛が両側から私のことを挟み撃ちしていた。
「いまはなにするの?」
視界の端で呻き声と争う姿が見て取れたが、尚も変わらず私は無視して彼女に告げる。
「人を捜しているのです。棗を……お姫様を見ませんでしたか?」
自分の妻を『お姫様』と呼ぶのは少々気が引けたが、それが羽鈴にとって一番分かりやすいだろうことは理解していた。この小さな女の子の中では彼女は私の妻でも、棗という名前の人間でもない。妖の姫で、操師の頂点に位置する人物で、怪物と総称される何かだ。
「おひめさま? ……みたの」
思いもよらぬ収穫に私は言葉を失った。棗はここに来ていた。私に会うことなく、同族とも呼べる彼女たちに会いに。
「それはいつです」
私が言葉を発すると、いつの間にか羽鈴の背後に居た悄眞が蚊の鳴くような声で呟いた。
「昨日……だったと思う。様子見に来て、それで」
「くらうらにつれてかれたの!」
「くらうら?」
「楠浦。あの……男の」
「楠浦……本部長ですか?」
二人に問うと羽鈴は激しめに、悄眞はかなり控えめに頷いた。何も無かった手がかりの一端が掴めたことで、ようやく探すべき道が見えたような気がした。
「なんで本部長が棗さんを連れてくの?」
「さぁ。……取り敢えず行こう。自宅の場所は知ってるから」
私がそう言えば、瑞城は力強く一度だけ頷いた。
「はれも! はれもいきたいの!!」
すると目の前でピョンピョンと跳ねながら主張する子どもが一人。ようやく来た来訪者を引き留めるかのように、羽鈴は滅多に見せない表情を幼い顔に浮かべていた。
「羽鈴さん」
連れて行ってもさして問題はない。特別指定異師には単独行動と独断決定権が与えられている。操師を一人や二人連れ出す理由くらいいくらでも作り出せる。しかし今回ばかりは——。
「危ないかもしれないんです。楠浦さんは私たちの上司ですが、それでも何が起こるか分かりません。だから連れてはいけません。すみません」
瑞城と同じように少女と目線を合わせ、説得というよりも理解を得るような感覚で言葉を紡ぐ。
何が起きるか分からない。それは今までもそうだったが、相手が野良か、操師か、現役の異師かで危険度が大いに変わってくる。悲しいことに今回は現役の、それも本部長という実力者。仮に戦闘になった場合、幼い子どもを連れ、守りながら戦うなんて無謀にも程がある。
「どうしても、だめ?」
強く強く、鳥の人形を力一杯抱きしめる幼子の姿に胸を締め付けられながら、私は再度「すみません」と口にする。操師は身体を傷つけられても死なないけれど、それでも痛みを感じないわけではない。避けられる苦痛に突っ込んでいく理由は、幸いなことにどこにも存在しなかった。
「羽鈴ちゃん、どうして一緒に行きたいの?」
瑞城がそう訊ねれば、少女が暫く黙った後で観念したかの様に口を小さく開く。
「はれは……おさんぽしたいだけなの。ぽかぽかのしたをおさんぽしたいの」
普通なら今すぐにでも叶えてあげられる、なんてことない些細な願い。けして難しいことじゃない。断るようなものでもない。しかし此処ではそうもいかないのが現実だ。
「羽鈴……あっちで、一緒に絵本読も」
悔しさに、悲しさに口を歪める羽鈴に、悄眞が優しく声をかける。こんな壁に囲まれた場所では散歩を望むことも、それを叶えることもままならない。
「羽鈴! 今度俺が外連れてってあげるからさ、今日はみんなで遊ぼうぜ!」
竹原と遊び飽きたのか、小走りで駆けてくる少年が一人。幼い少女は渋々といった風に首を重く縦に振り、悄眞の手を取ってゆっくりと歩き出す。
「私たちも行こう」
今はただ、やるべきことを遂行する。自分たちの為にも。彼女たちの為にも。
「そうね。早く見つけて戻って来なくちゃ」
「俺は終わったら寝るよ。腕いてぇし」
かくして私たち三人は別棟を後に、本部長の自宅である郊外まではせ参じることにした。
** * * *
存在する異師の大半が職場備え付けの自宅に住む昨今。しかし必ずそこに住まなければならないという縛りはなく、希望を出せば可能な限り好きな場所に住居を構えることが出来る。が、多くの者がその選択をしない理由の一つに『不便』がある。
時間を問わず発生する野良による暴動。怪奇の調査。操師の対処……。数多ある職務の合間を縫って離れた自宅に帰るなど不便以外の何ものでもない。寝に帰ることもままならないのだから大多数に家を持つ利点はない。それに異師の多くは皆独り身。立派な居を構える必要は微塵もなかった。
「すごいな……」
目の前に聳え立つ建物を仰ぎ見ながら、あんぐりと口を開けた竹原が言葉を漏らす。
「そうね、立派だわ」
感情を失ってしまったかのように瑞城が抑揚なく口を開く。三人揃って見上げるそれは、私たちが未だ必要としていない一軒家。要人でも住んでいるのかと勘違いしてしまう程に、それはそれは立派なものだった。
本部長とはこれほどまでに儲かる仕事だっただろうか。少なくとも大豪邸を立てられるほど懐が潤うとは到底思えなかった。
「無理したのかしら……」
口調が変わってしまった彼女を横目に、私も暫く目の前の家を眺め続けていた。そうしてから意を決したように戸口を叩けば、奥から出て来たのは奥ゆかしい上品な女性だった。外見からして奥さんなのだろう。女性は私たちの服装を見るや察したのか「お世話になっております」と会釈して見せた。
「朝早くから申し訳ありません。本部長はご在宅でしょうか?」
「えぇえぇ、居りますとも。少々お待ちくださいませ」
私の問いに朗らかに応える女性の所作は美しかった。どこぞのお嬢様か、それに近しい出生であるに違いない。そう思うと、異師という白い目で見られる職に就く者になぜ嫁いだのかと不思議で仕方なかった。
「引く手あまただろうにな」
私と同じことを考えていたらしい竹原が、此方をちらと見やりながら口にする。未だ家系やら外面やらを大切にしている世情の中で、どうしてもそこだけが大きく引っかかってしまう。
「お互いに惹かれたんだね、きっと」
うんうんと首を振りながら瑞城が言う。二人には二人にしか分からない世界がある。それを周囲が邪推するのは些か野暮が過ぎる。それでも人間というのは何とも面倒な生き物で、目の前に男女が一人ずついたら考えてしまう。有ること無いこと思ってしまう。
「玉の輿かな……?」
「本部長の親が太いんだろ」
「私の実家より立派だ。もしかして大富豪だったり……」
各々自由に発言していれば、奥からハハッと笑いながら男性が顔を出す。落ち着いた色味の着物に身を包んだ本部長は「そんなに気になるかい?」と責めることも咎めることもなく言った。彼は私や竹原と九つしか違わないけれど、そうとは思えないほど大人の男性だった。
「すみません」
慌てて謝罪を口にすれば「気にしなくていいよ」と言う。余裕のある男性は異性に好かれるらしい。この人にこの奥さんあり、というのがなんとなく分かったような気がした。
「お久しぶりです、楠浦本部長」
先程と雰囲気を変えた瑞城は、手本のような所作で定型文を口にした。本部長を含め、幹部と呼ばれる三人が現場に出ることは滅多にない。故に、幹部室へ行かない限り会うことはおろか言葉を交わすことさえ私たちには出来なかった。
「久しぶり。みんな元気そうで何より」
都田連長とはまた違う朗らかな笑みは、気のいい親戚のおじさんを彷彿とさせた。
「お前様、立ち話もなんですから上がっていただいたらどうでしょう?」
部屋の奥から戻って来た女性は、おぼんを両手で胸の前に掲げながら言った。耳の後ろに覗かせている簪は若い女性に人気の露店の物だった。それもかなり高価なもの。管理職というのは想像以上に儲かるのだろう。
私は綺麗な御髪を結い上げている簪に気を取られながら、招き入れられるがままに上司の家に上がった。靴を脱ぎ木目の綺麗な廊下を進めば、目に飛び込むのはい草の香りが漂う部屋。
定期的に変えているのが窺える綺麗な畳に、完璧なまでにピンと貼られた障子。少し見上げれば桜の彫刻を誂えた格子状の欄間が目に入る。つい溜息が出るほど見事な部屋だった。
「こりゃ……」
「いくらかかったんですか、このお部屋」
常識を兼ね備えた瑞城の口から本音が漏れる。最早失礼とか非常識だとか、そんなことを気にするだけの頭はなかった。
「そんなにかかってないよ。全部高く見えるだけ」
謙遜というのは時に嫌味に変わるのだな、と実感した。柱も畳も、見る人が見れば分かることだ。私の給料では到底揃えることすら叶わない高級品。格差を眼前に突きつけられた気分だ。もう帰ってしまおうか。
「それで、今日はどうしたんだい?」
本部長は柔らかな声でそう言うと、足の低い机の向こう側に腰を下ろした。私たちは顔を僅かに見合わせると、本部長と向き合うように机の前に座る。そうすれば間の机に置かれるのは熱を持った湯呑みだった。中には綺麗な緑のお茶が注がれているが、あいにく手をつけるような気分ではない。
「本部長……」
言葉を選ぶように声を発せば、不思議と心臓がドクドクと脈打つのが分かった。何に緊張しているのだろう。どこに身構える要素があるのだろう。自分の身体に起きた変化に脳が追い付かなかった。机の下でギュッと拳を握る。息を鼻から大きく吸い込んで、吐き出す空気に音を乗せた。
「棗を……私の妻の行き先を知りませんか?」
顔を上げれば、私の言葉に記憶を遡る一人の人間が視界に入る。けして暑くはないのに握った掌が湿り出す。隣に座った竹原が茶を啜り、瑞城は一気に飲み干した。存外に熱かったのか一人喉を押さえる隣の女性の表情は誰よりも険しかった。
「そんな女性、私は知らない」
「昨日会っていたと聞きました。何の用だったんですか?」
「見かけない人だったからね、ちょっと声をかけただけだよ」
「……知らない、は嘘だったんですね」
間違いを指摘するように言うと、本部長はバツの悪そうな顔をした。棗の失踪にこの人が何かしら関わっているのは明白だった。
「もう一度聞きます。棗の行き先を知りませんか?」
私と本部長の視線がぶつかる。そうして私に向けられた目が部屋の奥へと注がれた。途端、後頭部に衝撃を感じ記憶が途切れた。




