第一章 一『鮨詰めの店内』
「はい、かけ二つね」
その声とともに目の前に置かれたのは、湯気と良い出汁の香りを放つうどんだった。
場所は賑やかな大通り沿い。機織りの音とともに人々の生活音が聞こえてくる。その脇に店を構えるうどん屋は、その辺の古民家と大差ない。店内に鮨詰めのように溢れる人さえいなければ飲食店とすら分からないだろう。
「おい百瀬、話ってのはなんだ。深刻なものか? あ、ついに結婚でもしようってのかよ」
やっと取れた束の間の休息時間。早朝からの任務に私たちの腹は悲鳴を上げていた。
夕焼けに染まる橙色の空を視界の端に捕らえながら、私は呆れたように息を吐く。
「違う。ついこの前も見合いの話を断ったばかりだ」
向かいに座る同僚の竹原は、うどんをずるずると啜りながら茶化すように言った。
麺の先が口に吸い込まれるのと同時に、冷め始めた汁がこちらに飛んでくる。それを眉間に皺を寄せながら拭き取ると、私は一旦箸を置いて竹原に向き直った。
「な、なんだよ。本当に深刻な話なのかよ」
竹原は少々嫌そうな顔をしたが、そんなものには構わず口を開く。
「最近の例の発生件数増加について、お前はどう思う?」
食事中に仕事の話を持ち出されたのが気に食わなかったのか、彼は溜息をひとつ吐くと再び麺を啜り始めた。
「私は野良辺りが関わってるんじゃないかと思うんだ。その方が自然だと思わないか? 目撃者も異変を感じた者もいないなんて妙だ。一般人に出来る所業だとはどうしても思えない」
「そりゃ俺もそう思うよ。ただの変死事件じゃないことぐらい百も承知。骨と皮だけの骸なんて、そう簡単に作れるものでもねぇだろうしな」
私は返事の代わりに頷き、真っ直ぐ前を見据えた。
徳川慶喜公が表舞台から退き早数年。物事の中心である東京とは打って変わり、この辺りは随分と人が減った。ついこの前までたくさんの人でひしめき合っていた通りが、今では地面の色の方が多いほど。
時代とともに周辺の制度も目まぐるしく変化し、皆それらについて行くだけで一苦労なのが正直なところだ。けれど、そんな中でも私たちのやるべき事は変わらない。それは——
——怪奇を疑う事象全ての対処——
怪奇と一纏めに言ってもそれらの種類は多岐に渡る。
霊や妖といった姿さえ見えない存在によるもの。呪いや祟りといったあらゆる感情や条件によってもたらされるもの。そして、私たちと同じ常人を超越する力を持ち、組織により管理されていない『野良』と呼ばれる者たちによるもの。
私たちの仕事はその怪奇と言われるものに関わる事柄を調査し、解決することだ。
そんな我らが所属しているのは、国内に存在する全ての能力者を管理し、統率している組織、『日本異師連』。その中の数十人に与えられた、単独行動が許された『特別指定異師』が私と竹原の持つ正式な肩書だ。
「だがな百瀬、必ずしも野良が関わってるとは限らんぞ。俺らには見えんが妖の可能性だって大いにある。そうなりゃ、いくら俺らでも処罰どころか手出しすら出来ん」
「そうと決まったわけでもないだろう。私たちの仕事は疑うことだ。野良が関わっている可能性がある以上、このまま上に報告することは出来ない」
「俺だってそんなこと分かってるよ。伊達にこの仕事やってるわけじゃないんだ。面倒だからお手上げ、なんて、端からするつもりはない。だがな、俺の考えが正しかったとき。そりゃ最早敗北宣言と同じなんだぞ」
竹原は割り箸の先を私に向け、その後の対応を考えるよう促した。
霊や妖などという不確定な存在に対して、対応も何もないじゃないか、と半ば投げやりに思う。どれだけ目を凝らしても見えないのだ。声も気配も、あいにく感じることが出来た試しはない。勿論そんな術があるわけもなく、彼の考えが正しければ現段階で既にお手上げだった。
「……操師に頼むしかない」
私はそう呟き、店内で店主と揉めている大男に向かって持っていた割り箸を投げた。手から離れた割り箸は空中で加速し、男の項に当たって力なく地面に落下する。
カランと乾いた音に重なるのは大男が膝から崩れ落ちる様。そのまま身体を横たわらせると、店内の視線が一つに合わさるのを感じた。
少しやり過ぎたかもしれない。私はそう思いながら、机に備えられた真新しい割り箸を一膳手に取った。
「あいつらが協力してくれるとは思えんな」
彼は先程の出来事を意にも介さず、うどんの汁を啜り腕を組んでから続けてこう言った。
「奴らの生意気さ、お前も知ってるだろ? それに、気軽に頼むのは気が引けるってもんだ」
「背に腹は変えられない。私たちだけではどうしようもないだろう」
「また殴られるの嫌なんだけどな!」
心底嫌だと言うように彼の眉間に皴が寄る。
「耐えてくれ。彼らが殴りかかってくるのであればそれを受け止める責任が私たちにはあるんだ。それくらい、私たちは出来なければいけない」
竹原は呆れたように再び溜息を吐き、「分かってるよ、俺だって殴られる覚悟は出来てる」と口にした。私は……私たちは、自らの行いから目を背けることは許されない。許してはいけない。