第一章 十八『慣れと覚悟』
「やっとじゃな」
眩しそうに目を細める彼女の横顔をちらと見やってから、私も正面に現れた世界に目を向けた。歩いて躓いて馬鹿にされて、それでもこうして何とか地下道を進んできた。望んでいた地上に安堵し、酸素濃度が上がっていくのを感じる。
カランコロン、カツカツ。カランコロン、カツカツ。軽快な音を奏でるように階段を上れば、裏に追いやられた別の世界が広がっていた。
「またきたの」
小さく可愛らしい声が耳に届く。その声に続くように傍に居た少年が声を発する。
「お前が姫なのか?」
彼ら彼女らに対して敬語や礼儀を求めることはない。それはきっと彼女も同じで、嫌な顔一つ浮かべてはいなかった。階段を上り終えると、すぐそこに私たちの協力者が勢揃いしていた。おそらく彼らの妖が感知したのだろう。巨大な白蛇は想像より高貴な存在なのかもしれない。
「あの日ぶりじゃの。達者であったか?」
「たっしゃだったの!」
「いつもと同じだ」
誰にとっても変化の無い日々。それが良いのか悪いのか、あいにく私にだって分からない。
「そうか、皆元気そうで何よりじゃ。……して、そなたらの名でも聞こうかの」
かつてない程に、彼女の声は慈愛に満ちていた。同じ操師に出会えて嬉しいのだろうか。彼らがまだ子ども故に、母性か何かが湧き出たのだろうか。少なくとも私に見せることのない振る舞いに、複雑な感情が胸の内でぐるぐると回っていた。
「はれははれなの」
「俺は彌祐。羽鈴と一緒で家名はない」
彌祐はそう言って羽鈴の小さな手を握った。親も家もない彼らにはお互いしか居ない。けれどそれは彼らに限ったことではなかった。
普通の人間ではないという一般論は、往々にして該当者を化物という枠に押し込める。不気味で不幸を招く、災いの生まれ変わり。そんな存在を律儀に育てる親など、数えてもきっと片手に収まる程度だろう。私たちは何も変わりなかった。
「悄眞」
いつの日か彌祐に酷い目に遭わされていた少年は、俯いたままぼそりと自分の名前を呟いた。十二歳ほどの彼に覇気と呼べるものは何もなく、感じられるのは絶望と悲壮感だけ。何も語らず、殴られてもやり返さず、生きることを手放してしまったかのようだった。
「悄眞」
彼女が彼の名前を口にする。けれど彼の視線が上がることはなく、言葉のひとつも上げはしない。ただそこに立っているだけだ。
「悄眞」
反応はない。それでも彼女は構わずに言葉を紡ぐ。
「さぞ妖が憎いであろう。恨めしいであろう。さりとて、その境遇から逃れる術はない。いくら私であろうとも、もはや普通の人間になれはせぬ」
彼女は一体、どんな意図をもってそれを口にしたのだろう。飲み込むことの出来ない現実を改めて言葉にされた者は、その場で藻掻き苦しむことすら出来ないというのに。
「そう分かれば次は捨てることじゃ。過去も希望も名も、捨てられるものは全て捨てよ。さすれば見えてくるものもあろう。見えなくなるものもあろう。だが一つ言えることは、今より遥かに楽ということだけじゃ」
「全部捨てちまうのか?」
「そうじゃ。今を見るために捨てるのじゃ。受け入れなくとも良いのだ。見る目さえ持っていれば」
まるで母親が子どもに言い聞かせるときのような、そんな雰囲気が辺り一帯に漂っていた。
操師だけが生きる世界。部外者には理解出来ない必須な処世術。私がどこか蚊帳の外なのは……この別棟の空間に歓迎されていないのは、見えも感じもしないからだけではない。何も捨てず何も拾わず、父の作った道を、その背中を、周囲から向けられる目の盾にして歩いて来たからだ。
体験した罵声や投石の痛さは、きっと他の人より感じてこなかった。私の身体に刻まれた傷など高が知れている。
「彌祐も羽鈴も捨ててきたのであろう。その年で無意識に、この世を生き抜くために」
彼女がそう言うと、二人は何のことだかさっぱりとでも言うように首を傾げた。まだ年若い子どもには少々難しかったのかもしれない。けれど、それを無意識にやってのけているのだとすれば……。たとえ生きる術であったとしても胸の奥が締め付けられる。
「はれはね、もうずっとはれなの」
たどたどしい小さな声が彼女の言葉に返答する。出会った頃よりもずっと健康的になった少女は、おそらく親のことなど覚えてはいまい。見える者は捨てられ、あるいは虐げられる運命。名前しか持っていなかった少女は前者であったのだと、見つけた私は思っている。
「俺は捨てたとは少しも思っちゃいない。親の顔も声も、家の場所だって朧げで、扱いは酷かったし、終いにはこんなところに置き去りにされて……。だけど捨てちゃいない。捨てたら俺じゃなくなんだろ? だから捨てない」
彌祐はしっかりと胸を張って口を開く。辛い環境で生きてきたはずなのに、道を外すことも擦れることもなく真っ直ぐ成長している。私より彼らの方がよっぽど大人だ。
「僕は! ……僕は、捨てようとしてます。いいとこの出ですけど、もう関わりありませんから」
「名は」
「丞之心です」
悄眞のさらに僅か後方に立っていた十二歳ほどの少年は、彼女のことを正面から見捉え口を開く。向けられた眼に靄はなく、澄み切った青空が反射している。
「捨てるも一興、捨てざるも一興。ここに居るはそなたと同じ境遇の者のみぞ、悄眞」
総括するように彼女は笑みを湛えた。終始俯いていた彼はとうとう視線を上げず、会釈をひとつしてから部屋の方へと戻って行く。
彼がここに来たのはいつだっただろうか。まだ一カ月と経っていないような気もするが、半年は経っているような気もする。多くを語らず、他の誰とも会話をせず、一人部屋の隅で膝を抱えている。どうにかして救えないものかと私が頭を悩ませても、所詮は操師と異師の関係だ。それを覆すことなど結婚でもしない限り難しい。
「日柄ものじゃな」
寂しく歩く小さな背中を見て、彼女は心配するともなく呟いた。
「慣れ、ですか?」
「そうじゃ。受け入れ難いものも、それに身を浸していれば侵食もされよう。幸いここは刺激も少ないしの」
こちらを横目に見るその様に、私はどこか安堵していた。これまではけして手の届かない遥か先を生きているのだと……生きる世界が裏と表なのだと……そう突きつけられたようで怖かった。恐ろしかった。隣に居るというのに、生きる時代がまるで違うみたいだった。けれど今は同じ時を、感覚を、共有出来ているような気がする。不思議と恐怖は感じない。
「おおきいへびなの」
「そうだ姫様! そのおっきい蛇紹介してくれよ」
「この子も大きくなるんでしょうか……?」
羽鈴の言葉を皮切りに、漂っていた空気に亀裂が入る。続いて彌祐と丞之心が声を上げ、パッと霧が晴れたような、すっきり清々しい雰囲気にがらりと塗り替わった。その様子にハハハと笑い声を上げた彼女は、子どもたちを宥めるようにそれぞれの頭を撫でる。
「時間ならたっぷりある。ゆっくり茶でも飲んでから話そう」
微笑ましい光景が目の前に広がっている。穏やかな日常がこのまま続くのなら、別棟内に住んでしまってもいいんじゃないか……なんて思わないこともない。彼女が別棟へ向かって歩き出すと、三人も小鴨のようにその後ろを歩き出す。一人ポツンと出口に取り残された私は、僅かな寂しさと得も言えぬ多幸感でいっぱいだった。
「その前にちょっといいか? 百瀬ー、一戦やろうぜ!」
元気いっぱい振り返った彌祐は、手を上げながらこちらへ走り寄って来る。楽し気に、嬉々として駆けるその姿が、今だけは鬼よりも恐ろしいものに感じた。
* * * * *
じゃれつきという名の格闘大会を終え、私は別棟を後にした。一人で渡る地下道は恐ろしさと孤独感が何倍にも増幅し、今にも押し潰されそうだった。
暗くじめじめと湿度が高い。心なしか空気が薄く、満足に呼吸することすら叶わない。一人になった途端このざまか、と自身の惨めさに乾いた笑い声を上げた。その音すらも響き渡るこの地下道が恨めしい。
そう思うと、心なしか進む足が速くなっていった。気づけば足元には階段。見上げれば外光が私目掛けて降り注いでいた。
「今日は戻って来ないだろうな……」
背後で別れた彼女のことを思い出し、私は明るくなった階段の一段目に足を乗せた。やはり異師の私より同じ操師の輪の中に居る方が心地良いのだろうか。同じものが見える、聞こえる、話せる、触れられる……私はどれも持ち合わせていない。相容れないと言われれば反論する言葉は持っていなかった。
「百瀬」
不意にかけられた言葉に視線をゆっくりと上げれば、眩しいほど輝く明るい世界に四本の脚の影。二つの胴体。世界の明るさに目が慣れれば、浮かび上がってくるのは数えきれないほど見てきた顔。声だけでその者たちの持つ名だって口に出来てしまう。
「なんだ、ずっと待ってたのか?」
平静を装って。普段と同じような声音を意識して。私は目の前の二人に向かって言葉をかける。
「ずっとは待ってない……ちょっとだけだよ」
瑞城の声色にいつもの覇気は感じない。
「棗さんは?」
「……あぁ、別棟で子どもたちと」
「そうか」
何か言いたげな表情を浮かべたまま、竹原は私を真っ直ぐ見据えていた。瑞城も竹原も私も、何をどう切り出せばいいか考えあぐねていた。全て正解で全て不正解。そんなぼんやりとした感覚が、私たち三人をぐるりと囲っている。
「百瀬さん……私たちね、心配なの。こんなこと言っちゃ失礼かもしれないけど、強大な力を持った操師は危ないよ。いくら百瀬さんでも見えないものの対応は難しい」
「今すぐ離縁しろなんて、そんなこと言わない。でも少しは考えてみてくれよ。お前が傷ついて死んじまってからじゃ遅いんだ」
私は何も言えなかった。二人の言葉には一理ある。いや、二理も三理もある。他人の敵意にそれ以上の敵意で返すような人だ。その矛先が私や彼らに向かないとも限らない。周囲を巻き込んでまで危険に立ち向かう必要はない。
ないけれど……私が離縁したら彼女はどこに行くのだろう。また色町に戻るのだろうか。連長たちに操師とバレてしまった手前、この街はおろか他の場所でさえ生きていくのは困難を極めるだろう。そうなれば彼女は一人だ。どれだけ妖が居ようとも、彼女が彼女で居られる場所はない。彼方側では姫なのだ。棗ではなく化姫でしかいれないなんて、そんなのあんまりじゃないか。せめて私が生きている間だけでも、彼女が棗で在れる場所を———守りたい。
「最初は強引だった。なんで私なんだって、そうとしか思えなかった」
「だったら」
「でも、今はなんだかそうじゃないような気がするんだ。選ばれた意味とか、一緒に居る道理とか、そんなこと少しだって分からないけど。でも……覚悟は決めてる。何があっても迷惑はかけない」
これは一種の宣誓だった。棗と出会ってまだ数日。知っていることよりも知らないことの方が多い。彼女は長生きだから、ものの隠し方も嘘のつき方も私より何枚も上手だ。それでもいいと思えるのは。覚悟は出来てると言えるのは。彼女に対する一種の興味なのかもしれない。
「「はぁ」」
私の言葉を聞いた二人は、示し合わせたかのように溜息を吐いた。私が離縁を選ばないことがそんなにも残念なのだろうか。悲しませただろうか。けれど傷つく覚悟は出来ている。死ぬ覚悟だって父と誓ったあの日から胸の中にしっかりと有る。彼女と一緒に居ることがどういうことなのかも理解しているつもりだ。二人になんと言われても私の考えは変わらない。
「そうかよ……分かった、分かったよ。なら俺たちも腹括る」
頭を搔きながら、竹原は観念したかのように口を開いた。
「……ん?」
「仕方ないね。百瀬さん頑固だから」
腕組みをしながら、瑞城は一人うんうんと頷いている。何が何だか分からない私は、またもや蚊帳の外を体験していた。
「ま、いざとなりゃ腕の一本や二本くれてやる」
「私は嫌だけどね」
「話が見えてこないんだが……?」
「だから、私たちも覚悟決めるって言ってんの! 結婚を応援するわけじゃないけど、百瀬さんの気持ちは尊重したいし」
覇気の籠った言葉に私は僅かに気圧された。
「何かあれば俺たちも一緒に止めてやる。お前が傷つくってなら俺たちだって傷ついてやる。これはそういう覚悟だ。それに——」
竹原はそこで言葉を区切り、一歩前に踏み出してからこう続けた。
「同僚の前に友達だろ。迷惑ぐらいかけろ」
私が女性であったなら、きっと今の言葉に惚れていたことだろう。そう思うほどに頼もしく、心外なほどに嬉しかった。
「覚悟祝いにすき焼きでも食べ行く?」
瑞城のいつも通りの笑顔に、なんだか涙が溢れそうだった。良き同僚に……いや、友人に恵まれた。感謝してもしきれないが、敢えて言葉にするのは先送りにする。
「パーッと行くか」
「まだ昼だよ」
「いいからいいから」
竹原に肩を組まれ、瑞城に腕を掴まれ、まるで連行される犯人のようにそのまま職場を後にする。他の異師になんと思われようと構わない。この二人さえいれば、たとえ刺されようとも異師をやれる。それほどまでに、彼らは私の中で大きな存在になっていた。
昼から酒を浴びるように飲んだ竹原は案の定補佐官の伝令を全無視し、陽の落ちた現在もすき焼き屋で寝こけている。竹原が友人だなんて、この時ばかりは口にしたくなかった。




