第一章 十五『上長』
声の主は、それはそれは美しい女性。私の同僚と鍛錬場を眺め、何かに腰掛けているような体制で入り口付近に立っている。柄の多い薄紅色の着物は、この場には些か不釣り合いだ。裾は地面に付き、これでもかと砂に塗れていることだろう。もしかすれば色さえも変わってしまっているかもしれない、
「私はお前らの殴り合いが見たいわけではない。能力を使え。使えるものを使わぬは恥じゃ」
けして声を張り上げているわけではないのに、私たちの耳はその言葉を正しく拾う。妖の力を使っている素振りは微塵もなく、ただ平然と、自然に耳元へと音を発していた。
「恥って言われても……たまにはこうして体術をやることも大切なんですよ」
竹原は大声を出すことなく、遠く離れた彼女へ向かって口を開く。その言葉に続くように、彼女の隣に居る瑞城がこう言った。
「そうですよ、棗さん。能力だけではどうにもならないときだってあるんですから」
僅かな風に乗り、瑞城の声が微かに耳へ届く。確かに能力だけではどうにもならない状況は存在する。竹原の閃光は必中必殺ではないし、私の能力も相手を打ち倒せるものではない。その場に攻撃的な能力を持つ異師が居れば別だが、一対多数の状況がこの先一切無いとも限らない。
強力な能力を享受出来ていようといるまいと、危機的状況を打破する選択肢の一つとして体術を会得しておくことに越したことはないだろう。だが、そんなことを私がとやかく言うことは憚られた。私ほど体術が出来ない人間など連の中にはいないのだから。
「そうであっても殴り合いなど品がない。まだ続けるのであれば私は帰ろう」
「……百瀬さんが殴られてるのが嫌ってことですか?」
踵を返そうとこちらに背を向けた彼女に、瑞城は容赦なく問いかける。もし仮にそうであったなら。彼女が、私が殴られてる姿から目を逸らしたいということなら。私はどこか嬉しくなる。何故なのだろう。不甲斐なさや憤りよりも先に嬉しいと思ってしまう。
「そんなわけないであろう。殴られている者を見るは爽快じゃ。気分がスッとする。このままあやつが殴られ続けようとも、私は楽しんで見続ける自信がある。そこいらの芸よりもよっぽど興が乗るというものじゃ」
玲瓏な声が舞い上がる砂埃と混ざり合う。
「ではこのまま一緒に見ていませんか? 今日はそうそう呼び出されませんから」
「……紛い者を見て何が面白いのじゃ」
低く低く、のびやかな声に獣が巣食ったかのような声音。先程の声とは打って変わり、聞いていて背中が泡立つような感覚に襲われそうになった。
「紛い者?」
瑞城は首を傾げ、腕を組んでからこちらをじっと見つめた。紛い者という言葉の意味が理解出来ないのだろう。その言葉は、この場では私にしか理解出来まい。彼女は全て見透かしている。今の私が私ではないことも、おそらくはその正体までもを。
「私は戻るぞ」
疑問を浮かべた瑞城をその場に残し、彼女は一人優雅に家へと戻っていく。小さくなっていく薄紅の着物は、次第に私の身体の感覚をはっきりとしたものに変えていった。今回の取引はここで終了。何となく彼女が終わらせてくれたように感じる。それを静かに見ていた竹原は、頭を搔きながらふぅと溜息をひとつ吐いた。
「なんだか冷静になっちまった」
戦闘訓練によって昂っていた熱は収まり、今更殴り合いを続けられるような雰囲気ではない。
「今日はもう終わろう。身体慣らしであれば十分動いた」
「確かにな。疲れすぎて仕事に支障が出そうだ」
私たちはそれぞれ身体を十分に伸ばし、服の埃を払ってから歩き出した。だがさすがに黒い靴に付着した汚れは落ちず、ところどころ茶色に変色している。帰ったら拭わなくては……と少々憂鬱ではあったものの、気持ちはかえってすっきりとしていた。
「今日も一日頑張りましょ!」
こちらに歩み寄ってきた瑞城は、両手の拳を胸の前に構えて気合を身体全体で表現している。この場に居る誰よりも気力の溢れた彼女に、今日一日の業務を全て任せてしまいたい。程よい疲れと倦怠感は、心地よい睡眠を約束してくれている。私は歩きながら自室の布団を脳内に敷き始めていた。
「ん? なんか揉めてる?」
そう言いながら正面の建物脇をじっと見つめる瑞城。彼女と同じように私たちも耳を澄まして見れば、確かに誰かが揉めてるような声が聞こえる。また近所の住民が建物に突撃してきたのだろうか。今対応している人には悪いが、私でなくてよかったと安堵する。
異師の勤務する職場に訪問してくる人間は、総じて態度や言動が悪いのだ。例えば罵詈雑言の嵐。異師がどうたら野良がどうたら。終いには国の政治への文句が止まらなくなる。かと思えば日頃の鬱憤を晴らすかのような横暴な態度。肩をどつかれ、転ばされ、殴られた者もあったと聞く。そんな人々の対応をした日には精神がゴリゴリと音を立てて擦り減る。それこそ数日は機能を停止せざるを得ない程に。
「ご愁傷様です」
「ご愁傷様です」
「ご愁傷様です」
心の奥に仕舞った本音を口にすれば、続けて竹原と瑞城が労いの言葉を発する。対応している者には後で菓子でもやろう。私たちは目配せでそう約束した。
「今行ったら巻き込まれるよね……」
「あぁ、確実に」
動いていた足は揉めている声が聞こえ始めた辺りで自然に止まった。前進するのを本能が拒絶し、足裏が地面に固定される。
「どうしたものか……瑞城、竹原と身体慣らしでもしたらどうだ?」
暇潰しぐらいにはなるだろう。そう思って提案すると、瑞城はものすごい速さで首を左右に振った。
「嫌だよ! 怪我しちゃう」
「怪我ぐらい仕事でもするだろ」
瑞城の言葉にすぐさま竹原が反応する。
「殴るじゃん」
「殴らないよ」
「嘘だぁ。百瀬さんのこと遠慮なく蹴ってたくせに」
「瑞城は殴らねぇよ」
「信用出来ない!」
「信用しろって」
二人の会話に私が入る余地はなかった。端から見れば随分お似合いの二人だ。竹原は否定していたが、彼女と話すときの表情は私と話すときのそれとは随分違う。幾らか穏やかで、心なしか生気が溢れて出ているように感じる。早くくっ付いてしまえばいいのに……。柄にもなくそう思わせるほど理想の相手同志であろう。
私は恋人未満の痴話喧嘩を他所に、話し声のする方をちらと見た。未だ話し終える気配は微塵もないが、どことなく聞き覚えのある声だ。そして、次第に近づいてきているように感じる。まさかこちら側に来ているというわけではあるまいな……。もしそうであれば巻き込まれかねない。
「逃げるか……」
ぼそりと呟いた声が目の前の言い合う声によって掻き消える。今この二人に声をかければ、今度は私がその輪の中に入れられてしまう。災いと分かっていながら踏み込むほど考えなしではない。考えた末、私は一人静かにゆっくりと後退すべく足を引いた。
「だいたい、竹原さんのこと私よく知らないし!」
苦し紛れの言い訳が竹原の面前で披露される。
「こんだけ一緒に仕事してきたってのに、まだ俺のこと分かんないの⁉」
最もな意見だ。私は後退しながらうんうんと頷く。
「仕事は仕事、私事は私事でしょ? そもそも最近一緒にご飯も行ってないじゃない」
この意見にも賛同する。休日も休憩時も、ここ数年竹原が瑞城と二人っきりで居るのを見たためしはない。同僚と言うには長すぎる付き合いではあるが、こればかりは慢心していた竹原が悪い。
「じゃあ今度お茶でもどうよ」
これ好機とばかりの発言。しれっと誘うのではなく、もっと堂々と誘えよ。これでは致し方なく誘った感満載ではないか。しかし、ここで傍観者である私が口を出すことは出来ない。否、出来るわけがない。
「いいわよ、受けてたとうじゃない」
喧嘩だ。こうなってしまっては優雅に茶を飲むどころではない。二人の間に今にも落雷が落ちそうな、そんな予感がしてヒヤッとした。
「離せ」
痴話喧嘩の後ろで微かに聞こえていた音が、はっきりとした声になる。
「今すぐその手を離せ!」
あぁ、知っている。先程聞いたばかりの声だ。長い髪を揺らしながら、ついさっき優雅に去って行った彼女だ。そう認識した途端、徐々に移ろっていた景色が停止する。何者かに掴まれているのだろうか。捕らえられているのだろうか。意思に反して断固として動かない脚を他所に、意識を視界の奥の方へと向けた。
彼女の身に何かあったのだろうか。危機的状況に陥っているのかもしれない。もしそうであったなら、私は今すぐにでも助けに出なければならない。彼女を離せと、そう言って間に入らなければならない。家族というのは、きっとそういうものだ。
「棗さん」
脚が自然と一歩前に出る。それは二歩、三歩と増えていき、気づけば歩くよりも早く駆けていた。
「離せ、掴むでない。私はもう鍛錬場になど用はないのじゃ」
声が聞こえる。はっきりと、言葉になって私の耳に届く。
「勝手に動かれては困ります」
続けて、鋭くも落ち着きのある声が聞こえた。私の脚はその声を聞いた途端速度を落とし、再び地面と一体化してしまう。何故こんなところに居るのだろう。そんな疑問は口から出ることなく消失していく。
「……もっと早くに切り上げればよかったな」
痴話喧嘩をしていた竹原は、口論どころではないという風に表情筋に力を入れた。
「何も困ることなどないであろう。私が自由に動いて何が悪い」
「悪いか悪くないかは私が決めます。操師は黙っていなさい」
「黙る口など持っておらぬわ」
「黙れと言っている」
美しい声色に混ざる低い音。それだけで、私たち三人の身体は硬直してしまった。指の先ほども動かすのが恐ろしく、もはや呼吸すらもままならない。
「威嚇しようと無駄じゃ。そのような力で威張るなど傲慢にもほどがあるというもの」
彼女の声とともに、建物の陰から人影が現れる。全身黒の例の人と、鮮やかな着物に身を包む彼女。例の人はやはり、左手で彼女の腕を強く握っている。それを振り解こうとしていたのだろう。彼女の服装が僅かに乱れていた。
「挨拶した方がいいかな?」
身体を真っ直ぐ伸ばした状態で、瑞城がこちらをちらと見て言った。通常であれば、姿を視認後直ぐさま挨拶をしなければならない暗黙の規則がある。が、今は果たしてその通常時なのだろうか。状況を見誤ればかえって怒られかねない。
「一旦様子見しよう」
「俺もそれに賛成」
吐息九割の、ほぼ聞こえない声で話し合う。今の私たちに許されているのは、この場で微動だにしないことのみ。話すことも、下手すれば瞬きさえ咎められかねない。私は彼女に胸の中で謝罪した。
「操師のくせに生意気な」
私たちのところにまで聞こえる澄んだ声。その声音とは裏腹に、漏れ聞こえたのは操師に対する偏見だ。多くの一般人が抱いている感情は、勿論異師とてその体内に秘めている。私たちがその偏見から目覚めたのは、自ら見えないものたちを手に掛けたときだ。命をむやみに奪う行為は、大手を振って褒められるものではない。
「力で捻じ伏せるか? ならばやってみよ。伏される前に白でお前を絞め殺してくれる」
低く低く、唸るような音が風に乗る。心なしか彼女の背後が白く、黒く、鈍色に揺らめいたように見えた。背後に映る景色が歪み、これはまずいと思わざるを得ない。この場で彼女の正体を知るのは私のみ。当然、異変を察知して動けるのも私しかいない。砂の上で棒立ちすることしか出来ない状況は、今すぐにでも辞めるべきだ。
「ちょ、百瀬さん⁉」
吐息七割の、しっかりと形になった声には耳も貸さず、私はいつもより動きの悪い足を前後に動かした。地面を蹴ってしまえば一瞬にして辿り着ける。けれど、悲しくもそこまでの勇気は湧いてこなかった。
止めたいのに止めたくない。助けたいのに関わりたくない。そんな相反する感情が、器の中でごちゃまぜになってから一緒くたになる。
「棗」
私の口から吐き出されたのは蚊の鳴くような小さな音。もはや身体を前に動かすこと以外の何もかもを、脳が勝手に拒否しているような感覚だ。彼女が何をしでかすかなど、私如きに分かるわけがない。同じように、例の人の行動も下っ端の私たちに予想など出来はしない。不測の事態。読めぬ人間同士の争い。下手をすればここら一帯が消し炭になる。
「そう言うのなら今やってみせろ。私を、この場で絞め殺してみせろ」
ぐっと音が鳴りそうなほど、その人は彼女の腕を強く強く握った。これ以上やれば骨が折れる。肉が裂けるかもしれない。そう思わせる状況が目の前で展開されていた。
「どうせ出来ないだろう。威勢だけの人間は今までごまんと見てきた」
「人間如きが調子に乗るでないわ」
玲瓏な声に不純物が混じったような声。低く、高く、図太く、か細く、あらゆる情報を含んでいる音。最早生物の出す音とは思えなかった。
「棗……」
ぎこちなく動いていた足が軋みながら制止する。彼女はもう目と鼻の先。もう数十歩も歩けば手が届く。けれどそこで止まった脚はどうしても動かない。そこには、知っているのに知らない人が居た。器だけはそのままに、中身だけが挿げ替えられてしまったかのようだった。嘘でも知人や相棒などとは口に出来ない。
「人間如き? 操師風情が言ってくれるな」
片方の口角をくっと上げ、荒い言葉遣いで反論する。それを宥めるように頭上で鳥が鳴き、さぁぁっと風が吹き抜けていく。冬の冷たい空気が服の隙間から肌を掠めて去って行った、まさにそのときだった。
切れ味のいい包丁が野菜を切るように。竹を刀で思いきり切り分けるときのように。彼女の腕を掴んでいた手が音を立てて落下した。
「うぅっ」
滴り落ちる鮮やかな雨。前腕の中ほど辺りから美しく切り取られた手は、力なく砂に塗れている。例の人は紅く染まった地面に膝を折り、今も尚血の溢れる腕を抱きながら唸っていた。じわりじわりと広がる鮮血は、その人の下に歪な形を作っていく。どこからかやって来た一匹の蟻が引き返すのを、私はただ黙って見ているほかなかった。
「お前のせいで服が汚れたではないか」
情報の消え去った澄んだ声。先程感じた異変は何だったのか、今はもう知る由もない。
「私は、お前のせいで手を、失ったぞ」
苦し気な声が口の端から絞り出された。相当な痛みを感じているはずだが、それでも嫌味事のひとつやふたつは言えるらしい。さすがと言うかなんと言うか、少なくとも見習いたくはない。
「腕などくっ付ければいい。炊いた米を持って来させる間にやってやるぞ?」
彼女がどういうつもりでそう言ったのかは分からない。だが、洒落であったとしても恐ろしさしか感じなかった。
「坂百合副連長!」
破裂音のようにその人の名前が瑞城によって叫ばれる。叫んだ当人は私の横を駆けて行き、輪切りされた腕を見下ろした。
「竹原さん‼」
一歩遅れて駆けて来た竹原は、返事をすることなく真っ直ぐ彼女の元へと向かう。きっと捕らえるつもりだ。人道に反した行い。それも、起こしたのは操師である。これでは確実に処分対象だ。与えられるはずの二択などない。彼女の選択肢は既に一つしか残っていない。
「棗さん、ちょっとやりすぎですね」
どこか浮ついていたはずの彼の声は、いつの間にか異師のそれと同じになる。色も優しさも感じない。竹原にとって、今の彼女は敵でしかない。
「竹原——」
「百瀬」
地の底よりも低い声が、私の頭からつま先までを流れていく。
「はい」
「後で女と部屋まで来るように」
「……はい」
坂百合副連長は脂汗の滲み出た顔で、私を睨みつけながら告げた。この状況下での呼び出しほど嫌なものはない。なんでこうなってしまったのかと、今更考えても無意味だった。
「何様じゃ、お前は」
「棗」
「綾人」
食い気味に名前を呼ばれ、私ははぁ、と溜息を吐いてから口を開く。間違えないよう慎重に、向けられる視線を無視出来るよう意識する。
「この方は坂百合三色副連長。異師連の第二責任者であり、統括者。れっきとした私たちの上司です」
黒に身を包んだ副連長。しかし、耳の下で切り揃えられた髪は明るい茶色。前髪を中央で左右に分けているからか、内面の厳しさが外見にも滲み出てしまっている。操師を消滅させるという目標のみを掲げて生きてきたような人だ。私とは思想が少しも合わない。
「道理で頭が固いわけじゃ」
彼女は平気な顔で火に油を注ごうとする。私はその油を受け止めようか悩み、何故だかそのまま傍観に徹する。
「石頭や、さぞ腕が恋しかろう? 切り口が痛かろう?」
楽し気に弾む声。副連長を支えている瑞城も、彼女を捕らえようとしていた竹原も、顔面から色がスッと消えていく。彼らの顔に張り付いたのは畏怖。本物の化物を見たとでも言いたげに、流れる空気が冷えていくのを感じる。
「私が付けてやってもよいぞ」
そう言って腰を折ったかと思えば、血溜まりの中に船の如く浮かぶ前腕を拾い上げた。赤い水滴が肌を伝いポタポタと垂直に落ちていく。落ちたそれは紅い波紋を作りだし、目の前の光景を現実へと引き戻していくようだった。
「痛くも、恋しくもない。そんなもの、隣の、白蛇にでもくれてやるわ」
副連長はそんな中痛みに耐え、強がりを言葉の端々に乗せて放った。するとその反応が面白かったのか、彼女は口の端をニッと上げてからこう続ける。
「白はお前のような下級の者の肉など食わぬ」
彼女は力なく形を保つ手を弄り、人差し指を躊躇なく反対へと折り曲げる。目を背けたくなるような光景に、私は思わず目を瞑った。
「この切り取られた肉が出来ることと言えば、私の玩具になることくらいじゃ。それ以上にはなり得ない」
いつもより落ち着いた優美な声が暗闇に聞こえる。その声に相槌を入れるのは指が可動域の逆へと曲げられる音。私自身の脈動も、他三人の呼吸音も、一切感じ取ることが出来なかった。
「綾人、もう戻ろう。飽きてしまったのじゃ」
その声に目を開ければ、今まさに血溜まりに落ちようとしている塊が視界に入る。
「—————棗」
それは腕だったもの。副連長のものだった何か。飽きて玩具を捨てた彼女は、青い炎で落ちた腕を燃やしていた。私は目の前の光景にただ彼女の名前を呟くことしか出来ず、歩き行く背に息を吐いた。
「女」
揺れる長い髪に向かい、副連長が声を発した。
「坂百合の名を、一生……忘れるな」
自分の名前を口にする副連長には、これまでと遜色ないほど真っ直ぐな芯が入っている。最早痛みに呻くことはせず、気づけば表情も凛としていた。再度名前を耳にした彼女は僅かに振り返り、無表情で口を開く。
「棗じゃ、石頭」
捨て台詞のように言い放つと、止めた脚を再び前方へと動かし始めた。女と女の見えない闘い。板挟み状態の私は、これ以上荒れませんようにと神に願うことしか出来なかった。




