第一章 十三『同僚との喧嘩未満』 其ノ壱
職場の入り口を出て左に曲がり、そのまま建物に沿って裏の方へと歩いて行く。左側に佇む職場の大きさは、こういうとき以外大して実感することはない。表からは想像出来ないほどの奥行きは、職員である私たちですら感嘆の声を上げそうになる程だった。
「どこに向かっておるのじゃ? この先に何がある」
私の後ろを歩く彼女は、おそらく周りを見回しながら問うた。言わずとも直ぐに分かるのだが、このまま問われ続けるのは面倒だった。
「この先には——」
「鍛錬場があるんですよ。屋外の、ただの空き地みたいになってるんですけどね」
私の言葉を遮ったのは、先頭を行く竹原だった。彼は僅かに後方を振り向きながら、彼女に向かってはにかんだ。仮にも彼女は人妻だというのに、そんなの構いやしないのだろうか。
「鍛錬場とな……だが屋外ともなれば周囲から丸見えではないか。知られてはいけぬのであろう?」
「見えないようになってるんですよ。上の誰かがね、そうしてるみたい」
竹原はついに後ろ向きに歩きながら、頭の後ろで手まで組んで歩き始めた。私はその様子を見ながら、いっそのこと怪我でもすればいいんだ、と何故だか腹立たしく思った。
「あのぉ、百瀬さん。遊女屋に出入りしてたってのは……」
後方から駆けて来た瑞城は、私の横まで来て小声で耳打ちした。また面倒なのが増えた。まだ朝だというのに一仕事した後のような疲労感を感じる。今すぐに帰って、布団に潜り寝てしまいたい。私は特大の溜息を吐きながら、目の前に見え始めた鍛錬場を視界に入れた。眼前に広がる平地がどれほどの面積を所有しているのかは分からない。けれど、それがかなり広いことだけは想像するまでもなかった。
「広いのぉ」
「よっしゃ、気合出てきた」
「怪我だけはしないでよね。要請があったとき困るんだから」
呟くように声を上げたのは年長者。やる気が身体中から漏れ出しているのは私の友人。気遣っているように見せかけて小言を言うのは私の同僚。なんだか私だけがこの場に不釣り合いな気がして、こっそり去れないものかと画策する。しかし私の行動を見越してか、邪魔をするように竹原が再び私の肩を掴んだ。
「逃げんなよ? たまにはいいだろ、身体慣らしも」
「お前は容赦ないから嫌いだよ」
「そんなこと言うなよ、友達だろ」
無邪気に笑うその笑顔が大変眩しい。眩しすぎて今すぐにでも目を瞑り、そのまま夕方ごろまで気絶してしまいたい程だ。
「楽しみにここで見ているぞ、綾人」
肩を掴まれ、背を押され、腕を引かれる私を見て、彼女はウキウキとした表情でそう言った。
「何も楽しくないですよ……それより町でも見てきたらどうですか」
「いいや、異師同士の喧嘩など滅多に見れるものではないからの。大人しく見物しよう」
微笑を湛える彼女が一瞬だけ妙に大人びて見えた。非常に長い黒髪が微風によって左右に靡き、薄紅色の着物には季節にそぐわない程満開の花が敷き詰められている。丸坊主になった木や枯れた草など、色を失った寒空を彩っているのはたった一人の女性だった。
「構えろ、百瀬」
竹原はいつもの調子で言ってから、握っていた私の腕を放った。私は二、三歩よろめいたが直ぐに持ち直し、竹原に正面から向き合う。私たちの間は十歩も無いだろうが、何里もあるように錯覚してしまう。
「合図は?」
そんな錯覚に屈することなく、私は静かに目の前の人間に問う。合図などなくとも一向に構わないのだが、なくては今すぐ殴りかかられそうでかなわない。
「じゃあ、せっかくだから棗さん。お願いできます?」
「構わぬ」
人一倍ノリノリな彼女は一つ返事で了承する。これから行う身体慣らしは彼女へ向けた演舞なのではないか。そう思わずにはいられなかった。
「では各々よいか? 始め!」
晴天によく映える彼女の声が、僅かに反響しながら私の耳に届く。やられる前にやってしまおう。先手必勝という言葉の通り、勝負事は先に動いた方が勝ちなのだ。
私はぐっと拳に力を込め、片足を力強く垂直に振り下ろす。ドッという音とともに砂草が舞い上がり、己の身体はふわりと宙に浮かび上がった。竹原は私のように空中に舞い上がることは出来ない。こうなれば私の勝利ではないか、と私は優雅に勝敗を脳内で決していた。
「百瀬は頭が足りないな」
聞き慣れた声が下方から上空へと上がってくる。私は面白くなって口角を上げ、納得したかのようにうんうんと頷いた。彼はこれしきのことで音を上げるほど軟ではない。私が延々と浮かび続けるのならまだしも、今この時も身体は緩やかに落下を続けている。何れは地上へ降り立つのだ。きっとその瞬間を狙ってくるに違いない。
「付き合いはそれなりにあるんだ。少しは行動が読めるってもんだろ?」
いつもと変わらぬ声色。叫んでいるわけでもない声量。今彼はどこに居るのだろう。そう思い下を見れば、当然のように目が合った。
「は? ……意味が分からん」
竹原は私の直ぐそこに居た。言葉の通り直ぐそこだ。地上から見上げているわけでも、真横を飛んでいるわけでもない。彼は何故か私の足を掴み、そうしてぶら下がっていた。落下に伴う重力のせいで重さというのはさほど感じない。それどころか、このような状況を想定すらしていなかった。一体いつ私の足を掴んだのだろう。
「俺は百瀬みたいに便利な能力持ってないからな。無いなら有る奴を利用するにかぎる」
「理には適ってるな」
私は腕組みをし、真下に居る彼をじっと見つめる。右手で私の左足首を掴む竹原の左手が、ぽうぽうと光を帯びていくのが見て取れた。まぁ、そうなるだろう。彼の特技は閃光だ。
「掴めば振り落とされるとは思わなかったのか」
「振り落とす? ……お前!」
「ちゃんと受け身取れよ?」
私はニタッと笑って見せてから、左足を大きく後ろに振りかぶった。足と連動するように、ぶら下がる竹原の身体も大きく後方へと揺れていく。これくらいのことで怪我などしないだろう。そう期待を込めて、振りかぶった足を前方へと振り抜いた。その動作はまるで小石を蹴るときのよう。今日ばかりは小石ではなく巻き付いた竹なのだが、そんなこと大した差ではない。
「本当にやりやがったぁぁ!」
私が投げたものは加速する。それは例え人間でも、足から放たれたものであっても同じことである。私の足から手を離してしまった竹原は、放物線を描きながら鍛錬場へと落下していく。速度を持って小さくなっていく彼の身体が気掛かりだったが、自分でどうにかするだろうと楽観視した。
「あいつも普通の人間じゃないしな」
私たちは異師だ。そこいらの一般人ではない。簡単に傷が付かないように、命を落とさないように、訓練と鍛錬を積んでいる。仮に骨の一本や二本折れたとて、地に伏し続けるなんて出来ないし許されない。
「次はどう出る、竹原」
私の身体はふわりふわりと地上へ舞い戻っていく。その距離はおよそ職場二つ分。もう一度上空へ上がるのか、それとも別の何かを講じるのか。私も考えなければならない。
「全く、少しは容赦してくれよ」
墜落と同時に舞い上がった砂埃。その隙間から服の表面を払う竹原の姿が見えた。
「その程度では掠り傷も出来ないだろ?」
「まぁな」
彼はこちらを見上げてへへっと笑う。伊達に指定異師をしていないな。私も、彼も。
「ここからだぞ、百瀬」
「いつでも構わん」
私たちにしか分からない異様な空間。異質な職業だからこそ、そこに他社の介入は許さない。竹原は気合を入れるように手の指を曲げ伸ばししている。ならばこちらもと、一気に降下速度を上げた。
「歯ぁ食いしばれよ!」
落下する私と同じか、それ以上の速度で地上を走る竹原。着地と同時に殴りかかりにでも来るのだろうか。事前に分かっているなら対策を練ればいい。どこから殴って来るにせよ、懐に入ってしまえばこちらのものだ。幸いにも私には加速出来る能力がある。
「お前が食いしばれ!」
竹原の姿が大きくなる。私の足が地面へと吸い込まれていく。あと僅か。もう直ぐそこ。今にも手が触れまいと、そう感じたとき彼の拳が私目掛けて振り下ろされた。避けても第二、第三発目が繰り出されるだろう。一発目が避けられる前提であることは、彼をよく知る私も、私のことをよく知る彼も既に解っている。解っていて、私は身体を仰け反らせてその拳を回避する。回避した勢いのまま、私は両手を地面につけて身体をぐるりと回す。
「それは想定済みだ」
身体が回る。手が離れ、滞空時間が生まれる。地を捉えていた視線をすぐさま戻すと、竹原は自信に満ちたように大口を開けて走り寄っていた。最早恐怖以外の何ものでもない。
「これは失態か……?」
彼がそういう表情をするとき、必ず何かいい案が浮かんでいる。相手に不利になるような、自分の独壇場になるような、少々枷の外れた案が。
「誤ったな、俺の勝ちだ」
彼はどこか誇らしげに瞳をキラリと輝かせた。回した身体の先端にある足がもう直ぐで地面に着くというときに、竹原は腰から何かを取り出した。これから何が行われるのかなんて想像に難くない。
「謝った方がいいか?」
私は彼に聞こえるように大きめの声で呟いた。
「そうかもな。そうすれば手加減してやらんこともない」
そう言いつつも彼が動きを止めることはない。瞬きをする間にも、私たちの距離は着実に縮まっていく。距離を取ろうにも、態勢の整っていない今の状況では走ることすら困難だった。竹原は手にした何かをこちらに放る。それは非常に大きな茶褐色の布。人間の一人や二人余裕で包めるだろうそれは、彼の便利な武器である。
「まずいな」
放られた茶褐色の布は、宙で広がって私に覆い被さる。こうなればいよいよ竹原の独壇場。私が布を剥ぐ間に勝敗が決するかもしれない。
「お前の負けだな」
勝敗を確信した勝者の声。こうなれば急いて布を剥がすこともあるまい。一発や二発受け、出来た隙に反撃をすればいい。これも立派な立ち回り。けして思考を放棄したわけではない。
「はて、問題はこの後だな」
視界は一色に統一されている。聞こえるのは竹原の靴音と自分の呼吸音のみ。
「今日は寝てろよ」
楽し気に放たれる男の声。私は身構え、来るだろう衝撃に備えた。ビリビリと音の無い何かが近づいて来るのを感じる。きっと今、竹原が布の端にでも触れているのだろう。何もせずただ触れているだけ。その不思議な情景は見えずとも容易に想像出来る。
「さすがだな」
心なしか身体が重くなっていく。見えないそれは、所見では何か分からないに違いない。しかし私には分かる。彼が持つもう一つの能力。それは———。
「少し鈍ったかなぁ、片膝もつきやしない」
どこか残念そうな声が聞こえ、私はハハッと乾いた声を上げた。
「もっと鍛えた方がいい。これじゃあ何の役にも立たない」
自分の体重が数倍に膨れ上がったのではないかと、そう思うほどの重量感。最早笑う余裕などこれっぽっちもなかった。だからこれはただの強がりだ。本当は今にも膝をついて、身体ごと地面に横たわってしまいたい。降参というたった四文字を口にするだけで、増え続ける重荷から解放される。だが、そんな醜態は晒せない。百瀬組の頭たるもの、膝をつく姿を見せてはいけない。
「それにしても……便利な能力だ」
竹原の持つもう一つの能力。それは、触れているものに重力負荷をかけること。彼は私に被せた大きな布へ、普段の何倍にも及ぶ圧力をかけている。それは下に居る者へと圧し掛かり、現在私の脚をガタガタと震わせていた。
「もっと強化練習しようかなぁ」
竹原が暢気にそう口にすると、薄い布が一段と重くなった。まるで鋼を身に纏っているかのような感覚に血反吐を吐きそうだった。生身の人間を押し潰さんとする布を頭で支え続けるなど到底できず、私は腰を曲げて背中全体で重さを受けることにした。
そうしてついには靴が地面に食い込み始め、このままでは平地と一体化してしまうという段階にまで追いやられる。尚且つ、これ以上重さが加われば身体は確実に壊れてしまう。早急に逃れる術を実行しなければならない。
「致し方なし……!」
私は黒い洋袴の腰に備えた武器袋から小刀を取り出し、刃を掌に当ててからスッと手前に引いた。




