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第一章 十二『死なばもろとも』


「助かった、髑髏」


 おにぎりを食べ終え職場の入り口へ着く頃には、薄らと空を覆っていた霧が綺麗さっぱり無くなっていた。雲の無い青空には太陽が燦燦と輝き、朝が来たことを誰よりも喜んでいる。


「送っていただきありがとうございました」


 何もない場所に礼を言えば、ふっと彼女が笑みを零す気配がする。見えない人間が彼らに頭を下げるのが珍しいのか、傍に居る彼らが何か可笑しなことをしたのか。私には確かめる術がなかった。帰宅した私たちは、揃って自宅へと足を踏み入れる。出かけたときと何ひとつ変わっていない部屋をそれとなく見てから、私は洋服の入った段の箪笥を開けた。


「前も思ったが、随分と悪趣味な洋装じゃな」


 隣から箪笥内を覗いた彼女はぽつりと言った。


「そうですね……全身黒は、私も少し思うところはあります」


 私は洋服を手に取り、箪笥の縁にそっと掛けた。全身黒の理由。明言はされていないが、私たちはなんとなく予想出来ている。


「口問いは目立ってはいけないのだったな」


「せめて邏卒と言ってくださいよ」


 私ははぁ、と溜息をひとつ吐いて、ぼさぼさの髪を搔いた。世間一般的な認識も、私たちの心持ちも、邏卒という立派な仕事とは縁遠い。仮に邏卒であるならば、私たちに向けて悪態を付くことはないだろう。透明な石を、見えない槍を、鋭い視線を、全身に浴びなくて済むだろう。特異な力を持って生まれた者の末路は必ずしも明るくはない。


「下っ端なのだから同じようなものであろう」


 彼女は箪笥の縁に掛けた洋服を手に、内側や外側をまじまじと観察していた。いくら時代が変わったとはいえ、未だ洋服は珍しい。店が少ないということもあるだろうが、そう易々と時代の波に乗るのは躊躇われるのかもしれない。


「着替えますから、それを貸してください」


「そのまま行けばいいだろう」


「いい笑い者ですよ」


 そう言うと、彼女は渋々と言った風に手渡してくれる。やはりどこか子どもっぽいが、ここまでくればむしろ愛らしい……かもしれない。長く生きていればお堅くもなろうものだが、そうならなくてよかったなと思う。

 私は再び洋服を箪笥の縁に掛け、慣れた手つきで帯を緩めていく。緩めた帯はそのまま畳の上に置き、ゆっくりと着物から腕を抜きつつ振り返った。


「あれ……棗?」


 先程まで確かに居たはずの彼女は、今はもう見る影もなくなっていた。また気のみ気のまま、ふらーっとどこかへ出かけたのかもしれない。おそらくは昨日のように、今日はこの辺りを散策でもするのだろう。彼女一人で出かけたことが気がかりではあるけれど、傍には見えないものたちが誰かしら居るに違いない。私が居なくとも、彼女はただのか弱い女性ではないのだ。


「まぁ、そこまで心配することでもないか」


 私はそう思い直し、脱ぎ終わった着物をその場に捨て置いた。続けて襦袢も半ば強引に脱ぎ捨てれば、その手で洋服を手に取った。もう何度も着ているはずなのに、何故だか着方が一瞬だけ分からなくなる。分かっても手間取り、不思議といつも通り行えない。


「クソッ」


 冷静なはずだ。眠いなりに頭はしっかりと回っている。ならばどうしてこんなにも、身体中に心音が響いているんだ。これから私を待っているのは退屈な変わり映えしない一日。勿論私も変わってはいけない。


「なんなんだ」


 日常と違うこの状況。どこからか苛立ちが私の身体を包み込み平静ではいられない。自分がこんな状況になる理由がいまいちよく分からなかった。私は何とかして洋服を着終え、黒い上着を手に自宅を飛び出した。

 背後で自宅の扉が閉まっていく音が聞こえるも、それに構っている余裕はない。自宅を出た勢いのまま、私は階段を調子よく下りていく。いつもなら階段横に位置する職場へと向かう足だが、今の目的地はそこではないような気がした。


「あ、来た来た」


 聞き慣れた女性の声。それが瑞城のものであることなど、頭を使わなくとも分かってしまう。


「おはよう、百瀬さん」


「おはよう、すまんちょっと急いでて」


 私は瑞城の方を禄に見ることなく、そのまま建物の入り口へと向かう。


「何急いでんだ? あいつ」


「厠へ行くのであろう、放っておけ」


 なんとも冷たい声を耳が捉え、私は爪先の方向をくるりと半周させた。居るじゃないか。理由はともかく、私の職場に居たんじゃないか。そう思うと、不自然に鳴っていた早鐘が収まっていくのを感じた。


「な、なんでこんなところに居るんですか」


 つい声が大きくなってしまったが、謝るつもりは毛頭ない。僅かに乱れた呼吸を整えることすら、今の私には相当な労力を伴うのだから。


「お前の着替えなどに興味は無い」


 真顔でそう言ってのける彼女の横で、竹原がニタニタと気味の悪い笑みを浮かべている。大方、私の傍に女性の存在があるのが可笑しいのだろう。彼にお見合いを断っている事実を伝えたがばっかりに、今こうして不愉快な現状に至っている。なんともまぁ皮肉の効いた現実だ。


「黙って出て行かれては困ります。せめて声をかけてください」


「私はお前の子どもではないぞ」


「子どもでなくとも行き先はお互いに伝え合いましょう。今からそうしましょう」


「束縛は嫌じゃ」


「はいはい、痴話喧嘩はその辺で。百瀬、この美麗な御仁はお前の知り合いなのか?」


 私たちの会話を遮るように、竹原は至極真っ当な問いをしてみせる。だが表情は依然として気味の悪い笑みのまま。彼女を俺に紹介してくれと言わんばかりのその佇まいに、私は薄目で睨み返しながら口を開いた。


「彼女は棗。この度彼女と結婚することになりまして」


「結婚! 百瀬さん、ついに結婚するの⁉」


 どこまでも響き渡りそうなほどの大声で、竹原の後ろに居た瑞城が声を上げた。そこまで驚くことだろうか……と思いもしたが、彼女も竹原同様私の見合い話の件を知っていた。もう一生誰かと結ばれる気が無いだろう人が突然結婚するとなれば、どの人も大声で叫んでしまうのかもしれない。


「ど、どこで出会ったの⁉ まさかお見合い? ついにお見舞いしたって言うの?」


 誰よりも興奮気味に話す瑞城にさすがの竹原も冷めてしまったのか、気色の悪い笑みはもうどこにも見当たらない。否、彼女がもう誰かのものだと知ってしまったからかもしれない。目の前に居る彼は、まさか私の方が早くに結婚するなんて……といった感じで絶望に打ちひしがれている。なんだか勝負と試合の両方に勝ったような心地がして、どこか得意げな気分だった。


「初めて会ったのは……町中でしたよね」


 私は瑞城の問いに応えながら、彼女にちらっと目配せした。確かに初めて会ったのは町中だが、きちんと話したのは遊女屋の中だ。それを知られても何ら問題はないが、瑞城にだけは告げてはいけないような気がした。

 私と視線の合った彼女はニヤッと僅かに微笑み、そうしてから理解したとでも言うように頷いた。なんだか嫌な予感がする。私の意図を汲み取って配慮するなんて、彼女が敢えてするとは思えなかった。むしろその逆——。


「違うぞ、遊女屋であろう」


 彼女の自信満々な物言い。私は肩を落とすことすらせず、ただその場で息を吐き出した。


「遊女屋……やっぱり百瀬さん通ってたんだぁぁぁぁ!」


 瑞城にとっては、私が結婚することより遊女屋に行っていたことの方が一大事らしい。告げない方がいいと判断したこと自体は間違っていなかった。過ちがあったとすれば、それは彼女に目配せしてしまったことだろう。

 誰よりも年上だというのに、この中では誰よりも子どもに近い。憶測が確信に変わったことで、大人扱いは程々にするべきだと肝に銘じた。


「百瀬さんが遊女屋なんて………そういえば竹原さんも通ってたんでしょ⁉ 二人で行ってたってことね!」


「え、なにそれ⁉」


 竹原は瑞城の言葉に驚きの声を上げて、時が止まったように制止した。私はというと、そんな彼の反応に一瞬だけビクついたが、とりあえず平然とそこに在ることにした。


「綾人、私はもう戻るぞ」


 何やら話し始めた竹原と瑞城を他所に、彼女は退屈気味にそう言った。元はと言えば自分で蒔いた種だろう、と文句のひとつでも言いたかったが、当の本人にそんな気は更々ない。一体何をしに来たのか不思議でならないが、そこに意味を見出すだけ無駄だろう。人はときに、理由もなく行動するものだ。


「分かりました。出かけるときはその辺の人に一声かけて行ってください。そうすれば私に届きますので」


「いいや、自分で言いに来よう。お前はちと面倒だからの」


 彼女は整った唇でそう言うと、私の脇をすり抜けて階段を上ろうとする。するとそこで、邪魔でもするかのように竹原が彼女を呼び止めた。


「棗さん、今から百瀬と身体慣らしをするんですけど、よかったら見ていきませんか?」


「おい、聞いてないぞ」


 私がそう言って彼の方を向けば、すかさず肩を組まれて耳打ちされる。


「言ってねぇからな。それに、お前には聞きたいことがたんまりあるんだ」


 そうして体を離した彼の表情は、怒りの混ざった微笑み。聞きたいことの予想がおおよそついているばっかりに、これから酷い目に遭わされることは明白だった。急いで逃げよう。そうだ、町の見回りにでも行って、市民の安全を守ることにしよう。私がそう息巻いて身体を反転させれば、目の前には楽しそうに目を輝かせる妻が居た。あぁ、逃れられない。


「俺らの仕事に見回りなんて無いだろ。さぁさぁ、行くぞー」


 こちらに向かって歩いて来た竹原は、私の肩をぐっと掴んで歩き出す。


「身体慣らしとはなんじゃ。楽しいものなのか?」


 私たちの後ろを、彼女がパタパタと小走りでついてくる。走りながら話すその声は嬉々として弾んでいる。


「徹底的に叩いてやるからよ」


「のう綾人。これから何をするのじゃ」


 二人に挟まれた私には最早逃げる気なぞ微塵も起きなかった。今出来ることは過去の自分の口を呪う程度。死なばもろとも、なんて当てにしてはいけない。




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