第一章 十一『夫婦間の取り引き』
「仕立ては七日ほどで終わるそうですから、その頃にお家に行きますね!」
千代は後ろで手を組み、くるくると回りながら言った。幾つ買ったのか定かではないが、様子を見るに一つや二つではないだろう。
「松郎も来るのであろう?」
「よろしいのですか?」
「よい。仮にも義父だからの」
彼女の口から義父という言葉が飛び出し、私も父も驚き故に声が出なかった。母はともかく、父のことをそう認識しているとは思わなかった。彼女は私たちの想像をしれっと、なんてことないような顔で飛び越えていく。
「……なんじゃ? 変なことなど言っておらぬがのぉ」
「いえ、少々驚いただけです。では仕立て上がったものとともに、私も参上致すことにしましょう」
穏やかな風。平穏な街並み。柔らかな父と千代の笑み。こんな日があってもいいかと思うほどありふれた今日だ。種族も、存在も、産まれ落ちた場所も、今だけは誰も気に留めない。それがどこかむず痒く、けれど思いの外心地好かったりする。
「姉さま姉さま! 甘味屋ありますよ‼」
千代が嬉々として前方の店を指差す。その先には、新緑の暖簾を下げた店が見える。
「団子か? あれはもう……」
「柚餅子ですって!」
いつの間にか店頭まで駆けていた千代は、店内を覗いてから振り返った。
「まことか!」
瞳を誰よりも輝かせるのは隣を歩いていた彼女。妹同様、彼女も着物の裾を揺らしながらたったたったと駆けて行く。二人はまるで、生まれる前から姉妹だったかのようだ。この短時間でここまで仲を詰められるのだから、女性というものはよく分からない。共通の趣味でもあったのだろうか。
「父さんも食べますか? 柚餅子」
「私はいい。まだ朝食が腹の中にいるのでな」
随分と皴の多くなった顔で笑えば、目の横の笑い皴が強調される。仕事柄笑う場面は少ないはずなのに、何故それほど自然に笑えるのか。私は父のことまでもが僅かに分からない。
「兄さまも食べますか?」
買ったばかりの柚餅子を手に、千代が声を張り上げて問う。すかさず私が首を振れば、彼女と何かを話すような仕草をした。大方、何故食べないのかと文句でも言っているのだろう。
「お前も食えばいいものを」
私の傍まで来ると、彼女は柔らかな柚の香りを嗅ぎながらそう言った。白い薄紙に挟まれた長方形。周囲に薄くまぶされた粉は、陽の光を浴びて何よりも美味しそうに輝いていた。
気づけば空はすっかり暗くなり、帰るのが億劫な時間になった。来るとき同様妖の手を借りれば造作もないのだが、かと言って急いで帰る理由もない。危惧することがあるとすればそれは母の態度のみで、その他の厄介事はほぼほぼ無いに等しかった。
「綾人、今夜は泊まっていきなさい。皆今日はよく歩いたからな」
「姉さまも泊まっていきますでしょう?」
二人はそう言って私たちのことをじっと見つめ、最早頷く以外の選択肢を選ばせはしなかった。そうして流されるがまま、実家にある自室に腰を下ろした。
「棗、本当にいいのですか? 母が起きたら、またどんなことを言われるか分かったものではありません」
「先ほども言ったであろう。あの程度で傷つきはしない」
い草の匂いが充満する部屋の中。彼女は座ることなく、小店で買ったおこしをポリポリと噛み砕いている。その様に傷ついている素振りは微塵もなく、強がっているようにも見えなかった。見えないからこそ私は思ってしまう。そんなものに慣れてほしくはなかったと。
「棗には、もっと幸せになってほしいのですよ。他人の悪意にも負けないような、両手で抱けぬほどの幸福を感じてほしい」
「急になんじゃ……感じてほしいと、なってほしいと願うだけでは何も叶うまい。人間の短い時では、待ち構えているだけで一生など直ぐに終わろう」
彼女は最もなことを言いながら、手持ちの菓子を次から次へと噛み砕いていく。静かな部屋に咀嚼音だけが響き、私はゆっくりと視線を下げた。
待っているだけでは幸福など得られない。このままでは、抱きかかえられないほどの幸せを彼女に享受することは叶わない。それでは私の存在意義など無いに等しいのではなかろうか。もう一人ではないのだ。仕事をして、寝て、飯を食らうだけでは不十分。夫婦なのだから。夫婦であるならば。私に、出来ること——。
「そう深く考えることもあるまい。幸せなどという曖昧なもの、大して期待はしておらぬ。こうして長く生きること自体、私にとっては味の無い空気と同じ。多少の幸せを感じたとて地獄の名前は変わらぬ」
平気そうなフリをして。何も感じないように思い込んで。そうやって、今まで生きてきたのだろうか。笑いもせず、泣きもせず、苦しそうにもせずにそう言ってのけるには、一体どれほどの時間を要したのか。私の人生が何度あったとしても、きっとその領域に触れることすら出来ないのだ。
「それでも……地獄の中でも、幸福は感じてもいいはずです。私が……私が棗を幸せにします。人と人であるのですから」
私たちの間に築かれた肩書は、おそらくそこらの人よりも多いはずだ。故に、私たちにしか作れない形があるのかもしれない。ならば、それを求めるのも悪くない。
「人と人……お前には私が人に見えるか」
「見えます。とても美しい、可憐な女性です」
「たわけが……。ではこうしよう。お前は私に幸せと新しい景色を、その礼に私はお前の仕事に手を貸そう。それでどうじゃ」
「取引ですか? そんなもの——」
「我らはただの夫婦ではない。異師と操師。生者と死者じゃ。普通になどなり得ない」
夫婦間で取引をするなど、私にはとてもあり得ないことだ。あり得ないはずなのに、それも今に始まった話ではないと思うと諦めがつく。出会ったときから普通ではないのだ。今更大多数になろうなど、どこかで綻びが生まれるに決まっている。後で後悔するのなら、そんな綻びなど最初から解いてしまえばいい。
「分かりました。では今より、私たちは相棒です」
「相棒とな……良い案じゃ」
「夫婦という名の相棒なのですよ。そこいらの他人とは訳が違います」
そう声を発しながら視線を上げれば、僅かに微笑む彼女の顔が見えた。開け放った窓から差し込む月光が、彼女の顔半分を青白く照らしている。それは不気味なものでは微塵もなく、どこか温かみを感じるようなものだった。
「分かっておる。我らは夫婦で、相棒。なんだか愉快な響きじゃな」
ハハッと楽し気な笑い声を上げてから、彼女はゆっくりと畳の上に腰を下ろす。目線が揃えば、月明かりが一層その輝きを増したように感じられる。
「では綾人。改めてよろしく頼む」
逸らすことなく向けられる眼差し。その瞳は、私の視線を釘付けにする。それはどこか儀式めいたものであり、馴染み深い朝の挨拶のようでもあった。
「こちらこそよろしくお願いします、棗」
私は彼女のことを真っ直ぐに見据え、心を新たに口にする。二人っきりで部屋の中、歪な私たちは新しい生活を手に入れた。その真実を知るは私たちと夜空に浮かぶ月のみ。お互いの手綱を握り締めながら、いつか来るとも知れない最期のときに思いを馳せる。
「……もう寝ろ。明日は仕事なのであろう」
「棗は寝ないのですか?」
「私は寝なくとも死なぬからな」
彼女はそう言って再び立ち上がり、窓辺から外を眺め始めた。その儚さは何とも言葉にし難く、私は目を逸らすように布団を敷いて瞼を閉じた。
休日が永遠に続けばいい。そう思ったことは数知れない。何故こうも一瞬で過ぎ去ってしまうのか、正直なところ不思議でならなかった。
「気を付けて帰ってくださいね」
玄関まで見送りに来た千代は、妙にニコニコしてそう言った。
「髑髏が居るのじゃ。危ない目になど遭わぬ」
「分からないじゃありませんか。鳥に狙われるかもしれませんよ」
「あまりにも奇妙な心配じゃな」
彼女が呆れたように息を吐けば、千代は頬袋をぷくっと膨らませた。私はそれを目を擦りながら見やり、眠気を逃がすように大口で欠伸をひとつした。昇ったばかりの太陽が放つ光は未だ弱く、冷え切った地面を温めるには少々心許ない。冬の空気は起床したばかりの体によく響き、髪を整えることすら億劫にしてしまう。
「朝食だけでも食べていけばいいものを」
千代の後方からぬっと顔を出した父は、どこか残念そうな表情を浮かべている。その感情が向かう先は、きっと私ではなく彼女なのだろう。
「すまぬな。こやつは今日も仕事故、朝食を食べている時間はないのじゃ」
「仕方ないことではありましょう。なれど、異師と言えども身体が基本なのです。棗さん、どうか息子をよろしくお願いいたします」
「兄さまをよろしくお願いします、姉さま」
二人揃って頭を下げれば、彼女は「分かっておる」と返答した。三十一にもなるというのに、私は今も尚こうして子ども扱いされてしまう。父からすればそれは当たり前のことなのだろうが、どうにも鼻について仕方がない。その上妹にまで頭を下げさせるなど、最早兄失格と言っても過言ではない。大変に恥ずかしく、今すぐにでもこの場を立ち去ってしまいたい気分だ。
「自分のことは自分で出来ますから……棗に頼るほどの事ではありません」
「お前より棗さんの方がしっかりしているではないか。お前は、暇さえあればぐうたらとしおって……」
「姉さまの方が兄さまより年上ですし」
無抵抗に殴られる気分というのは、おそらくこのようなものなのだろう。あらゆる方向から拳が飛んできたことで、私は立っていることすら困難になった。
「さぁさ、出来ましたよ。綾人さん、棗さん。道中でお食べくださいな」
見えない拳を受け続ける私を助けるように、玄関口から割烹着を着た絃子が登場する。年老いた手からそっと渡されたのは、僅かに温かさの残る竹皮の包み。それがおにぎりであることは直ぐに分かった。
「ありがとうございます。帰りながら頂きます」
仕事の前に朝食を食べるのは久々で、次第に空腹感が増していく。
「ではの。また近いうちに」
「はい、直ぐに行きますね!」
千代の待ち遠しそうな声が聞こえたかと思うと、私は人生で二度目の足払いを受けた。下の方で、妹の驚いた声が聞こえる。
「もっとマシな乗せ方ないんですか?」
二回目だということもあり、私には会話をする余裕が生まれていた。
「見えぬ者に配慮など出来ないではないか」
長い黒髪を靡かせながら、彼女は私を見下ろしてそう口にする。確かにそうだと思ったのも束の間、やはり毎度足払いを食らうのは勘弁願いたい。私が髑髏のどの辺りに居るのか見当もつかないが、船に乗るように少しは優しくしてもらいたいものだ。
「それに痛みなどないであろう? ならばよいではないか」
「そういうことじゃないんですよねぇ……」
このままでは慢性的な驚きで心ノ臓が止まってしまう。せめて足払い前に声掛けが欲しいけれど、なんだかそれは望めないような気がした。そうとなれば、私には自身の心ノ臓が止まらないよう祈ることしか出来ない。
「はぁ……おにぎりでも食べます」
私は上体を起こし、その場で足を組んだ。目線はこれまでにないほど高く、どこまでも見渡せるようだった。ちらと下を見やれば、家々の屋根が速度を持って後方へと流れていく。疎らに居る人々の頭上も、地面も、全てが今だけは遠かった。
「あの……私って落ちませんか?」
「? 落ちてはないではないか」
「どこまで大丈夫なのでしょう」
私が今座っているのは何もない空中。脚の奥には家の屋根が見え、見ているだけで恐怖を感じてしまう。真下で行き過ぎる景色の中に落ちるのは一体どの辺りからなのか。もしかすれば直ぐ後ろが崖なのではないか。見えないせいで余計に怖く、宙に細い縄一本で吊るされているような心地を得る。
「その辺りは大丈夫じゃ」
彼女は面白いものを見たとでも言うように、口の端を僅かに上げながら言った。何も面白い事ではない。そう言おうとして、無駄だと思いやめた。高所で怯える成人男性など、端から見れば笑いの塊だ。ここでつべこべ言うことほど格好の悪いものはない。
私は隣から向けられ続ける視線を無視し、空中で手にした竹皮の包みを広げた。中には俵状のおにぎりが三つ入っている。それにはもちろん、味の付いた海苔が巻かれていた。
「美味そうじゃな」
彼女の視線は一瞬にしておにぎりが独占し、ついでに私の視界に髪が入り込む。彼女もお腹が空いているのだろうか。そう思うと、なんだか可愛らしく思えてしまう。
「棗も一緒に食べましょう。せっかく絃子が作ってくれたんですから」
「あやつの料理はどれも美味かったからの、遠慮なく貰うぞ」
そう言っておにぎりをひとつ手に取ると、間髪入れずに頬張った。私よりも長寿だというのに、どこか幼く見えるのは何故なのだろう。棗ほど長生きすると、かえって子どもに戻ってしまうということなのだろうか。
「お前は食べないのか?」
もぐもぐと咀嚼しながら顔を覗き込まれれば、意図せずドキッとしてしまう。外見が二十歳な彼女には、分かっていても心がときめいてしまうのかもしれない。私は動揺を必死に隠しながら、目の前に置かれたおにぎりを手に取った。
「いただきます」
通例の挨拶をした後、私は俵型のおにぎりを口へと運ぶ。この形状は非常に食べやすく、味の付いた海苔のおかげで食が進む。ほんのりと効いた塩と相まって、昔から慣れ親しんだ絃子の味。心の奥がぽかぽかと温かくなっていくようで、今日一日を乗り切れる予感がした。




