第一章 十『買い物』
朝食を食べ終えた私たちは、母を一人置いて外出した。父の力によって眠りについた母が目覚める様子はなく、もしかしたらこのままなのではないかと思ってしまう。その考えにほっとする自分が居ることに、私は静かにぞっとした。あんなでも実の母だというのに……。
「贔屓にしている呉服店があるのですよ。こちらです」
先陣を切って父が歩き出し、その後を千代と彼女、また後ろを私が歩く。二人は身を置く世界が同じだからか、和気藹々とお喋りに勤しんでいた。疎外感を感じなくもないが、それはこれまでの千代も同じだろう。見えていることを口に出来ないことがどれほどのものか、あいにく私には分からない。
「百瀬の坊ちゃん、久しぶりですね」
「こんにちは、お変わりないようで」
道行く人に挨拶をしながら、私は前を進む一行について行く。彼らは私が異師だと知ったらどんな顔をするだろう。街中で暴れる野良と同じ力を持っていると知ったらどう思うだろう。怪物と謗るだろうか。それならそれで良いかもしれない。ふとした時に隠しているのが馬鹿らしくなる。いっそのこと全て曝け出してしまえたら、どれほど楽になれるのか。
「姉さま、ここですよ!」
「随分と大きい店じゃな」
前方から聞こえた声に意識を戻し、目的地である呉服屋を見やった。創業何年になるのか分からないが、どうやら大昔から店を構えているらしい。ここらで一番大きいため、たくさんの客でごった返している。
「父さん、私は外で待っています」
店内へ入ろうとする父へ向けて、私は少々大きな声で伝える。すると父は返事の代わりに頷き、二人を連れて店内へと消えていった。暇を持て余した私は、向かいにある茶屋の長椅子に腰を下ろす。争いの無い日常はどこか物寂しい。
「平和だ……」
頭上を飛び交う小鳥たち。談笑に励む人々。焼かれる団子の音に、椀に入った甘味。何気ない一日が、今日も変わらず過ぎていくのを感じる。世間は今私を必要としてはいない。争いを鎮圧出来る力など不必要。けれどそれは何故だか不服だった。
私たちを必要としない世界が理想なはずなのに、心のどこかで争いが起きればいいと思っている。不測の事態を望んでいる。あぁなんと退屈なのだろうと、そう感じ始めた自分が嫌に気持ちが悪い。まるで自分ではない何かが体の奥底に巣食っているかのような、そんな不快感を感じた。
それからどのくらい経っただろうか。長椅子の上で船を漕いでいた私の隣で、彼女が団子を頬張っている姿が視界の端にちらと見えた。いつからそこに居たのか定かではない。だが皿に置かれた串の本数からして数十分は経っているだろうことは明白だった。
「もう買い物は済んだのですか?」
「いや、松郎と千代はまだ中じゃ。些か人が多くてな……少し休憩」
彼女はそう言いながら残りの団子を口に含む。頬袋がふっくらと膨らみ、咀嚼している姿はまるで幼子のようだ。
「気に入る物はありましたか?」
「あったぞ。これほど豊富だとは思わなかったのぉ。近頃はすごいのじゃな」
団子を噛みながら話す彼女はどこか生き生きとしている。やはり女性というのは美しい物が好きなのかもしれない。
「……あの、姫様」
そんな様子の彼女に向かい、私はおずおずと口を開く。家を出るときから気になっていることだ。果たして聞いていいものかどうか分からないが、発した言葉が口内へ戻ることはない。
「棗でよい。いつまでも姫呼びでは味気ないからの」
彼女は再度店主に団子を三本頼み、湯呑み内の茶を啜る。一見普通の女性に見えていても、隣の人は紛れもなく妖の姫君だ。そこいらに居る一般人とは訳が違う。婚姻を結ぶとしても、私が軽々しく名を呼んでいいものなのだろうか。彼らに怒られやしないだろうか。そう考え始めたらキリがなく、私は微かに口を開いた。
「棗さん」
「棗じゃ」
間髪入れずに返答があり、私は一度大きく息を吸った。
「……棗、一つ聞いてもいいですか」
要望通り敬称を付けずに名を呼ぶと、彼女はどことなく満足気な表情を浮かべた。
「なんじゃ、そんな珍妙な顔をして」
珍妙な顔とは一体どんな顔なのか、今すぐにでも確かめたい。しかし今この場に鏡はなく、私は言葉の一切を一旦忘れることにした。
「…………棗は今、幾つになるのですか? 母との会話で少し気になってしまって」
外出時から聞きたかったこと。それはやはり彼女の年齢だ。母が口にした『私よりも上に見える』という言葉。私の目には、彼女はまだ二十歳やそこらに見える。それ故に尚更疑問が残ってしまう。妖の姫というのは、他の操師のように短命ではないということなのだろうか。
「数えておらぬ。……これは嘘ではない」
私の問いに、彼女は重々しく口を開いた。あまり触れてはいけない話題だったのかもしれない。想像を遥かに超える出来事がこれまでにたくさんあったことだろう。
「それほど長く生きているのですか」
「百までは数えていた。必死にな。……だがその後は止めてしまった。どうにもキリがなく、最早絶望ですらあったから」
彼女の声色は変わらない。これまでと同じように玲瓏に響き、心なしか安らぎをもたらす。慈しみを感じる人もいよう。心地よさを感じる人もいよう。けれどその身に抱える内情までは誰にも推し量ることは出来ない。その人物が経験してきた過去を、私はまだ明確に想像出来ないでいた。
当たり前だが、私たちの命には限りがある。だから後悔の無いよう懸命に生き、藻掻き苦しむことがあっても踏ん張れる。けれど彼女にはその限りがない。終わりがない。それは良く言えば私たちが羨む不死ではあるが、悪く言えば生き地獄と同等だ。
楽しいことも苦しいことも、全てが永遠に続くかもしれない。それは、絶望という言葉では少々物足りない気さえする。それでもやはり、未だ理解し難い。
「操師は数年で命を落とすと、そう異師の中では知れています」
「操師はな。だが私はそうではない。特例で例外。それ故に命を失うことも、老いることも許されぬ」
彼女は何食わぬ顔でそう言い、届いたばかりの団子を早速頬張った。この人の胃は底なしなのかと思うほど、食べ進める手が止まる気配はない。
「見た目は私より年下なのに……。では、棗はもっと幼い時に———」
気づいてしまえば思考は想像よりも早く回る。操師は一度命を失ったものたち。これは紛れもない事実だが、身体的な成長が止まるわけではない。
妖に命を救われた後の数年間、人間の身体は成長を続け、年を着実に重ねていく。別棟に居る四人も最初に出会った頃より随分大人になった。まだ出会っていない操師たちもおそらくは身長が伸び、顔つきが大人へと近づいていることだろう。
「なぜお前がそんな顔をする。痛みを感じているわけでもあるまいに」
僅かに呆れの混じる声音が、団子の匂いとともに私に届く。確かに痛みを感じているわけではない。彼女のように長寿でもない。まだ三十年やそこらしか生きていないのだから、絶望にすら触れてはいない。
それでも、その苦しみに思いを馳せることはできよう。寄り添うことはできよう。一人の人間として——。彼女は手にした団子を全て食べ終えた後で、串をくるくると回しながら続けた。
「……私の外見は、丁度そのくらいの年の頃に止まったのじゃ。変わることが無くなった。故にもう長い事老いてはいない。歳を重ねてもいない。巨大な白い大蛇の傍で、ついでに年を忘れた」
ハハッと乾いた笑い声が晴天に良く映えた。これまでもそうやってやり過ごして来たのかと、そう感じるほどこなれていた。そうしてやはり、私の耳に彼女の言葉が引っかかる。
「巨大な大蛇……」
「私をここまで永らえさせているのは大蛇じゃ。弱くも短命でもない妖は姫と呼ばれる存在を誕生させた。不介入条約が出来たのも丁度その頃じゃろう。私は密かに条約の一部として使われていたのじゃ」
「……何故、ここまで教えてくれるのです」
あっけらかんとしている彼女に向かい、私は抱いたばかりの疑問をぶつけた。尊大さを感じさせる者にも、私たちと同じ平凡な面があることはよく分かった。団子を美味しそうに頬張るのも、不意に見せる悲しみを秘めた儚さも、そこらの人と変わらない。けれど問うたこと以上の言葉が返ってくると、どうしても考えてしまう。何か裏があるのではと。私たちに見えぬところで、何か企んでいるのではと。それはお互いの肩書故か、それとも——。
「お前が聞いたのであろう。話さない方が良かったとでも言うか」
一つも欠けていない団子で彼女は私を指した。美しい顔が浮かべる微笑は、どちらとも取れる絶妙な表情。杞憂とも言えず、安堵出来るとも言えない。私には、この女性が分からなかった。
「いえ、そんなことはありません。全て初めて聞くもので、頭の整理が追い付かないのです」
「理解などしなくていい。整理などせずとも、どうせ私の方が長く生きるのだ。無駄なことに頭を使うことはない」
「無駄などではありません。私が妻のことを知ろうとすることに、寿命などが介入する余地はありません。これからもたくさん教えてください。私は知りたいのです。棗がどこで生まれ、どこで育ち、誰に助けられてきたのか。些か強欲かもしれません。それでも知りたいのですよ」
私は身を乗り出し、彼女にぐっと近づいた。これほどまでに誰かのことを知りたいなどと思ったことはない。
「何も面白くなどない。私の過去など、みすぼらしくて目も当てられぬ」
「ならそれを。私はつまらなくて、みすぼらしい棗を知りたい」
「失礼じゃな」
「あ、いや……すみません」
申し訳なく肩を竦めると、彼女はハハハッと軽快な笑い声を上げた。
「よい。何れ話す時も来よう。その時は包み隠さず話してやる。何もかもを」
じっと私のことを見つめ返す瞳の奥には、謎めいた何かが蠢いているような気がした。長い長い彼女の人生。一体何を見て、何を感じてきたのだろう。きっと私には少しも想像はつかない。経験値の差をじっとりと痛感させられた。
「姉さま! 外にいらっしゃったのですね。反物を選ぶのですから、中に居てもらわねば困ります」
呉服屋の暖簾を分けて出てきた千代は、彼女を見とめると真っ直ぐこちらに走り寄ってきた。相当楽しいのだろう。千代の顔が笑顔で満ち満ちている。
「千代、私はもう腹いっぱいじゃ。代わりに選んでおくれ」
「いいえ、着るのは姉さまなのです。似合うかどうか、当てて見ないことには分かりません。ささ、行きますよ」
千代はそう言って、串を握る彼女の手を掴んだ。買い物となると人が変わるようで、今の千代に淑やかさは欠片も感じられない。元気はつらつの町娘と言うのが、おそらく一番正しい気がする。
そのどれもかれも、全てはこの場に母が居ないおかげだろう。私同様、千代も母に厳しく躾けられてきたはずだ。他の子どもたちと野を駆けている様子は見たことがない。そんな妹が今、こうして楽しそうに彼女の手を引いている。それが兄として、とても嬉しい。
「まだ食べたりぬのだ」
手を引かれた彼女は、駄々をこねた子どものように引かれた手を引き戻す。頑として長椅子から立ち上がらぬぞ、という決意が見えそうだ。しかし、それで引くような妹ではない。
「後でたくさん買いましょう。とにかく今はこっちが優先です」
どこから出ているのか不思議に思うほど、千代は力一杯彼女の腕を引く。反動で彼女の腰が僅かに浮くも、身体を仰け反らせるようにして反抗する。一本の腕で綱引きをする二人の勝敗は、それからものの数秒で決した。
「姉さまったら、幼子みたいですよ」
妹が見せる優しい微笑みは、多くの母親が浮かべるであろうそれだった。惜しくも千代に軍配が上がったこの勝負。勝者はどこか誇らしげで、敗者も同様に楽し気だった。




