第一章 〇『遠い遠い場所の噺』
「姉さま、一体どこまで歩くんですか?」
「どこまでも……この世界が終わるまでじゃ」
風景に似つかわしくない下駄の音。真横を通り過ぎていく車、自転車、歩行者の視線が一か所に集中する。
気にも留めない姉さまは涼しい顔で前を歩いているけれど、私にはほんの少しだけ痛かった。
「世界は終わるでしょうか」
そんな未来は来ないと知りながら、私は頭に浮かんだ疑問をそのまま口にした。市街地にカランコロンと心地よい音が反響している。
「さあな。終わるとも終わらぬとも私には分からぬ。ただの願望じゃ」
全てを諦めたような声でそう言えば、羽織っていた打掛をそのまま地面に脱ぎ捨てた。キラキラと輝くそれは地面とは不釣り合いで、私は拾うことなくそのまま跨いで行き過ぎる。
「姉さま」
「なんじゃ」
「姉さま」
「なんじゃ」
私はクスクスと笑いながら、最後にもう一度「姉さま」と声をかける。
「なんじゃ騒々しい」
耐えかねたのか、微かに怒りながら姉さまが振り返る。相変わらずの長い髪は結われることを知らない。穏やかな風に靡き、金糸の様に太陽を受けて光り輝いている。
「私、姉さまのおかげで寂しくありません」
短く切り揃えた髪を揺らしながら言えば、姉さまは何とも言えない表情を西日の下に浮かべた。
遠くの方で爆発音が聞こえ、美しい色を湛える空に砂煙が立ち昇る。同じ国で、少し先の町で、たった今起こったことはまるで御伽噺の中の出来事だった。所詮他人事。読み手である私たちの生活には何ら影響はない、娯楽とは違うただの暇潰し。
「そうか」
「はい! だから、ありがとうございます」
照れ隠しだろうか。姉さまは私に背を向け、止まっていた足を再び前方へと動かし出す。
埋まらない距離。けれど、それはもう気にならない。
「待ってください!」
駆け出した自分の靴音が軽快に鳴り響く。
何もかも変わってしまったが、なんだかそれすらも楽しめるような気がした。横から姉さまの顔をちらと見やれば、相変わらず完璧な美しさが視界を覆いつくす。
「大好きですよ、姉さま」
ニコニコ笑いながら伝えても姉さまの表情が変わることはない。それでも私は知っている。まんざらでもないんだろうな。
この人は存外優しいのだから。
「姉さま!」
「……」
「姉さま~」
「………」
「あーねさま」
「やかましい。ちと黙っておれ」
私の口に人差し指を当てる姉さまの表情は大変に穏やかだった。その瞳の中に映る私も、これまでで一番素敵な笑顔を湛えていた。
* * * * *
喧騒、喧騒、喧騒。左右に並ぶ色とりどりの着物を横目に、渦の中を掻き分けるように進む人がある。
それらは全身を黒い服で包んだ人ならざる者。最早同じ人間として扱われてはいない、別の世界に生きし者。
「そっち行ったぞ!」
「任せろ」
声を上げた人間、百瀬という名の男は、素早く動く対象者に向けて走り出す。未だ物珍しい服装は異国のそれで、前を開けた上着がひらひらと翻る。
力強く踏まれた地面は多少抉れ、男の身体は目を見張るほどの速さで前進した。そうしてあっという間に距離を詰め、対象者の襟首を掴んで地面に叩きつけた。
「調子いいな」
ハハッと笑いながら遅れてやってきた男、竹原という名の男は、息切れもせず地面に叩きつけられた者を見下ろした。
「こんな朝っぱらから勘弁してくれよっと」
竹原はそう文句を垂れながら、痛みに呻く者の目に手を被せる。するとどうだろうか。彼の手から眩いほどの光が溢れ、浴びた者の視界を黒く白く染め上げその機能を停止させた。
「野良には困ったもんだな。なぁ、百瀬!」
僅かに離れた場所に居る百瀬に竹原はそう呟いた。二人を取り囲む人々はそれぞれ顔を見合わせ小さな声で囁き合っている。
「そうだな」
百瀬は手の埃を払うような仕草をし、特に笑うことなくそう口にした。
息の合った二人の連携。無駄のない、計算されたかのような動き。生まれながらに人知を超えた力を持つ『異師』と呼称される二人の脳内は、澄み切った空気を漂わせる早朝と同じく冴えわたっていた。