終わる世界、始まる明日 Act3:外科医達の夕食
「ただいま」
楽しいおしゃべりに夢中になっている間に何時の間にか夜になっていたことをこの家の主である川上の帰宅で初めて気がついた。時計はすでに19時を指している。もともとあつき自身、音楽家という職業をしている手前あまり時間に関する概念がないのだ。それでよく鈴木に怒られるのだが、また失敗してしまったらしい。
「おかえり~」
だが右京はそんな事を気にしている風もなく、普通に川上を迎え入れる。
「おじゃましてます。」
「いらっしゃい。」
慌てて立ちあがったあつきに川上は自然な笑顔を向けた。普通ならば図々しいと取られても仕方ないあつきの存在はまったく気にしていないらしい。むしろあつきに同情的な目にさえ見える。
やっぱりここの家の住人は皆、驚くほどの自然体だ。
彼は持っていたスーパーの袋を右京に渡して何かを指示すると、すぐに電話の受話器を取った。
「…もしもし?川上ですけど。うん、やっぱりうちにいたよ。下りておいで。」
すぐに出たらしい相手にそれだけ言うと彼は受話器を置く。
「鈴木君と一緒に帰ってきたんだけど部屋に電気がついてないんで心配してた。」
言われてあつきははっとした。
同じ第1外科に所属する二人が同じマンションに一緒に帰ってくるのはそう不思議な事ではない。それよりも川上医師が帰ってきたという事は鈴木も帰ってきている可能性がある事をあつきはすっかり失念していた。今日は鈴木よりも先に帰って夕飯の支度をして待っていると言い出したのは自分だ。
最低最悪で自己嫌悪。
「おっ俺、帰りますっ!」
慌てて荷物を引っ掴もうとしたあつきに川上は優しい笑顔を向ける。
「鈴木君、降りてくるよ。一緒に晩飯食おう。」
「あ、でも・・・。」
戸惑ったあつきの肩へ隣のシヴァが押しとどめるように腕を伸ばしてきて肩を抱く。
「鍋は大勢で囲んだ方がうまい。」
真剣な顔をされて言われても…。
―――――ピンポ~ン
そんなこんなしている内に鈴木が玄関へ姿を現した。
「しんちゃん、いらっしゃい。」
「おじゃまします。」
リビングへ入ってきた鈴木の機嫌は悪くなさそうだ。むしろ良いくらいだと言っても良い。あつきは内心、首をかしげていた。いつもだったら約束を破って心配させた事へのテレパスがあってしかるべきだ。それは周りに誰がいようとも変わらない。だが今日は全くの無罪放免?らしい。
「先輩・・?」
「何、悲愴な顔してんだ。分かってるよ。」
「アタシが引きずり込んだの!」
鈴木がおかしそうに言ったのに、右京が元気良く手を挙げて名乗りでた。だが、それも分かっていたようで鈴木は別段驚く様子もなくにこにこと笑っている。ここまでされると不気味だ。後が怖い。だが、台所から鍋を運び出して来た川上医師が苦笑し、右京を嗜めながらあつきに補足情報を告げた。
「村上君、鈴木君も何度か引きずり込まれてるんだよ。」
「そうなんですか!?」
「おかげで美味しいご飯にありつけてたわけ。」
それならば食器のダンボールが開いてなかったのも納得が…いく、かな。疑ってるわけではないが、ちょっと自分の知らない鈴木の行動を知っている川上家の人々にジェラシーを感じてしまう。自分が2ヶ月も恋人を放ってツアーに出ていた事はこの際棚にあげて。
「さ~食べよ食べよっ!」
緊張感のない右京の声が男どもを席へ促すと、さっそく鍋のフタが開けられた。
こうしてあつきは上がり込んだ他人の家で2食連続ごちそうになることになったのである。
「しかしアレだな。一般家庭に外科医が3人も揃うってのもめずらしいな。」
鍋をつつく3人の箸が器用に具を掬い上げるのに、シヴァは感心したようだ。これがフォークとナイフを使うフルコースだったらこれ以上に見物かもしれない。もちろん、その鮮やかなナイフ捌きの理由を知った一般人の食欲が失せる事は間違いないのだが。
そもそも、シヴァが言う事は確かに頷ける。医者の半数以上は内科医なのだ。病院や大学以外の個人的な知り合いであったならそれは確かに珍しいと言える。だが言われた当人達は心外とばかりに口々に異議を申し立てた。
「私、医者じゃないんですけどー。」
「病院の近所なんだから不思議じゃないだろう?大体、一般家庭っていうのか?」
それはそれでごもっともだ。鈴木と川上医師が同じマンションの上と下に住む事になったのは偶然にしても、こうして一緒に同じ鍋をつつく仲になったのは職場が同じだからだろう。そうなるとこれは必然だ。
「そうだよねー。カタギのお仕事してる人いないじゃん。」
右京の賛同の仕方に、川上医師は眉をしかめた。
「充分カタギだ、俺は。」
「えーっ外科医ってカタギだったの!?」
わざとらしく驚いて見せる右京に川上医師は対照的に紳士的な仕草で鈴木に視線を送って同意を求める。
「カタギだよな、鈴木君?」
鈴木は笑っているだけだ。
川上医師の帰宅前も思った事だが、この家の住人は会話を楽しむのがうまい。言葉遊びが上手なのだ。次から次へと移り行く話題は決して誰一人飽きさせない魅力を持っている。それが例え取るにたらない話題であってもだ。時間が経つのを忘れてしまったのもそのせいだと思ってしまうのは鈴木に対するいいわけでしかないのだろうか。
「つーか、しんちゃんが外科医っていうのは案外意外だよなぁ。」
あれほど昼のパスタを食べたはずなのに、鍋を前にした2人の箸が競い合うようにつつきあっている。あつきにはそれを唖然と見送る事しかできない。もともと食の細いあつきには昼が遅かった分それはいたしかたない事である。
「そうですか?」
「うーん、内科って感じ。」
「どんな根拠だそれは。」
あつきもそれには少し不思議に思った事があった。だがあつきがそれを聞かなかったのは実際問題、医学生たちが何科を選ぶかはポリクリ(病院内を回る臨床実習のこと)での「ここだけはやめておこう」という消去法であることが多いからだ。あつき自身も外科は体力的に無理だから避けよう、とかあまり忙しくなさそうな所にしよう、とか考えて漠然と放射線内科に進もうかと考えていた。それにフタを開けてみれば、鈴木は外科に向いていると言っても良い。
「技術が欲しかったんです。」
鈴木の返答はあつきにとって意外だった。鈴木らしからぬ考えだとさえ思う。鈴木がそういう事にこだわって外科を選んだとは思ってもみなかったのだ。もっとメンタルな部分で選択したのだと思っていた。
「あぁ、言わんとしている事はわかるな。」
川上医師が言ったのに、あつきは頷けなかった。
技術を持つ事と、知識を持つ事。どちらの方が人の為になるのかは分からない。そしてそれがどうして鈴木を外科へと向かわせたのかも。
「俺もそうかもしれない。」
川上が自分自身に確かめるように呟いた。
「どっちがどっちなんて俺にはさっぱりわからないけどな。」
シヴァは感心なさ気に言う。右京は黙ったままだ。そんな中、あつきは愕然とした思いをしていた。
俺には理解できない。
鈴木に一番近いのは自分だと思っていた。だがもう自分が音楽を選んだ時点でそれは変わってしまったのかもしれない。
鈴木はあつきに医学を諦める様に諭した時に言った。『俺の未来がオマエの未来と同じ必要はないんだ。違ったって一緒にいることは出来る』。
確かに一緒にいる事はできる。だけど、先輩の為になってるのだろうか?俺は先輩を全て理解してあげられているのだろうか?
―――――プルルルル…
電話が鳴って一番近い川上がそれを取った。
「もしもし?あぁ、川上です。・・・それで?ST値が高い?あぁ心筋梗塞だろうな。ご愁傷様。とにかく落ちつけ。まずニトロ。あぁ、それから鎮痛剤、酸素吸入、血管確保。OK?」
病院かららしい電話に川上は冷静に答えていく。
「桜井先生は?あぁわかった、10分後に。」
こういった電話は川上に限ったことではない。新米医師といえど鈴木にも身に覚えがありすぎる日常茶飯事だ。それは時間も場所も考慮などしてくれない。
「出かけるの?」
「あぁ。研修医が助けを求めてる。」
慣れた仕草で右京が川上の支度をサポートする。こんな時、右京は川上との年齢差をまったく感じさせない。まるで長年連れ添った夫婦のようだ。
そんな姿を見ながら、あつきはさっきの隔たりについて考える。
右京はどう考えているのだろう?
音楽を選んだ右京は川上との関係に隔たりを感じることはないのだろうか。
「先生、オーベンでしたっけ?」
「いや。オーベンが緊急オペで取り残されたらしい。」
「ベル持ちだったの?」
「いいや。ベル持ちが行方不明なんだと。まったく、悪いね。」
「憎むべきは職業ですよ。」
「それが天職なんだからしょうがないな。いってきます。」
手早く準備を終えた川上が外へと飛び出して行った。そんな背中を見送り右京が振りかえって問う。
「そういえば、しんちゃんは最近帰り早いね。引っ越してきた頃は全然おうちにいなかったのに。」
ほら、ここにも俺の知らない先輩がいた。