終わる世界、始まる明日 Act2:捕獲
「あ、あっきー!おっは~!」
マンションのエントランスを入ると今日も元気に無邪気な笑顔があつきを捕まえた。
「あ、おはようございます。」
もはや朝のあいさつをする時間でもなかったが、彼女の気迫に押されるようにしてつい返答してしまう。かなり陽気で人懐っこい性格の彼女は引越しの挨拶をしに行って以来あつきにあっきーというあだ名をつけてしまっていた。元来陽気な性格のあつきは彼女と波長が合ったが、彼女の人形のような容姿には鈴木という恋人がいるあつきでもドキリとさせられる魅力がある。
「しんちゃんまだ帰ってないよ?」
「えぇ。」
零れ落ちそうなほど大きな瞳が下からあつきを見上げている。
鈴木の事をしんちゃんと呼べるのは彼女くらいのものだ。彼女自身よく病院へ顔を出すらしく、院内の事をよく把握していた。
「あっきー暇?暇だよね?」
「は、はい。」
「うち寄ってきなよ~。アタシ、暇なの。ねっ、ねっ?お話しよ~よ~。」
「はぁ・・。」
無邪気に腕をひっぱられて抗える男がいようか。別に下心があるというわけではない。彼女には純粋にかわいいと思える素直さがあった。まるで年の離れた妹を思う気持ちであつきは彼女に従った。
作りはまったく同じ4LDKだが川上医師の部屋はあつき達の部屋とはまったく違う印象を受ける。まだ引っ越してきたばかりのあつきたちと違って家具が揃っているせいか生活感があった。所帯臭いというわけではない。人のいるぬくもりがあるのだ。来るものを拒まない優しい印象があつきを出迎えたのは、あつきを招き入れた彼女の存在によるところも大きいのかもしれない。
「うっまー・・!」
出された紅茶を一口飲んであつきはそう感嘆の声をあげた。いろいろなところで紅茶を飲んできたが、紅茶がこんなにうまいものであると感じたのは初めてだ。上品な香りがほのかに湯気と共にたって、喉を柔らかに潤していく。
「マジで美味いです、この紅茶。」
「ありがちょ~。うちの奴らなんか誰も誉めてくれないんだよ。つーか、奴等悔しいほど家事上手いんだ、これが。」
本当に悔しそうに顔をしかめて右京は食卓の反対側に腰を下ろした。
「アイツらって川上先生ですか?」
「うん、あとシヴァ。一緒に住んでるの。」
「シヴァさんも医者ですか?」
「いんや。小説家だよ。あれ?フリーライターだったっけな?まぁそんなトコ。」
皿に盛ったクッキーやらチョコレートをつまみながら右京は適当な返事をよこした。改めて間近で見る右京はやはり美少女としか言い様がない程愛らしい。鈴木は彼女を“凄腕の外科医”と形容したのを思い返すと右京が自分より年上である可能性が高いわけだが、絶対にそれだけは納得ができない。シミ一つない真っ白な肌も、サラサラでクセのまったくない長い髪をツーテールに結んでいる姿もどう見たって10代のものだ。
「・・・失礼ですけど右京さんっていくつ?」
「19才!って女性に年を聞くのは反則だぞ。」
きっぱりと答えた年齢にあつきは度肝を抜かれた。
「19ぅ!?」
いや、疑っているわけではない。むしろその方がしっくりくるのだが、だとしたら鈴木の情報は間違っていたことになる。それもまぁ良いとして、川上医師とは13歳?の年齢差…というのは高校時代同じく10歳の離れた保険医と付き合っていた自分にどうこう言える問題でもない。ただ普段の無邪気な態度とは対照的な時々見せる落ちついた眼差しが気になった。
「えっ老けてる?!」
「いや、十分19才どころか15・6歳でも通ると思いますけど、鈴木先輩が医者だって言ってたんで…。」
右京は短く「あぁ」と呟いて納得したように頷いた。
「確かに医学博士のおめんじょーは持ってるよ。アメリカ留学中にスキップにスキップを重ねてぶん取ったからね。でも職業がそうかっていうと答えはグレー。イチ時期はそうしようと思ってたけど他にやらなきゃいけない事が多すぎて断念しちゃった。」
あっけらかんと答える右京に何と答えていいのか図りかねてあつきは次の言葉を待った。
東大と言う天才の巣窟の中でも群を抜く天才であった鈴木を見てきたつもりだったが本物の天才は違ったのかもしれない。
「本業はバイオリン弾き、かな。でも他の仕事が忙しくって本業が副業になりつつあるんだけどね。会社とかやってて。」
声のトーンを少し下げて言った右京にあつきは言葉を失った。
音楽を取ったという選択はあつきと同じだ。だが右京の選択はきっと望んだものではないのだろう。右京の言葉には時折それを感じさせる砂を噛むような罪悪感がにじみ出ていた。からかわれてるのかもしれないという疑問は不思議と浮かんでこない。それくらい右京の言葉には真実味があった。あつきは自分の幸福を改めて再認識する。自分が医者を諦めた時、確かに鈴木とケンカになったりもしたが、誰もあつきの決断を否定するものはいなかった。親ですらひとことも口をはさまないでいてくれたのだ。自分は幸せであると言わざるを得ない。だがあつきにとってはまだ未消化な部分もあり、今でも他人に大学での話をされる事をあつきは極端に嫌っていた。それを明るく話せる事の出来る右京は強い人間に違いない。
そんな折、あつきを助けるように奥のドアから男が姿を現した。まさか誰かいると思っていなかったあつきは驚きの代わりに我に返ることができた。
「シヴァ、おそよー。何か食べる?」
この部屋の最後の住人・“シヴァ”さんらしい。挨拶に来た時も不在だった為、初めての顔合わせになる。
「んあー腹減った。」
寝起きらしいシヴァさんはTシャツにGパンというラフな格好だが、決して見劣りすることはない。どちらかと言うとダンディな川上医師とは対照的に野性的な感じがする青年だった。川上が月だとしたらシヴァは太陽だ。
台所へと消えた右京と入れ替わりにシヴァは自然な仕草であつきの隣の席へと腰を下ろすとテーブルに肩肘をつくようにしてあつきを見た。
「君、あっきー?」
「あ、はいっ。」
「あっきーはタバコ吸う人?」
「いいえ。たまには吸いますけど。」
「よろしい。右京の前で不健康な事は極力避けてくれ。アイツ、身体弱いんだ。」
普通なら知らぬ間にあがり込んでいる男に対しての警告に聞こえそうだが、シヴァの言う言葉には決してあつきを敬遠するような含みはまるでない。ただ右京を大切にする優しい思いが感じられてあつきを素直に頷かせた。
右京の身体が弱いという事は初めて聞く情報だ。だが事実、納得できる程右京は細い。華奢と言うにはグラマラスで均整の取れた体つきをしているが、これ以上ないと言って良い程無駄な贅肉がなかった。それを雪の様に白い肌が冗長している。女性が理想とする姿を現したらこうなるにちがいない。
にこりと嫌味のない笑顔を向けて立ちあがりながらシヴァは大きな手であつきの頭をがしがしと撫で洗面所へと消えた。
そのうち台所からは食欲をそそるようなおいしそうな匂いが流れてくる。
「あっきー、お皿出して~。」
何時の間にか手伝わされて、そのままあつきも食卓へついていた。
「いっただっきま~す!」
カリフラワーとツナが入ったホワイトクリームソースのパスタを目の前に3人で食卓を囲んでいる。昼食を取っていなかったあつきにとっては調度良いと言えば調度良いのだが、上がり込んだ他人の家でまさかこの構図は思いもよらなかった。
「うまっ・・・。」
またしても感動してしまう美味さについ声が出てしまう。
「良かった。いっぱい食べてね。シヴァもたまには美味しいくらい言ったら?」
「いちいち感動してたらこっちの身が持たないな。」
「それは誉め言葉だね?」
「いつもおいしいご飯をありがとうって事だよ。」
だが驚く事はまた別にあった。何と一番大食いだったのが右京であったことだ。そして一番食が細いのがあつき自身である事になんだかちょっと反省すらしたくなる。
「こいつ際限ないんだよ。まぁ、不規則なのがたまに傷だがな。それよりあっきーはもうちょっと食ったほうがいい。」
やっぱり言われてしまってあつきは微かに頬を染めた。盗み見たシヴァの身体は背丈のわりにスリムな体つきだったが、Tシャツのすそから覗く均整のとれた筋肉は見事なものだ。一方あつきの身体は細身で、華奢と言ってもいい体型だった。3時間弱のステージを駆け回る体力こそ持っているものの、それ以上の持久力はない。ボーカリストに比べキーボーディストであるあつきの移動量はたかが知れているし、相棒である長谷部や音楽番組で会うジャニーズJrの方がよっぽど良い身体をしている。一見華奢に見えるプロデューサー・五嶋ですら若い頃から重い機材を担ぎ、あちらこちらを移動している為に見ため以上に力仕事を難なくこなした。
「それよりシヴァはあっきーにちゃんとあいさつしたの?」
右京の声が意識を呼び戻した。シヴァにとっては何気ない一言で、忠告でも命令でもなく単なる意見を言ったに過ぎないのだろう。鈴木仕込みのポーカーフェイスに隠したものの、シヴァの言葉に考え込んでしまったあつきへの右京なりのフォローだったのかもしれない。事実、シヴァは食事の話を全て忘れたように眉をひそめてあつきを振り返った。
「したか?」
していないのはあつきも一緒だ。あまりにナチュラルなシヴァの態度にそんな事をすっかり失念していたが、あつきは慌てて姿勢を正した。
「3階に引っ越してきた村上あつきです。一応、ミュージシャンをしています。」
「柴田克巳だ。フリーライターをしてる。33才独身。プロポーズはまだだが結婚の予定は大アリ。今度紹介しよう。」
シヴァはいたずらっぽいウインクをしてみせた。大人の男を感じさせる一方、時々見せる少年らしさがあつきに好感を抱かせる。嘘のないギラギラとした瞳が印象的だ。
川上医師はどうかわからないが、この家の住人2人はとにかく自然体だった。まるで旧友のようにあつきを扱うのだ。そしてそれをまったく感じさせない。あつきは違和感なくこの部屋に解け込んでいた。『そのうちわかる』と言った鈴木の言葉の意味はこれだったのかもしれない。
「そういえば俺、あっきーのライブ行った事あるよな、右京?」
ふとシヴァが右京に確かめるように言った。
右京は皿を片付けながら意味深な笑いを浮かべる。
「やっと思い出したか。」
右京はそのまま台所へと姿を消してしまった。それを目の端で追いながら、シヴァはこっそりと耳打ちする。
「残念ながら右京の具合が悪くてアンコールまで聞けなかったんだがな。」
あつきは内心、ぎょっとしていた。
もちろん一人でも多くの人に聞いて貰える事は喜ばしいことだ。だが、普段のあつきを知っていてステージを見た人間が必ず口を揃えて言う言葉がある。『あつきがあんな人だったとはね』。それは決して否定的な言葉ではなかったが、あつきはそれを聞く度赤くなる。というのは、ステージ上を駆け回る姿は普段のあつきからは想像できないほど過激らしいのだ。らしい、というのはあまりあつき自身自覚がないからである。ない、と言うのも正しい言い方ではないかもしれない。後でVTRを確認して驚く事はあるが決して自分らしくないと感じたことはない。あつき自身納得の行く行動ばかりだ。ただ、ステージ上にあがると何かが暴走する。何かに引っ張られるように、普段ならしないような事もしたくなる。その時はそれでいいのだと素直に思えたし、いつもだったら息切れしそうな運動も不思議とこなす事ができた。これがステージの魔力なのかもしれないと何度考えた事か。プロデューサーである五嶋はときどきスタッフをも驚かせるようなあつきの暴走を「もっとやれ」と笑って奨励する。ステージが終わった後、グランドピアノのピアノ線が数本切れている事も多い。達成感は大きいものの、思い出すだけで反省したくなるようなライブは山の様にあった。
「いつ頃ですか?」
せめて勘違いされるようなキレ方をした公演でなかった事を祈る。
「1年前か?武道館。」
「よく・・・取れましたね。」
それはおごりなどではなく関係者なら誰でもが言うセリフだ。
正直、あつきは売れている。新曲を出せばオリコン5位以内に食い込めるくらいの力を持っていた。特に1年前の武道館ライブは直前に出したアルバムが爆発的なヒットを記録し、その影響もあってチケットには破格なプレミアが付いたほどだ。ファンを大事にするあつきはファンクラブ優先のチケット発売形態を取っており、市場に出たのはほんの一部にすぎない。チケット発売日の次の日はスポーツ新聞やワイドショーで「5分で完売」と取りあげられたり、当日会場の周りにチケットを持たないファン達が集結してちょっとした騒ぎにもなったりした。そのチケットを入手できたというのは本当に奇跡に近い。
「実はズルしたんだ。五嶋君におねだりしたの。」
台所から再び姿を現した右京が白状した。
「五嶋さんに?」
「うん。友達なの。」
世間っていうのは案外狭い。
「いい音だな。今度はゆっくり聞かせてくれ。」
シヴァはまるでまだその音を聞いているかのように言う。
『良い音楽』ではなくて『良い音』と批評されたのは初めてだ。それをシヴァが意図して使ったのかは分からないが、それでもあつきにはその批評がこの上なくうれしかった。雑誌に載るような小難しい解説は好きではない。そんな評論を読んで『伝わっていないのかもしれない』と落ち込んだことさえある。でも伝わっている人がいたのだ、ここに。
「ありがとうございます。」
あつきは心から感謝の言葉を述べた。