終わる世界、始まる明日 Act12:休養
どんな事があった夜の後でも必ず朝はくる。
ブラインドの隙間から洩れる光に、泣きすぎて完璧に腫れているらしい目を押し上げた。頬に感じる温もりに安堵しながら、それでもそれが却って切なさを増す。
昨夜は泣きながら全てを話したあつきを鈴木は黙って見守ってくれた。「忘れろ」と繰り返して、あつきの髪を撫でながら一晩中抱きしめていてくれた。それだけであんなに痛かった胸が正常値を取り戻しつつある事に、人間は思った以上に強いのかもしれないと感じざるをえない。
「熱上がっちゃったみたいだな。」
昨晩からあつきを抱きしめ続けてくれた手が、あつきが目覚めた事を知って熱を吸い取るように首に触れた。
指摘されたとおりに熱を帯びた体が重い。だが、鈴木に拒絶されなかった事で昨夜よりも心が軽くなった分、不思議と気分は良い。
「うん、でも大丈夫。」
そう言ってみたものの、軽い眩暈を感じてあつきは目を閉じた。
もともと限界に近かった身体は、トーマによって限界のボーダーラインよりも遥か下に落とされていた。軽い吐き気と眩暈、発熱、倦怠感、食欲不振、腰痛というのが今の症状だ。原因はもちろん過労にケガ、そして人為的ストレスによる神経失調症状態。最初の二つは2・3日もすれば直るだろう。だが、最後の1つはいつ解決するという保障はない。
「とりあえず、熱でも計るか。」
鈴木が思いついたように言ってぽんぽんと軽くあつきの頭を叩くとそっとあつきから身を離してベッドを出る。サイドボードの引き出しから体温計を探り出して、あつきへ差し出した。
「計っとけ。解熱剤探してくる。あと、何か飲むか?」
確かに喉はカラカラで、渡された体温計を脇に挟みながら何にしようか冷蔵庫の中を思い出そうとした。そこへ来客を知らせる玄関ベルの音が響く。
「誰だろう?」
一瞬トーマかもしれないと身を竦めたが、それはありえない事を思い出して鈴木に視線を向けた。
鈴木はそんなあつきに気がつかなかったように部屋を出る。その後ろ姿にあつきは鈴木の背中が強張っているのを感じとった。もともと過保護な鈴木が今日はもっと違った次元であつきを守ろうと気を張り詰めているのが分かる。その姿はまるで、ヒナを守る親鳥のようだ。もしかしたら守れなかった事を悔やんで、あつき自身以上に傷ついているのかもしれない。
ドアが閉まる重たい後に続いてひたひたと近づいてくる足音に耳を澄ましながら、鈴木が昨夜の出来事にどんな感想を持ったのかと考えをめぐらせた。
「おはよう。」
鈴木よりもワントーン低い声がすがすがしくそう言ったのに鈴木だと思っていた足音が川上先生であった事を知る。
「おはようございますっ。」
慌てて起き上がろうとする身体を川上の手がやんわりとベッドへ押し返した。そこに小さな電子音が鳴って、川上がぴくりと眉を動かした。慌てて脇から抜き取った体温計をあつきが見るよりも先に川上にひょいと取り上げられてしまう。
「39度2分か。結構高いな。」
独り言の様にそう呟いてから作業に取り掛かろうとした川上が、あつきの視線に気がついて苦笑する。
「ごめん、ついクセでね。右京って熱計らせると必ずサバ読むんだ。だから消される前に取り上げるのが常でさ。」
はぁ、と返事をしながら、あつきは傍らに立つ川上を見上げた。話題に上った右京は今頃どうしているだろうか、と考える。あつきの不幸を一番に嗅ぎ取った少女は同じ経験をしているという。あんなに何者にも侵される事のない無垢さを持つ右京からは想像がつかなかった。
右京はどうやって立ち直ったのだろう。
この男に救われたのだろうか。
その男をまじまじと見て、彼の出で立ちに不審感を覚える。
「川上先生、お出かけなさる…。」
コートを着たまま現れた川上に、疑問を告げようとして、聞くまでもなくあつきは答えを導き出した。
今日は平日だ。あつきと違って医者はオフじゃない。
「先輩、病院!!」
飛び起きてイカれた喉で台所にいるだろう鈴木に聞こえるように叫んだが、すぐにお盆をもって再び戻ってきた鈴木は事もなげに首を振った。
「あぁ、今日はいいんだ。」
そんな2人の対話を川上は気にする風もなく持ってきた点滴の準備を始めている。
「よくないよ。遅刻しちゃう。」
「今日は休むから。」
そう言った鈴木にあつきは自分の失敗を確信した。案の定、鈴木は傷ついてる。あつきを守れなかった事を自分のせいだと思っている。
確かに一緒に居て欲しいと思うのが正直なところだ。一人でいるのは怖いし、熱がある分いつも以上に心細い。だがここで鈴木にしがみついたらきっと2人で落ちていくだけだ。きっと自分は後悔する。今以上に昨夜の出来事が嫌悪として心を抉ることになるだろう。
「先輩、俺大丈夫だから行って。」
「いいから、お前は気にするな。」
「気にする!だから行ってよ。俺がずっと泣いてたら、先輩はずっと病院を休むの?どんな日でも朝はくるよ!」
悲鳴のような叫びに鈴木は困ったように眉を寄せて膝を折る。
「今日だけ。な?」
鈴木はゆっくりと手を上げて、あつきの額に汗で張り付いた前髪をかきあげた。宥めすかすような鈴木の表情に、あつきは瞬きもせずに鈴木を見据える。
「先輩。俺ね、忘れない。昨日の事はきっと忘れちゃいけないんだ。どうしてこんな結果を招いたのか考えて、これからどうするのか決めなきゃいけないから。これは俺が自分で選んだ道だから自分の事は自分で考えなきゃいけない。だから先輩も自分で選んだ道を大切にして。先輩のお仕事は患者さんを診る事でしょう?」
「でも・・。」
「対等でいさせてよ、先輩。」
まっすぐな瞳に鈴木は躊躇しながらも頷くしかない。ここで駄目だと言ったら、二人の関係は対等ではなくなる。それがあつきを傷つける事を鈴木は十分承知していたのだ。
「シヴァが暇を持て余してるから看病させよう。」
2人の押し問答が一応の和解を見せたものの、未だに躊躇している鈴木に川上が助け舟をだした。
「お願いします。」
「大丈夫です!」
ほとんど同時に発せられた言葉に川上は苦笑の笑みを漏らす。
「39度を超えてるってのはちょっと俺も心配だよ。医者としては一人にしておきたくないね。同僚としては鈴木君を休ませるのにも同意しかねるけど、まぁ今日一日くらいは良いと思うけどな。」
鈴木がしぶしぶ条件を飲んだのだから、と川上の目が言っている。あつきは仕方なく頷いた。
「よろしくお願いします。」
「シヴァは医者じゃないけど、右京のおかげで看病慣れしてるから何でも言うといいよ。あとは気にする必要はない。鈴木君、用意しておいで。一緒に行こう。」
川上に促されて鈴木は黙ったまま身を翻して部屋を後にした。鈴木の中の葛藤が部屋に残って暗い沈黙を落とす。
「先生。俺は間違っているんでしょうか。」
天井を睨みながらぽつりと発せられた言葉に戸惑う事もなく、川上は手にしていた点滴の長い針を手際よくあつきの腕へ押し入れた。訪ねながらも自分で答えを探すようにそっと目を伏せたあつきに、川上はふわりと口元を歪めた。
「右京も同じ事を言った事があるよ。」
どこか寂しそうな笑顔を向けて、あつきの頭を大きな掌が撫でる。川上はそれだけ言って、あつきの質問に答えはしない。
「とにかく君には今、休養が必要だ。おやすみ。」
あつきは目を閉じた。待つまでもなく眠りが落ちてくる。確かに休養が必要らしかった。