終わる世界、始まる明日 Act10:救済
誰かがすすり泣く声が耳障りで、あつきは目を覚ました。それが自分のものだと気がついてさっきまでの狂気を思い出してしまう。思い出したくないと思っても、傍らで自分を抱きしめながら死んだように眠る相棒の姿に現実を突きつけられる。そしてそれに、動く度に走る激痛が追い討ちをかけた。涙は止まらない。
起こさないように慎重にトーマの下から這い出した。いつのまにか拘束されていた腕は解かれて自由を取り戻していた事に気付く。だが戒めの痕がくっきりとあつきの手首には残っていた。足を伝う血をシーツの端でぬぐいあげて、引き裂かれた服を身に纏う。重い体を引きずりながらあつきは逃げるように彼の部屋を後にした。隣の自分の部屋へ入るとあつきは風呂場に直行した。シャワーの温度も確かめないでその下に滑り込む。
どうしてこんな事になったんだ。
悲しみが頭を重くする。
俺が気付いてやれなかったから…。
自分の出した結論にこれは罰なのだと思おうとした。だが何度擦っても消えない痕跡に頭を振った。
だからってこんな目に遭わなきゃいけないのか。
葛藤というより混乱があつきを支配して、眩暈を覚えた。込み上げてきた吐き気に床が濡れるのも構わないでシャワーの下から這い出すと、洗面所に顔を突っ込んだ。吐けるだけ吐いて胃を空っぽにする。それでも胃はギリギリと悲鳴を上げ続けた。
助けて、先輩。
だがあつきは洗面所の下に座り込んだまま動けない。
鈴木に助けを求めて、何と説明するというのだ。気持ちのすれ違いで強姦されたと言ったら、鈴木はどんな顔をするだろう。
「先輩・・」
帰りたい。
今すぐ鈴木に抱きしめてもらいたい。
見上げた時計はまだ22時を回ったところだ。あつきは徐に立ち上がって身支度を整えた。
帰ろう。
今すぐ帰るんだ。
荷物を引っつかんでドアへ向かおうとした所で来客を告げるドアベルが鳴った。恐怖にバッグを取り落とす。
もしかしたらトーマかもしれない、と。
「あっきーいる――?」
最近では聞きなれた声がドアの前で言ったのに、あつきは金縛りから解けたように動き出した。
「右京さん?」
ドア窓から覗き、右京が一人なのを確認してからドアを開けた。
「どうしてこんな所に?」
早くドアを閉めたくてあつきは疑問を投げかけながら、手を引いて右京を招きいれる。
「入っていーの?」
「えぇ。」
あつきの横をすり抜けて入った右京は振り返って言葉を無くした。にこにこ笑っていた右京が、あつきの顔を見るなり表情を一変したのだ。
「あっきー・・?」
その表情で、自分がどんなに情けない顔をしているのかに気がついた。自分では平静を装っているつもりでも、きっと壮絶な顔をしているのだろう。
「すいません。」
「なんで謝るの?あっきーは悪くないでしょ。」
右京の言葉に少なからず安堵している自分がいる。何も知らずに言った右京の言葉がさっきまでのあつきを『おまえは悪くない』と肯定してくれているような気にさせた。そんなあつきの気持ちを知ってか知らずか右京が黙ってあつきの頭を自分の胸へ抱き寄せる。
「大丈夫。」
右京の温もりの前にあつきは膝をついた。理由も聞かずに抱きしめてくれる彼女にしがみついてあつきは泣いた。
「もう大丈夫だよ。私がついてる。」
温もりはどこまでも優しかった。
「とにかく来て。来なきゃ絶交。」
目を覚ますと、部屋の隅で電話をする右京が見えた。誰に電話しているのか、右京は怒ったように口を尖らせている。
「そんなの知らないよ。好きにしていいってんなら来なくってもいいけど~。」
右京の横暴ぶりに相手が悲鳴をあげているのだけはわかった。なんだかコミカルで、右京らしすぎて可笑しい。笑おうとしてイカれた喉に咳き込んでしまう。右京がそれに気がついて振り向き、笑顔を向けた。
「あ、目ぇ覚めた?」
返事の代わりに笑い返すあつきへ右京は更に目を細めて笑う。
「じゃ、そういうことで。切るね~。」
さっさと電話を切って、すぐさまあつきの傍らまで飛んできた。
「具合どうかな。貧血おこしたみたいだから、とりあえず点滴落としてみたけど。」
泣いている途中で意識を失ったのはそのせいだったらしい。年下の、それも女の子に救われた事に恥ずかしさは自然と湧いてこない。
「大丈夫。」
「そ?このまま帰れそう?」
右京が軽く言ったのに、あつきは瞳を揺らした。
どうやらここはあつきの宿泊していた部屋ではないようだ。いつの間にどうやって移動させられたのかあつきの部屋より豪華な調度品が並んでいる。だが窓の外に見える夜景は角度が違うものの同じだ。
「・・帰る?」
許されるのならここに居たかった。いつ現れるか分からないトーマに怯えながら眠るのは耐えられない。
「東京。うちのに送らせるから。」
右京はどこまでも優しくあつきを甘やかす。
帰れるものなら帰りたい。だがもう夜中だ。さすがに新幹線も走っていまい。
「でも。」
「大丈夫。ね?帰ったほうがいいよ。熱もあるし。」
右京が自信を持って言うのに、あつきは頷いてしまいたかった。だが現実がそれを許さない。
「明日、仕事があるから。」
それを考えるだけで気が重い。ラジオ1本だけだが、トーマと2人になる事を思うと胃が痛んだ。だが仕事に穴を開けるわけいはいかない。さっきまで東京に帰ろうとしていた自分がいたはずなのに、やはり仕事にしがみ付いている。カレイドスコープが今後どうなるのかもわからないのに。
「うん。それは五嶋君が責任取ってくれるから大丈夫。」
思いがけないプロデューサーの名前が出て、あつきは飛び起きた。
「もしかして、さっきの電話!」
腰に激痛が走ったがそんな事を気にしている場合ではない。
「うん、五嶋君。大丈夫、大丈夫。」
右京は笑ってあつきを再び寝かしつけた。
「ちょっと待っててね。用意するから。乗り物酔いとかする?」
「大丈夫。」
「良かった。じゃ、とっととしんちゃんの待つ東京へ帰ろうじゃありませんか。」
あつきはびくりと肩を揺らした。
鈴木に会いたかった。
帰ろうと思ったのもそのためだ。
だがその後、鈴木に何て言おうかという結論はまだ出ていない。
「あ、」
「大丈夫。しんちゃんはあつきの味方でしょ。」
投げかけられたウィンクには底知れぬ説得力がある。
あつきは素直に頷いた。
後の事は後で考えよう、と。
あつきは驚きにぽかんと口を開けたまま右京を見返した。
毛布に包まれて、右京が連れてきた男性にお姫様だっこされて上った屋上にはヘリコプターが待機していたのだ。自分で歩いていくと言ったあつきの言葉は右京の「駄目」の一言によって却下された。戸惑うあつきを抱き上げる物静かそうな青年がそっと囁く。
「逆らわない方がいいです。後で何されるかわからない。」
相当身にしみているらしい青年の言葉にあつきは従うしかなかった。
「じゃ、榊、頼んだよ。」
「はい。確かにお預かりいたします。」
満足そうに頷いて、右京は屈め、と手をひらひらと振る。承知したように榊と呼ばれた青年が右京とあつきの視線が合う高さまで膝をかがめた。
「覚えておいてね。私も、何があってもあっきーの味方だから!」
そう言ってあつきの頬にキスをした。まるで眠りにつく前の子供にするようなキスを。
「ありがとう。」
少し心が軽くなっていた。
右京が優しい魔法をかけてくれたから。
「高い所は大丈夫ですか?」
飛び立ったヘリコプターの中で、耳に心地よいバリトンが気遣うように尋ねてきた。
「大丈夫です。綺麗ですね。」
あつきはうっとりと足許に広がる夜景を見下ろして呟く。
大阪の夜景には東京とは違った華やかさがあった。静かに静かに佇むといった東京の夜景とは違って、大阪の夜景にはどこか活気がある。そんな夜景を楽しむ心の余裕を持てている事にあつきは不思議な気分だった。トーマから逃げているこの状況のおかげというわけでもないようだ。地上での出来事がまるで別次元の事のようにすら思えている。
「ヘリコプターってこんなに静かなものなんて知らなかったです。」
少しの機械音と風をきる音がするだけで、ヘリコプターの中は案外静かだ。轟音と共に中継をするのをテレビで見ていたあつきにとっては何だか拍子抜けなくらい快適だった。
「ステレスヘリですからね。」
よっぽど高価なのだろう。まさかこんな形で乗ることになるとは想像すらつかなかったがそれは彼も同じなのだと気がついて、あつきは隣に座る青年に向き直った。
「・・すいません、俺の為に。」
「いえ。もともと私も東京に帰る予定でした。」
榊と名乗った青年は癖のない黒い髪を後ろで1つに結び、きっちりと着込んだダークグレーのスーツの上に黒いコートを着ている。丁寧な口調はもともとらしいが、決して端座した姿勢を崩さない。日本人らしい顔立ちに切れ長の目が印象的でハンサムと言って良いだろう。ひたすらあつきを甘やかした右京に倣うように優しくあつきを扱ってくれるが、どうもそれ以上の感情が見えてこない。だから心配無用との言葉が本当かどうかあつきには分からなかった。どちらにしても見知らぬあつきを連れて帰る羽目になった事は決して有難い事ではないだろう。だが、右京には絶対服従らしい彼がそれを断ったとは思えない。
「榊さんは右京さんとどういったご関係なんですか?」
「右京様の側近です。」
らしすぎる答えにあつきは一瞬固まる。
まさにらしすぎるのだ。秘書というには柔らかくて、部下というには近すぎる。明らかに年上なのだが、傅く姿があまりにも自然で日常耳にしそうにない単語でも納得がいってしまう。
「・・右京さんって、」
何者ですか、と聞いていいのだろうか。側近を持ち、あの若さで、家業を継いだと言っていた。いくら天才とはいえあの強い右京が夢を諦めざるを得ない状況に追い込まれるというのはどういうことなのだろう。
「AT1グループはご存知ですか?さっきのホテルもその傘下ですが。」
何の関係があるのか、突然振られた話題にあつきは意識を戻す。
「はい。日本で一位のグローバル企業ですよね。」
その名前はあつきですら知っていた。元々は日本で日比谷のホテルから始まった会社だったが今では世界的にも業績を飛躍的に伸ばし、日本では敵なしだと言ってもいい。
「右京様は、そのAT1グループのCEOです。あの歳で、更に女性という事もあって世間には隠しておられますが、今日も仕事の関係で大阪に。」
まるで現実味のない右京の正体にあつきはそれでも頷いた。こんな夜中に個人的理由で見たこともない消音ヘリコプターを飛ばす事ができる、という事実だけで十分だ。
だがそこで疑問が浮かんだ。
朝まで待てば電車が走る。それを待たずに東京へ帰るほどの必要性があったのだろうか。
もちろん、あつきはそうしたいと思った。右京が来なければあのまま部屋を出て、タクシーを掴まえて東京まで走らせたかもしれない。だけど右京はどうしてあつきの願いを叶えたのだろう。一度も帰りたいと言った覚えはない。それでも右京は五嶋を呼びつけてまであつきを東京へ帰してくれた。いくらあつきが泣いたからと言ってそんなお節介があるだろうか。
あつきは恐る恐るシャツの袖口を捲り上げた。
縛られた時のタオルの痕にしっかりと手当ての痕跡を見つけてあつきは愕然と目を見開く。
―――――もしかして。
何を浮かれていたんだろう。
東京に帰される事の意味を考えていなかった。
―――――もしかして。
ガタガタと震え出したあつきの肩を榊の長い腕が巻き取る。
「落ち着いて。」
優しくあつきを宥めるがその声はあつきに届いていないのかもしれない。虚空を見つめたまま動かなくなったあつきは更に震えを増した。それでも根気よく榊は子供を寝かしつけるようにあつきの肩を叩く。
「大丈夫です、落ち着いて。」
―――――もしかして。
強迫観念にとりつかれてあつきは指を噛んだ。それをやんわりと榊の手が包みとって剥がしたが相当強く噛んでいたらしい指には血がにじんでいる。
「もしかして、右京さんは・・。」
それだけ言うのが精一杯だった。それ以上言ったら恐怖に飲み込まれてしまいそうで、あつきは頭を抱えた。
途切れた呟きに榊がそっと頷く。
支えるように抱かれる肩でそれを感じ取ってあつきはそのまま身を凍らせた。
知られた!
右京に知られた!
「・・聞いてください。確かに貴方の身に起こった事を右京様はご承知です。」
やっぱり・・・!
絶望の前にあつきは身動きすらできずにいた。
それは一生、あつきの中で眠り続ける秘密となるはずだった。もしかしたら鈴木は気がついてしまうかもしれない。それでも鈴木は言うだろう、「忘れろ」と。鈴木ならそう言ってくれると何の根拠もなく考えていた。だが右京は知ってしまったのだ。優しく笑ってくれた右京はもうあの笑顔をあつきに向けてくれる事はないだろう。きっともう今までの生活は戻ってこない。あいつは仲間に裏切られたのだと、同情的な目で見るに違いない。不思議なほどに自然体だった人々が、自分を拒絶する。汚いものを見るような目をむけられたら・・!それは絶えがたい日常だ。いつまでも現実をつきつけられて心休まる時を失うだろう。きっと生きていられない。
もうお終いだ!
お終いだ!
「貴方の手当ては私がしました。でも右京様は手当てをする前からご存知だったんです。」
「なんで・・。」
榊は口早に、それでもあつきに分からせるように事実を述べた。あつきを覗き込む瞳は混乱したあつきを現実に引きずりあげる。目がそらせずにいるあつきを掴まえたまま、紳士に説明を続けた。
「それは、あの方が今の貴方と同じ目に遭った事があるからです。」
「同じ・・?」
「右京様もレイプされた事があるのです。」
「右京さんが・・レイプ?」
言葉をなぞるだけの返事だったが、最後の答えをするには時間が要った。理解するには想像の域を越えていたからだ。
「右京様の座を狙う輩に襲われたのです。右京様の地位と財産を目当てに右京様を力づくで我が物にしようと。ですから、右京様は一刻も早く貴方を東京へ帰してさしあげたいと思ったのだと思います。」
それが事実ならば、右京のあの笑顔は悲しすぎる。右京はどうやってこの闇を越えたのだろうか。せめてそれが過去になっていればいい。川上先生に癒されていればいいと祈る。
そうでなければ、きっと自分が立ち直れないと思ったから。
支えるように傍らに立った男が事務的にドアベルを押した。それを遠くの出来事のように感じながら、それでもあつきは不安に怯えていた。開いたドアの向こうから現す鈴木の顔を見るのが怖かった。突然の帰宅に、いやもう右京から連絡が入っているかもしれない。何の根拠もなく鈴木が許すだろうと考えた自分が不思議だ。ドアを前にした今、そんな自信はどこにも残っていない。
ガチャリと音を立ててドアノブが回ったのに、あつきはつい後ずさった。それを榊の手が支える。大丈夫だと叩く腕にも何の根拠がないのだ。
勢いよく開いたドアから鈴木が素足のまま飛び出してきたのを知ることができたのは、目を上げている事ができなかったからだ。
「おかえり。」
心底安心したような声が言ったのに、全身の力がぬけるのがわかった。倒れこみそうになるあつきの体を抱きしめて再び鈴木が囁く。
「おかえり。」
「・・・ただいま。」
やっとそれだけ言ってあつきは鈴木の首に巻きついた。
「ありがとうございました。」
鈴木が言ったのに振り返ったが、榊の姿はエレベーターホールにすでに消えた後だった。
「・・先輩。」
「忘れるんだ。」
引きずるように部屋へ入れられて、後ろでドアが閉まった。鈴木は知っている。何があったのか全て承知であつきを迎え入れてくれた。きつく、きつく抱きしめられてそれで十分だった。言って欲しかった言葉を貰って、自分が信じていたものがここにあった事がうれしかった。先輩は自分を裏切らなかった。その事実だけで救われるような気がする。
「忘れるんだ。」
夢などではない。
救われるのだと感じていた。
右京ちゃんはチートな人なので放置で。。。