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終わる世界、始まる明日 Act1:転居

ぴんと張り詰めた緊張感にも似たひんやりと冷たい外気が肌に触れる。しんしんと降る雪が静寂を纏って夜の街を満たしていた。オレンジ色のライトに照らされたまだ誰も踏んでいない白い雪の上をあつきの足跡がまっすぐ続いている。いつもだったら頭の中で鳴り止む事のない音達も今日ばかりは声を潜めているようだ。ただただ静けさが世界を支配している。そんな静けさがあつきは好きだった。

誰もいない道端でふと足を止めてあつきは空を仰いだ。黒い闇から白い点が次から次へと沸いて降り注いでは音もなく地面に落ちる。雪の降る原理を知らないわけではないがそんな天を神秘的と思わずにはいられない。1月6日、この冬初めての雪だ。東京には3年ぶりの雪となる。

全てを覆い尽くす白い雪とは対照的にあつきの格好は全身黒尽くめだった。いかにもミュージシャンらしい黒のレザーパンツにダークグレーのコート、黒いブーツ。ただしレザーパンツと言ってもフェイクレザーだ。本物は手入れが大変だからという理由でステージ衣装以外ではあつきはいつもそれを好んではいている。首に無造作にぐるぐると巻いたマフラーに鼻より下をうずめるようにし、手をコートのポケットに突っ込んだ格好であつきは再び歩き出した。もしかしたら世界に一人残されてしまったのではないかと思うような静けさだが不安を感じることはない。雪にはそんな暖かさがあった。


「あつき」


ふと視線を上げた先で恋人である鈴木慎之介がこちらに向かって軽く手をあげていた。あつきは一瞬足を止めたが、すぐに知らず緩む目元をまっすぐに向けて鈴木へと駆け寄る。


「先輩」

「もうすぐつく頃だろうと思ってな」

「そんな。寒いから家で待っててくれればよかったのに」


ポケットから片手を出してマフラーを引き下げると合図もなく二人の唇が寄せ合う。そんな二人を見咎める存在はありはしない。

白い世界で二人の時間がゆっくりと流れていく。


マンションのエントランスで、下りて来たカップルとすれ違う。モデルばりの美青年と目が覚めるような美少女の取り合わせだ。特に少女の方は芸能界という世界にいるあつきにも見た事のないほど可憐で愛らしかった。だが年齢差があるようで二人の関係は計り知ることができない。


「こんばんは」

「こんな深夜にお出かけですか?」


もう深夜1時を越える時間だ。

挨拶をされたのに鈴木が愛想良く応えたところを見ると顔なじみらしい。相手の男性は苦笑して傍らの少女に目を向けた。


「どうしても右京が散歩に行くって聞かなくてね。」


そんな嘆きをこぼしつつも彼女を見る男の目は優しかった。


「だって初雪だよ~?しんちゃんだってデートしてんじゃん!」


ムーッと頬を膨らませた少女が当たり前だと言いたげに男を睨みあげた。だがその内容に今度はこちらが苦笑するしかない。


「えぇ、デートにはもってこいの夜です。お気をつけて。」


鈴木が言ったのにあつきはぎょっと傍らの鈴木を振り向いた。今のではまるで「デート」と言われたのを肯定したと取られても仕方がない返答だ。普段そんなからかいを簡単に受け流す鈴木が気付かなかったわけがない。だが少女も屈託のない笑顔を向けただけで、何事もなかったように手を振った。


「いってきます!」


二人の背中を見送り、あつきだけが硬直していた。


村上あつき、二十六歳。高校時代から音楽業界で仕事をし、今ではボーカルの長谷部斗眞とカレイドスコープというユニットを組んでいる。去年までは東京大学医学部で医学生をしていたというミュージシャンにしてはなかなかユニークな経歴の持ち主だ。そんな不思議な経歴を持つ事になったのは恋人である鈴木の存在が大きい。鈴木は全寮制であった名門私立中等・高等学校での一学年先輩であり、生徒会長と副生徒会長という間柄であった。誰よりも尊敬し、信頼していた鈴木が東大医学部に進学した事であつきは迷うことなく後を追った。同学科を受験し、見事進学を果たしたのだ。しかしそれからの生活は地獄だったと言っても良い。それまでインストゥーメンタルを中心に活動をしてきたあつきが同じ頃初めて組んだユニットがあっという間に人気者となり、仕事の量が飛躍的に増えたからだ。しかし医学生が授業をサボるわけにもいかず、あつきはとことん睡眠時間を削るという生活を続けていた。それでもなんとか卒業し国家試験にも合格したのだが、音楽を捨てる事の出来なかったあつきは結局医学への道を断念する事になった。そんなハードだった生活を支え、医学への道を諦めるように諭したのが鈴木だ。2人が本当の恋人同士になったのはあつきの大学入学あたりだと認識している。もともと寮で同室だった2人が一緒に暮らす事はさして目新しい事ではなかったが、医学生をしながら音楽の仕事をこなすという超人的な毎日を送るあつきにとっては鈴木がこの上なく心のよりどころだった。そして今でもその関係は変わっていない。


駅からほど近い3階建てのマンションはワンフロアーごとに一軒という作りになっている。その3階が今日からあつきと鈴木の新居だ。鈴木は2ヶ月前に入居していたが、ツアーや何やらで留守にしていたあつきは今日がここでの生活スタートの日となる。学生時代から2人で住んでいたマンションを引き払うのは寂しい気もしたが、通えない距離ではないにしろ、鈴木が大学から派遣された病院がやや遠かった為転居を決心したのだ。何より二人の時間を少しでも長く取りたかったからだ。家が遠い場合病院の独身寮に入るのが普通だが、どうしてもそれだけは避けたかった。新米医師にそんな選択権が普通存在しないのは金銭的な理由が主だ。だが鈴木は随分と恵まれた環境にあった。今まで住んでいた文京区のマンションが両親からの大学進学祝いの品であった事が幸いしたのだ。随分桁違いの話だがそれくらい鈴木の家は裕福だった。だがその分、親子関係に問題があると言えば問題がある。小さな息子を一人日本に残し、鈴木の両親は海外へ行ってしまったのだ。それでも息子はグレることなく全寮制の進学校を選び今に至るというのは奇跡に近い。そんな息子に愛情の為なのかは疑問だが、両親は金だけには不自由をさせなかった。鈴木は決して無駄遣いをするような使い方はしなかったが、貰えるものは貰っておくというセコイ信念で破格のお小遣いを貯めに貯めていたのである。とにかく、鈴木は貰ったマンションを勝手に売り払い、今回の中古リノベーションマンション購入の資金に当ててしまった。そうでなくても、彼の恋人である村上あつきもそれなりにミュージシャンとして名を馳せており、金に困ることはなかったのである。


「さっき会ったのは下の階の川上甲斐先生。同じ病院の心臓外科の先生なんだ。」

「一緒にいたすっっごい美少女は?」

「確かに美少女だけどね。少女なのかは謎だな。川上先生の彼女。挙句凄腕の外科医。」


暖房をつけたまま部屋を出てきたらしく、部屋は調度良い暖かさを保っていた。その暖かさが却って冷え切った指先をじんじんとした脈を伴って赤く染める。

あつきは脱いだコートを椅子にかけると、コーヒーでも入れようと台所へ入った。昔に比べて鈴木もやや家事をこなせるようになったものの、やはり家事はあつきの仕事だ。あつきの食生活に文句をつける割に一人になると鈴木はすぐ外食に頼るきらいがあった。あつきが来るまでの2ヶ月もやはりそうしていたようで、鍋や食器が入ったダンボールが手付かずのまま台所の隅に積み上げられている。あつきはその1つを開いて二人のマグカップを探りながら話を続けた。


「どれくらいスゴイの?」


鈴木は二人分のコートをハンガーにかけながら、ひょいと方眉を上げて呟く。


「ブラックジャック並み」

「なにそれ~」


大真面目に鈴木が言ったのに、あつきは爆笑した。

だが鈴木はいたって本気らしい。


「ホント、ホント。でもまぁ、常駐ではないみたいなんだけどね。いわゆる天才ってやつ。」


マグカップを探し当てたものの、肝心のコーヒーメーカー一式もない事に気がついてあつきはコーヒーを作るのを断念した。いったい今まで鈴木がどんな生活をしていたのかを考えてあつきは気が遠くなる。不規則といわれるミュージシャンである自分の方がよっぽどマトモな生活をしていたのではなかろうか。それほど鈴木がハードな毎日を送っていたのもきっと事実なのだろう。だが冷蔵庫を開けてあつきは更に呆れた。山のようなブラックコーヒーの缶だけが冷蔵庫を占めていたのだ。


「二人で住んでるの?」


あつきは仕方なく缶コーヒーをカップにあけると、それを電子レンジに突っ込んだ。


「いや、3人。川上先生が友達と二人で住んでる所に右京さんが転がり込んだんだって。」

「先輩詳しいね。」


素直に感想を口にしたあつきに鈴木は動きを止めて言った。


「まぁそのうちオマエもわかるよ」


意味深な言葉の意味をあつきは後々知ることになる。


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