七話
日常回
いつの時代も、戦乱によって被害を被るのは民衆だ。ひとたび戦争が勃発すれば、戦地となった場は荒れ果て若手は兵隊に取られる。土地が荒れれば食うに困るのは当然であるし、それ以前に働き手を失うので農作業ができない。安寧を失い、飢えればもうそこには居られない。もっとましな場所を求めて動ける者は移動する。無理な者は死ぬ。
それが正解なのかは分からない。今日を生き延びることに必死な弱い者に、未来を説いても無意味だからだ。必要なのは今の飢えを満たす食料と安心して眠ることのできる寝床である。明日も知れぬ彼らは、今日も生き抜くためにあがき続けるのだ。
アエギュプトゥスでの動乱において、主要部分である北部での掌握に失敗した総督派はその大部分が南部へと逃亡することに成功していた。北部を制圧した守旧派の意思統一が完全では無く、効果的な追撃を行うことができなかったためである。結果、敗北したもののかなり勢力を保った形で総督派軍は脱出することに成功した。
戦力を保ったままでの脱出。それは良かった。だが、同時に無視できない問題も付随だせてしまっていたのだ。逃避行に総督派の難民が随行したのである。
総督イリーナは知っての通り開明的な人物であり、魔族でありながら近代化を推し進め種族や民族に囚われない政治を行っている。それに伴い人間も能力に従って重用したため、その人気は高い。そのため北部での勢力争いでもかなりの数の人間が彼女に味方したのだが、敗北によってそれらがほとんど全て難民となってしまったのである。
その先は決して明るいとは言えない。だからこそ守旧派も彼らをしっかりと追撃しなかったのだろう。はた目にも、総督派は落ち目だった。わざわざ手を下すまでも無く、それでいて魔王の臣を殺すことを避けたかったのである。
だからこそ、彼らは総督派を死地に追いやった。難民を抱えての逃避行という、先の見えない逃亡の果てに総督派が辿り着いたのは禁足地である副王の領域だったのである。
生者にとって副王の領域に足を踏み入れるのは死と同じだ。死者の首魁である副王スフェラは自らの領域を侵されることを極端に嫌う。闖入者には例え魔王であっても容赦なく襲い掛かるほどだ。今まで副王の領域を侵して無事で済んだものはいない。唯一、彼女と競り争うことができたのは西方を震え上がらせた征服者その人だけである。内戦に敗北した軍隊など、争うことすらできないだろう。まして、最初にその領域に入ったのは総督を除けば何の武器も持たない難民である。対抗などできるはずが無かった。
誰もが総督派の命運は尽きたと思った。その時の総督派とはすなわち、敗北した非主流派を意味し、それに付き従う者に価値など見出されることは無いからだ。それが一般的な魔族の価値観であり、民族主義がや自由主義が生み出され近代へと突入しつつある世界においても、その程度には命の価値が低かった。まして、その敗者以下の下々の者など勘定にすら入っていない。この世界にとって難民というのはそういうものだったのである。
この後、奇跡的に総督派は副王と結ぶことで息を吹き返すが、それとて総督と副王の個人的な約定によるものだ。追いやられたとはいえ、魔王との臣従によって定められた境界を侵した難民を副王が放っておくとは思われなかった。
自分たちがどのような扱いを受けるのか。戦々恐々とする難民らに対し、投げかけられたのは次の言葉であった。
「お前たちのことなど知らん。私が治めるのは死人であって生者ではない」
墓の下におらぬ者に用は無い。つまる所、スフェラの回答はそういうことであった。
この副王の評判から考えると、異常なまでに穏便な対処に難民はあっけにとられた。何せ、所領を侵す者には分け隔てなく平等に殺してきたあの副王が、無断でその土地に侵入したのにも関わらず、何もしないのだ。
いくら自分たちが慕っていた総督がその身を投げうって契約を結んだからといって、価値を持たない難民を考慮するとは考え難い。とはいえこれは明らかに意図して自分たちを無視している。スフェラにかかれば指一本動かすよりも少ない労力で皆殺しにできるだろうに、ここまで好意的に無視するのは一体どういうことなのか。どれだけ考えても答えは出ない。
実際の所スフェラは特に何も考えていない。殺すことを考えないでも無かったが、総督がいい顔をしないであろうことは分かっていたし、少しばかり難民を哀れに思ったのも事実だった。それ以上にこの問題に対処することへの煩わしさが勝ったのだ。
スフェラの怠惰な性質と気まぐれが結果として好意的な無視となったので、いくら考えた所で答えなど出るはずも無いのである。おそらく本人も正確には把握していないだろう。
しかし、無視されているとはいえ、難民らが居るのは副王の土地だ。この禁足地にいる限り、外敵がやってくることは無い。万が一守旧派軍が侵入したとしても、あっという間にスフェラが追い出すだろう。つまりは安全が確保されたということである。
生きるためには食わねばならないし、食うためには働かなければならない。追いやられた者として、その内のいくらかは欠落してしまっているのは否定できないが、だからといって全くしないという訳にはいかなった。生きるために必要に迫られた彼らは生活を始めたのである。
「おーい、焼けたぞ」
即席の簡素な窯によって焼き上げられたパンは、辺りに香ばしい香りが広げる。食欲を刺激するその香りに釣られて、あっという間に周囲に人だかりが形成された。窯から取り出された焼きたてのパンは次々と分配されていく。パンを受け取ると老いも若いも、皆一様にかぶりつく。
アエギュプトゥスは有数の穀倉地帯ではあるが、南部の辺境ともなると小麦の入手も簡単にはいかない。アエギュプトゥス南部が決して農作物を生産していない訳では無いが、それを入手する経路が無いのだ。何せ死人は食事をしない。そこに食料を流通させようというのは変わり者というよりも狂人の類だ。利益にならないことをする商人など存在しない。
現状、イリーナが八方手を尽くして食料の確保に奔走し、必要最低限の食料を入手することができている。それでも供給されるのは生存に必要な最低限といった程度で、かろうじて飢えないレベルでしかない。困窮しているのには変わらなかった。
「ちょっと、押さないで! 心配しなくても全員分あるから!」
あまりの人だかりに、パンの分配を行っていた者が悲鳴を上げる。総督が小麦の分配に苦心していることは彼らも承知しているが、先が見えないというのはどうしようもなく不安を駆り立てるものだ。もしかしたら、もうパンは手に入らないかもしれない。そう考えると居ても立っても居られなくなるのもしょうがないというものだ。
そんな中、分配している者は必死にパンを配っていく。求める方もそうだが、配る方も一苦労だ。それでもなるべく公平に、そして平等にパンが行き渡るように配慮を忘れない。横入や二回受け取ろうとすることは注意を欠かさなかった。
そうして戦場のような配給が終わると、やっと人々ははけていく。配っていた若い男はどうにか配り終えることができたとほっと一息、溜息をつく。彼は別に報酬をもらっている訳では無い。単に難民の一人で、有志の無償ボランティアだ。彼自身、多くの物を失った中で、自分ができることをやろうとする善意の人だった。
「うん? あれは……」
適当な空箱に座って一休憩しようとしていた彼の視界に一つの人影が映る。全体的に細い印象を与えることから、その人影は女性であろう。粗末な布を纏い、肌を隠すように全体を覆っているのは何か理由があるからだろう。訳ありなど珍しくも無い。ここまでの逃避行は厳しいものだった。肌を隠さなければならない理由ができることもあるだろう。もしそうなら、視線を気にして人だかりに近づくことができないのかもしれない。人目を気にして行動しなければならないその理由を詮索するほど、男は無粋ではないつもりだった。
「おいあんた。そうだ、そこのあんただ」
声をかけると女は誰のことかと辺りをきょろきょろと見まわすが、何度も呼ばれている内に呼ばれているのが己であると分かると、男の方に近づいてくる。ゆっくりと歩み寄るのは単純に歩幅の問題か、それとも体力が無いのか。いずれにせよ、何かしらの理由はありそうだ。
「パンが欲しいんだろ? 随分と出遅れたみたいだけど、あんた運が良いな。まだ残ってるぞ」
言いながら、男はパンを取り出す。余っているというのは嘘で差し出されたパンは男の分だった。けれども、ここでパンを渡さないというのは、彼のプライドだとか矜持だとか面子だとかといった物を傷つけることになってしまう。そんなちっぽけな理由だった。そういう何となくの理由で、貴重な食料を他人に渡してしまえるほど彼は若く、そして純粋だった。
「これはお前の分だろう。受け取れない」
「いやぁ、パン食うのに飽きちゃってさ。何だか腹も減ってないし、俺を助けると思って、な?」
驚くほど冷たいその声にも負けず、男は軽薄に答える。内心はその生気を伴わない冷たさに驚愕し、率直に言って腰が引けていた。だが、声の高さから女性、それもかなり若い年ごろの娘であると分かったことが彼を踏みとどまらせた。ここで退いては男がすたるというもの。あくまで余裕を持って対応しようとする。
しかし、いくら恰好を取り繕うにも限界があったようで。唐突に男の腹から唸るような音が鳴り響いた。
気まずい空気が辺りに満ちる。ふう、と息を一つ吐いたのは男の方ではない。やれやれといった意味で吐かれたそれは、娘の方からのものだ。男はそれにばつの悪い表情をする。羞恥やらなにやらで思わず笑いがこみ上げてくる。それはどちらかというと苦笑で、娘の方を見ることができない。苦い笑みだった。
「腹が減っていないなど下らん嘘を……。ほら、食える時にはきちんと食っておけ」
「でもそれじゃあんたが食えないじゃないか」
「俺は別によいのだ。そもそも物を食む必要が無いからな。後、格好を付けるのであればもっとうまくやれ」
そう言うと、娘はパンを男に押し付けると、そのままどこかへと行ってしまった。男は手元に残ったパンを見つめ、自らを嘲るように小さく笑った。
さっきの奴、笑えるほど底なしの善人だったな。しかも俺のことを最後まで同じ難民だと思っていたらしい。まあ、死人に日中の日差しはきついから布を纏っていたから姿は分からないし、魔法の素養が無ければ魔力を感知することができないことも珍しくない。
「しかしまあ、明日も知れぬ身で他人を気遣うとは。あれでは長生きはできんな」
他人を思いやるのには余裕が必要となる。それを実際に行動に起こすとなれば猶更だ。余力が無い時に他人を助けるのは自己犠牲であり、美しくもあるが自分を蔑ろにするのは愚かという他無い。命というのは一つしかないのだから。
だが、この顔にぬぐい切れない笑みはあの若い男を嘲るだけのものでは無い。あぁ分かっているとも、自分のことだからな。あの若気の至りの塊みたいなのにあてられたのさ!!
「これじゃ俺が単純な奴みたいじゃないか」
俺は泣く子も黙る副王だぞ。そんな簡単にほだされてたまるか。でもそれはそれとして、イリーナに食料の供給事情を確認しておこう。放っておくと餓死者が出て、俺が管理する死人が増えそうだ。そんな面倒なことやりたくない。そうとも、あくまで面倒だからやりたくないだけだ。誓ってな!
主人公は土地支配を魔王から認められているが、その範囲は死者に限定されている。しかも、根っからの引きこもり体質なので根城の周辺以外は放置してる。なので名目上の土地支配者だけど、全土を掌握しているとはいえない。むしろその辺りは俗世の管轄だとして自分には関係ないと思っている。もし、総督が契約を持ち掛けなかったら、混乱がどうしようも無くなるまで放置していた可能性が高い。