十話
魔王領はすでに瀕死の病人である。これはアエギュプトゥスだけでなく魔王の治める土地全てを指しての言葉であるが、ほぼ事実で間違いない。利己的な役人によって行政は腐敗し、後進的な経済制度は貧困をもたらしている。民族主義や自由主義といった近代思想が生まれ落ちて久しいというのに、未だに封建社会が蔓延り社会を分断している。
アエギュプトゥス総督イリーナは因習を排除することに尽力したものの、改革の過程で保守層から反感を買ってしまい、内乱に突入してしまった。保守層は主に中世的な地主や部族によって構成されている。これらは部族長などの代表者を集めた連合議会を結成し、総督に対して対抗していた。
「俺はどうすればいいのだ……」
総督に反旗を翻した守旧派の一人で連合議会ワセト代表のモザレは一人執務室で頭を抱えていた。モザレは地方土豪勢力の一人で、ワセトの出身であると同時に支配者層の代表でもある。家柄も混血といえども貴族の出身と、ある種のエリートだ。北部の名門大学で学んだこともある彼の人生は順風満帆であるといえた。
しかし、彼は今悩みを抱えていた。その顔に刻まれた皺からして、かなり重大なもののようである。
「あの大悪霊と戦うなど、勝てる訳が無い」
唸るようにして絞り出された呟きは、誰に聞かれるでもなく執務室に溶けていく。もしかしたら部屋の外に控えている衛兵に聞こえるかもしれなかったが、そんなことは彼にとってはどうでも良かった。
モザレ自身、守旧派に属しているがそれはあくまでも自身の保身のために過ぎない。他の強硬派連合議会議員の面々のような主義主張などにはほとんど興味が無く、自分の持つ権益を守るためというのが実情だった。彼のような、日和見やなし崩し的にといった理由で連合議会に参加している者は多く、こういった部分も総督派に巻き返しの余裕を与えてしまった原因であった。
あくまでも名目上での参加。義務としての供出に留め、積極的な出兵には参加しない。それが彼が考えていた方針である。だが、それは今や完全に崩壊していた。
「でかい口を叩いていた馬鹿どもは副王にみんな死んじまいやがったし、奴らの兵隊もみんなあの世に行っちまいやがった。面倒なことだけを残していくなんて、全くとんでもない疫病神だ!」
南部において行われていた総督派の追撃において、その主力を担っていたのは北部から派遣されていた議員とその子飼いの兵隊である。モザレはワセトの代表として彼らの補給の一部を金銭的に負担していたのだが、追撃を行っていた部隊は大方の予想を裏切りほとんど完全に壊滅してしまった。その知らせを受けた時の驚愕をモザレは苦い思いと共に思い出す。それだけ死の軍団長であるスフェラと敵対してしまったのは大きな衝撃だった。
「そもそも、何で俺は副王と敵対しているんだ!? 俺たちの敵は総督だけだったんじゃないのか!?」
ぶつぶつと一人で呟いているうちに興奮が抑えきれなくなったのか、声量が上がっていく。原理主義的な過激な保守議員に聞かれるのは政治上での大きな問題になりかねなかったが、そういった手合いはみんな死んでしまったので気にする必要が無かった。
そもそも、この争いは近代化を進める総督と、それに反対する諸勢力との争いであったはず。どこに副王が介入する余地があるというのか。しかし、戦端は開かれてしまった。泣き言を言えるような余裕はもう無い。
「……一通り町の防備は固めたが、あの副王相手では数日と持つまい」
追撃隊の壊滅を知った時、彼は残っている部隊を掌握することを試みた。守旧派の軍隊は議員ごとの私兵の集団であったが、金と権力をうまく使い彼は残された軍隊を掌握した。その直後に総督と副王が結託したことを知った彼は、自分の権限の及ぶ範囲で兵隊をかき集めた。生者に対して一切の情けをかけないことで知られる副王と敵対してしまったのだ。いくら備えてもし足りないというのが彼の考えだった。
南部においては泣く子を黙らせる常套句となっている大悪霊と実際に戦う。それは南部で生まれ育ったモザレにはとても恐ろしいことで、実際に追撃部隊を壊滅させたことからも伺えた。町とはある種の防御施設としても機能するが、スフェラの方にも都市攻撃の逸話はある。皆殺しだとか、血の海だとか、そういった血なまぐさいその逸話に事欠かない副王と敵対したことに彼は恐怖した。
「どうする、どうすれば良い? どうすれば、俺は故郷を救える……? 考えろ、何かあるはずだ……!」
良くも悪くも地域の代表に過ぎないモザレが最も優先することとは、故郷を守ることである。これには権益を保護することで利益を地元に誘導すること、ひいては自身の立場を守ることや、単純に愛郷心などに占められている。彼にとってアエギュプトゥスという魔王の領土に属するという意識はまるでなく、ワセトという一つの町にこそ所属しているとうのが彼の持つ認識だ。国家に所属するという意識を持たない後進国家ゆえの事情であった。意識というのは教育されなければ中々定着しない。画一的な教育どころか、文字を書けない者も多い魔王領では土台無理な話だ。しかしこの場合、古い観念によってモザレはワセトの防衛に取り掛かっている所は皮肉だろうか。実際に、ワセトは防衛を固めたことで総督軍は簡単にワセトに進出することができなかったのだ。まあ、それによって副王が出てきてしまっているのだが。
「援軍を要請するか……。いや、それでは間に合わない。だからといってあっさりと降伏することは諸侯が納得しまい」
連合議会の本拠地はかつての総督府が設置されていた北部に置かれている。言うまでも無く、南部辺境であるワセトとは反対に位置し、その距離は莫大だ。ただ移動するだけでなく、要請を受けてからの兵士の招集にかかる時間も考えれば救援などとても間に合わない。仮に間に合ったとして、副王に勝てるかは全く保障されていない。
そして、降伏するにしてもモザレの一存だけでは全ての者を納得させることができない。確かにモザレはワセトの代表を務める立場にあるものの、その全てを支配している訳では無い。ワセト支配者層の中で代表に過ぎず、絶対君主などとは程遠い。あくまでもワセト諸侯の中で、一番関係各所との利害調整が上手いだけなのだ。名目上は頭目だが、あまりに強権的な行為はそのまま破滅を意味する。そうなれば統制を失ったワセトは容易に滅ぼされるだろう。それは避けなければならなかった。
思考する。しかし、名案が浮かぶことは無い。それでも思考を放棄する訳にもいかず、さりとて打開策が浮かぶことも無く。堂々巡りを始めた彼の意識はだんだんと自分の世界へと入り込んでいった。
「では死ぬが良い。華々しく散った英雄の言葉であれば誰もが納得するだろう」
その時、悩むモザレを現実に引き戻したのは一つの声。若い女性特有の柔らかい、けれど生気の無い冷たい声色。鈴を転がすような軽やかなその声を聞いて、モザレは胸の奥がきゅっと冷たくなったような気がした。
開口一番に死ねなどというのは普段のモザレであれば、一笑に付すものである。もちろん、そのままでは名誉に関わるため合法非合法を問わぬ後処理は行われるだろうが。少なくとも表向きには冗談と処理される言葉だ。ワセトにそのような言葉を実行力を持って言い放てる者などいるはずが無いからだ。
もし、そのような人物がいるのだとしたら、それはただ一人。
「俺ならばお前が望む形で殺してやれるがどうだ。ここは一つ、俺に殺されてみないか?」
大悪霊にして古い王国の姫。寝物語の悪役の定番。アエギュプトゥス副王スフェラその人である。精密な人形のように整った容貌に反して、そこからモザレを射貫く視線はとても冷たく鋭い。毒蛇の牙のように鋭利なその視線は、スフェラの持つ膨大な魔力と合わせて、濃密な死の雰囲気を醸し出している。
圧倒的な上位者からの死刑宣告。モザレは背筋に冷たいものを感じた。無理もない。スフェラを死者の首魁たらしめている巨大な魔力の総量は、アルビオンの新鋭戦艦の動力に匹敵する。姿形は単なる若い娘だが、それ以上の圧倒的な質量を彼女は有していた。それを真正面からぶつけられたのだ。モザレは自分のことを相応に成熟したと思っていたが、こと恐怖に関してはそうではないことを思い知った。
だが、射すくめられたとはいえ、モザレも幾たびの闘争を潜り抜けた実力者である。幾らかの硬直の後、直ぐに状況打開のために口を開いた。
「私を殺す。結構なことですが、それは本意ではありますまい」
あくまでも余裕がある風に、そして可能な限り対話を続ける。モザレ自身、魔法の心得はあり、多少なりとも戦える自信はあったが、暴力性においてはスフェラが圧倒している。その気になればスフェラはいつでもモザレを殺せる。もしこの状況を打開する糸口があるのだとしたら、それは対話を続けることだった。
「貴女が望めば私程度など、赤子の手をひねるよりも簡単に殺すことができるはず。やろうと思えば指一本動かすのより少ない労力でできるでしょう。そうしないのは何か理由があるのではないでしょうか」
いうまでも無く、スフェラは総督に付いており、モザレは守旧派の連合議会に付いている。政治的な信条を持たないとはいっても、スフェラとモザレが敵同士であることは明白だった。
殺す理由はあっても生かす理由は無い。それでもモザレがこうして生きてスフェラと会話しているからには、少なくとも今殺す理由は無いというのが彼の考えだった。もちろん、単なる気まぐれの可能性も否定できなかったが、それをモザレはおくびにも出さなかった。震えそうになる手も恐怖に歪みそうになる顔も、生存の可能性を少しでも上げるために、精神力を総動員することで動揺を防いでいた。
「……思ったよりは骨のある奴らしい。取り乱して泣き叫ぶようでれば問答無用で殺してやったものを」
どうやらスフェラは今すぐ殺すことはするつもりは無いらしい。そのことを確信したモザレは表情を崩すことはないものの、内心でほくそ笑む。交渉の余地があるのなら、まだやりようはある。僅かながらに余裕を取り戻したかに思えたが、それはすぐに消え去った。
「馬鹿ではないのであれば話は早い。この町を引き渡せ。そうすればお前を殺さないでおいてやる」
「なっ……!! それは……」
分かりやすい恫喝。それ以上に町を明け渡せという要求に面食らう。北部と比べて経済的な後進性から、保守的な考えが一般的だ。伝統的な価値観では先祖伝来の土地とは何物にも代えがたいものである。正に一所懸命。そのため、土地の権利関係では非常にシビアにならざるを得ず、流血沙汰になることも少なくない。それを古代王国の姫であるスフェラが知らないはずが無かった。
モザレ自身、何かしらの要求が行われるとは考えていたが、ここまで相手が高圧的であることは予想していなかった。いや、無意識の内に相手も同じ封建諸侯の一人であると思い込んでいたのだ。死人であろうとも、魔王の臣である以上ある程度の常識は共有されていると考えていた。それは間違いなのだと。生者の道理を死者が理解するとは限らないことを突きつけられたのである。
「命は貴重だ。命あっての物種とも言うだろう? 無駄にして良いものでは無い。死人の俺が言うのだから間違いはないぞ」
薄く笑みを浮かべながら、穏やかな口調で告げるスフェラ。端正な顔立ちと諭すようなしゃべり方も併せて、まるで一枚の絵画のようであった。だが、モザレにはそれがこちらを嘲る悪魔のように見えた。
しかし、モザレとて部族社会を生き抜いてきた一端の政治家だ。北部の海千山千の狸に比べれば尻の青い田舎者なのは否定できないが、腹芸の一つや二つやれるのが当たり前だ。
何よりも、彼には故郷を守るという使命がある。その気概に関しては誰にも負けるつもりは無かった。
「この町を引き渡す。それに異存はありません。すぐにでも展開している兵も纏めて移動しましょう」
「懸命な判断だ」
「ですが、副王閣下が望んでおられることはそれだけでは成されないのではないでしょうか?」
「……ほう」
これは一種の賭けだ。あくまでも相手の提案を受け入れることを前提に、進言という形でこちらの要求を行う。その切り口だ。
少しでも不興を買えばモザレは死ぬだろう。だが、今の彼に使えるのは己の言論だけだ。それを生かすのにはこれは避けて通ることはできない。濃密な死の雰囲気を纏う怪物を相手に己の弁舌で立ち向かうのは正気では無かったが、そうせざるを得なかった。そして、モザレにはそれができる勇気と胆力があった。
「副王閣下が総督と結ばれたことは既に存じております。何でも総督の味方をされるとか。このワセトを欲されるのもそれが関係していると考えます。おそらくはここを総督はここを自軍の拠点にしたいのでしょうな」
つらつらと語るモザレ。スフェラは目を細め、それを眺めるだけで何も言わない。さしあたって問答無用で殺されることは無いことを理解したモザレは言葉を続ける。
「問題はここからです。確かにワセトは南部最大の都市。手に入れられれば台所事情は大きく改善される。その様に考えられたのでしょう。しかし、そう上手くいくでしょうか? 仮に町そのものを無傷で手に入れられたとしても、人心までも手に入れられるとは限らないでしょう」
「だから自分の地位を保障してほしいと? それは主張としては出来の良いものとは思えんが」
「こう見えて私、友人は多い方でして。この町に住む者であれば誰の顔だって覚えておりますとも。それこそ水運系の業者組合にだってね」
ワセトの中核は当然だが河川を利用した水運であるが、それを司っているのは小型船を保有する大小の専門的な運搬業者の同業者組合である。この同業者組合、いわゆるギルドと呼ばれるものなのだが、各種利権に絡んでいるモザレは伝手があった。それも単に知人であるといった緩いものでは無く、双方生じる利益によって強力に結びついている。人によってはそれを汚職だと言うかもしれないが、彼らの感覚では心づけはほとんど常識である。
自分はそういった専門業者集団に顔が利く。ワセトは水運の町なのだから、機能を保持したまま確保したいのなら自分を排除するべきではない。そう主張しているのだ。
「もちろん閣下であっても町の掌握は可能でしょう。死者の軍隊に歯向かうことができる者などいるはずが無いですからな。しかし、恐怖で縛り従えたとしてもで本来の力を発揮できるでしょうか?」
人は非合理な生き物だ。魔族も人間もある程度の差はあれど、結局は自分の価値観でしか世界を判断できない。圧倒的な力で押さえつけることができたとしても、その従属は上辺でしかない。腹の内で憎悪の炎はくすぶり続けるだろう。そして少しでも機があると感じればその炎が燃え広がるのは想像に難くない。
スフェラにかかればその程度の造反は鎮圧することなど容易いことだろう。だが、スフェラも常にワセトに居る訳ではない。総督軍が代わりに入ることになるだろう。軋轢が生まれるのは必然で、それが造反の隙となるのは明白だった。
「私を残して下されば、町の掌握と同時に維持にも役立ちましょう。全ての市民が閣下に忠誠を誓わせることと、反乱など絶対に起こさせないことをお約束しましょう。大丈夫、決して損はさせませんよ」
にこやかに自分を売り込むモザレ。対して、スフェラは冷ややかな視線を注いでいる。値踏みしているのは明白で、モザレ自身、笑顔の仮面の下は冷や汗が滝の様に流れている。上辺だけでも平静を装えるのは彼の強固な意志なせるわざか。いや、もはや意地といっても良かっただろう。
視線が交差すること幾ばくか。口を開いたのはスフェラの方だった。
「良かろう。殺すのはやめておく。お前の口車に乗ってやろう」
モザレは賭けに勝った。スフェラの言葉はその提案に乗ること意味している。モザレは町を救ったのだ。これでもうワセトが死人の波に沈むことは無い。
「喜べよ、お前を殺すのはお前が役に立つ限り後回しにしておいてやる。せいぜい、役に立つが良い」
しかしどうしてだろう。危機を乗り越えたはずなのに、動機が収まらない。冷や汗も留まることを知らないし、嫌な予感が絶えない。もしかして自分は悪魔と契約してしまったのだろうか。
美しい死人を前にして、モザレは少し己の判断が早まったかもしれない。そう思ったがそれはすぐに飲み下された。政治家としてそれは必要なかったからだ。そうだとも、考える必要など何も無いとも。だって、己の指名はワセトを守ることなのだから。そしてそれは今果たされたのだから!
彼はまだ知らない。怠惰な主人を持ったことで、自身にどれほどの試練が降りかかるのかを。
ストックが無くなりました。更新は週ごとにしたいです。