~ 治療 ~
「ぐあああああああああああっ?」
俺は突如口内に発生した激痛にそんな悲鳴を上げながら床の上をのたうち回る羽目に陥っていた。
……とは言え、驚きと共に痛みが沈静し、冷静に考えてみるとコレはさほど不思議な話ではない。
VRによって口の中にガムが入っているようなつもりで上顎と下顎をかみ合わせていたものの、実際には何もないのだ。
それなのに何かがあると錯覚したまま噛み続けると……舌を噛んでしまうのは当たり前の話だろう。
「……てぇな、くそっ」
俺は口内に湧き上がった血の混じった唾液をその辺に吐き捨てると、そう呟く。
かなり思いっきり舌を噛んでしまったらしく吐いた唾は真っ赤に染まっていたものの、噛んだ程度の痛みは十数秒で収まっていき、もう騒ぐほどのことはなくなっている。
……なくなっている、と言うのにだ。
「ああああああああ、あなたっ!
大丈夫ですかっ!」
俺の肉体が損傷したことをBQCOを通じてリアルタイムで監視していたらしく、未来の正妻が突如として部屋へと押し寄せてきやがった。
しかも顔は血の気が失せて蒼白であり、蒼い目には大粒の涙を浮かべ人生の終わりもかくやという表情であり……部屋に訪れた途端、さっき床に吐き捨てた血を見てそのまま白目を剥いてぶっ倒れる始末である。
たかが舌を噛んだだけの俺としては何を大げさなと思わなくはないが……まぁ、この未来社会では男性が怪我をするというのはこういうこと、なのだろう。
ちなみにではあるが、その辺に吐いた唾は三分ほどが経過した時点で微細泡による洗浄が行われ、もはや痕跡すら残っていない。
まるでゲームの、斃された敵キャラが、そして血痕が消えていくようだと思ってしまったのは、最近ゲーム漬けの日々を過ごすことによりゲーム脳になっている所為だろうか?
加えて言うならば抜け毛などの汚れは床下1cm以下の空気層を動かすことで埃が溜まらないような仕組みになっているののことである。
閑話休題。
「市長、大丈夫ですかっ!」
「応急処置の手筈を……緊急時は、痛覚遮断と雑菌処理に……」
そして、当然の話ではあるが、俺が怪我をしたという情報は俺の身の安全を保障する役割を持つ警護官に連絡が行くということであり……数分も経たない内に防衛課直通エレベーターからアルノーとユーミカさんが飛び出してきた。
尤も、アルノーは有事を想定していたのか銃器を持って部屋の中の居もしない敵を探すのに夢中だったし、ユーミカさんはユーミカさんで重症患者に相対するプログラムを探すのにいっぱいいっぱいで何の役にも立っていない。
とは言え、自室の外にある仮想障壁の『壁』にへばりつき、必死に壁を壊そうとしている三姉妹よりは、部屋の中に入れた分、役に立っているとは言えるのだが。
──痛覚遮断ってコレか。
ユーミカさんの呟きで新たなVR機能を見出した俺は、すぐさまそれを実行し……右手の感覚を遮断する。
確かに効果はあったようで作動した瞬間から右手の感覚がなくなったのだから、確かにコレはVRを医療現場で活用した良い例だと信じることが出来た。
実際問題、存在しない触覚を植え付けたり味覚を再現したりするくらいだから、痛覚を遮断したり筋肉の不随意反射を止めたりすることくらい、簡単に出来ることだろう。
ちなみに口の中はもう痛みも殆ど引いていて大したことがないので無視する。
21世紀を生きた男子としては、舌を少し深めに噛んだ程度の傷は、ただ血の味が気持ち悪いだけで、怪我の内に入らないのだ。
「敵はいない。
では、細胞代用軟膏を用いて欠損部の補填を……」
「それ、皮膚移植の場合で口内には適しませんよ。
それよりも有機繊維による微細糸縫合が……」
二人の警護官は男性への医療知識はあっても実践をしたことがないらしく、重症患者への対処を言い合っている。
ちなみに、BQCOが伝えてくれた医療系情報によると、細胞代用軟膏はips細胞の応用技術で、周辺細胞と等しく分化するようあらかじめ指令を受け、軟膏……油性基材により劣化・分化を止められた未分化細胞群を皮膚に貼りつけ、欠損した皮膚を修復する技術であり、擦過傷程度なら丸一日で治すことが可能である。
とは言え、軟膏が張り付かない部位……大量の流血が続く怪我や口内などの粘膜部治療には向いていないという欠陥があるようだった。
ついでに、有機繊維微細糸縫合とは蜘蛛の糸と同等の配列をした半径数ナノミリとかいう細い糸を用いることで縫合手術を行っても痛みはほぼなく、糸が皮膚に吸収されるため抜糸不要であり、なおかつ傷跡も残らないという優れものらしい。
──凄まじい技術だ。
──だけど……
そんな俺の理解を遥かに超えるような、素晴らしい先進技術の存在を教えられた俺だったが……その知識の所為で、たかが舌を噛んだ程度の傷で使ってどうするんだと小一時間ほど説教したくなってきた。
事実、もう血は止まっているし、怪我だって数日もあれば塞がるに違いない。
「あ~、落ち着けお前ら。
ちょっと間違えて舌を噛んだくらいで大げさな」
こんな怪我なんて大したことないということを伝えるため、俺は舌を出しながら警護官二人に向けてそう笑いかける。
警護官はプロフェッショナルな所為か、未だに納得しそうになかったものの……それでも男性の意見に対し異を唱えることは出来ないらしく、口を噤んで下を向いてしまう。
──しかし、医学は発展してるんだなぁ。
北極の深海に沈んでいた俺を引き揚げた後での病気の治療から始まり、人工幹細胞による四肢の復元、簡易な塗り薬での皮膚の再生、臓器の復元再移植、縫合技術、薬品を使わない麻酔、貧血などはBQCOによる日々の体調管理による確認と栄養摂取により解決、成人病に至ってはVR食事と実際の食事を切り離すことで根絶する始末。
BQCOで検索したところ、未だ物理的に破壊された脳の復元は不可能とのことだったが、それでも俺の暮らしていた21世紀からしてみるとほぼ全ての病気と死因とを根絶してしまっているようだった。
唯一、この手の治療が及ばないがん細胞などは、がん細胞が発生した時点で全身スキャンでがん細胞を特定、BQCOを経由する脳内物質分泌によりがん細胞を自死に至らしめるとのことである。
何が何だかさっぱり分からないが、そういうものだと理解するしかないだろう。
そうして俺はBQCOを経由して入って来た知識の吟味を終えると……
「……と言うか、俺よりも治療が必要っぽい連中がいるんだが……」
そう呟いて現実を直視することにした。
俺の眼前では白目を剥いたまま過呼吸に陥っている未来の正妻が大の字で倒れていたし。
仮想障壁を叩き壊そうと頑張っていた三人娘に至っては飛行エネルギーを使い果たして飛べなくなり……俺の家である八階建てビルの壁を三人まとめて滑落した挙句、安全装置に引っかかり、命に別状はないものの完全に目を回している有様が、仮想モニタ越しに目に入ってくる。
「……男は、おちおち怪我も出来ないのか」
俺は大きな溜息を吐き出すと……これから彼女たちをどうフォローするべきか、天を仰ぎながら頭を悩ませるのだった。