~ 床上5cm ~
衛星軌道都市キャノンボールへの旅行に味を占めた俺は、「旅行がこれほど楽しいならば」と、あちこちの都市を見て回ろうと決意する。
完全な不可抗力とは言え、死ぬまで付き合っていかなければならないこの未来世界を思う存分味わおうと決めた俺は、まずは有名な観光名所を巡ろうと、仮想モニタ上に観光都市のリストを展開しながら同行者である未来の正妻へと視線を向ける。
「いや、分かってる。
だが、今日は……特例が必要なのも分かってる。
ただ、今日だけは……」
振り向いた先には、婚約者であるリリス嬢の姿が……いや、過去をろくに思い出せない俺ですら一瞬で察することの出来る社畜の姿があった。
恐らくは行政府……俺はまだ紹介の時くらいしか目の当たりにしたことのない、名前すら知らない彼女の部下たちからの連絡なのだろう。
案件が緊急かつ重大な所為で切ることも出来ず、だけど俺の接待も必要で……俺が一番しっくりくる表現を使うと『家族旅行に出かけた先で対応に追われるサラリーマンの姿』である。
「外の連中がテロリスト予備軍なんて今さらなのだから……いや、それが猫耳族だろうと扱いは同じだ。
しかし、市長は彼女たちに同情的だったのだ。
移民を認めると決めた以上……」
リリス嬢の口調が仕事モードになっているのを眺めつつ、彼女の会話にふと疑問を抱いた俺は、BQCOを用いて海上都市『クリオネ』の移民条件を検索してみる。
──前科、遺伝子による制限なし、か。
要するに、前のテロリスト事件で俺が猫耳族に同情的だったのを見て、未来の正妻様が気を利かせてくれたようだった。
そのことについて俺に何も言わなかったのは、告げれば露骨なポイント稼ぎになると思ったのか、ただ激務が続いたために言い忘れていたのか……それとも、あの猫耳族の少女が最期にやらかしてくれたことへの配慮だったのか。
まぁ、理由は兎も角としても、彼女は復旧でくそ忙しい最中に、大切な都市計画の一部を変更してまで俺の意図を汲んでくれたのだ。
ただのヒモに過ぎない身分だとしても、男として彼女に何か報いてあげなければならないだろう。
「すみません、あ、あああなた。
私は業務が入ってしまったので、本日は……」
彼女の言葉はそこで途切れてしまった。
何故ならば、彼女がそこまでを語ったところで、俺が彼女を両腕で抱きしめていたのだから。
「ああ、仕事、頑張ってくれ」
同時に俺は彼女の耳元でそう告げる。
……そう。
俺としては、その行為はただの激励のつもりだった。
実際のところ、俺の下半身がまだ元気にならない以上、色気をばら撒いたところで意味がないのだから、色仕掛けやら何やらを考える筈もない。
そもそも600年前の日本では女子中学生でしかない少女に対し。エロい気持ちをもてるかと言うと少しだけ厳しいものがある。
ついでに言うと、VRとは言え巨大スクリーンで地球を目の当たりにした高揚感の所為か、この婚約者の存在を恋人とは言わないものの、友人に近い感覚でいたのがそんな軽挙に及んでしまった原因だろうか。
「……きゅぅ」
男性からのスキンシップという出来事に慣れてなかった婚約者様は、気付けばそんな間抜けな呟きを零して全身から力をふっと抜いて、その場に崩れ落ちてしまう。
「うわ、危なっ?」
当然のことながら、俺の貧弱な身体では彼女の全体重を支えることなど不可能に近く……いや、記憶はなくとも昔の身体の感覚が残っているのか、迂闊にも出来ると思ってしまったことこそが、この場合は問題だったのだろう。
俺は重力に引かれた彼女の身体と共に直下へ崩れ落ちてしまい……冷たく硬い衝撃に覚悟を決めた俺は、床へと倒れ込む直前に柔らかな感触に支えられる。
──へ?
一瞬、他の誰かに抱き留められたのかと錯覚したが、男性が異性と共にいるこの自室内にそんな無粋な人間など存在している訳もなく。
唯一、俺を庇えそうな未来の正妻様はまだ俺の腕の中で目を回していて、俺を支えらえる状態とはとても思えず……ついでに言えば、少女の身体は非常に柔らかくて暖かくて良い匂いががして、昔の元気な俺だったら自制など3秒で焼き切れてしまい、ズボンを脱いで飛びかかっていたことだろう。
……いや、流石の俺も未成年相手に本能を優先させることはなかった、筈、だと思いたい。
──尤も、今の俺はそんな元気すら出てこないんだがな。
婚約者の身体に触れたことから、その残念な事実を再認識してしまったことでようやく冷静さを取り戻した俺は、自分の身に訪れた不可解な現象に再度思いを馳せ……自分の身体が床から5cmほど浮かんでいる事実をようやく理解した。
──なるほど。
緊急時の所為か、BQCOが無許可で俺の脳みそに転写した知識によると、男性を保護するため自動で仮想力場を発生させる『緊急保護機能』が男性の自室には取り付けられている、とのことだった。
擦過傷……擦り傷から入る雑菌や、転んだ時の脳への衝撃など、自室内でもある程度の危険があるからこその措置、らしい。
事実、高齢者が自室で転んで骨折した結果、あまり元気のなかった男性機能にトドメを刺された件や、それ以外にも女性とのプレイ中に転がり落ちた若い男性がナニを強打……幸いにして外傷は治癒範囲内だったものの、その苦痛がもたらした精神的外傷によって不能となった件など、自室内における男性の事故が問題になり、こんなシステムが取り入れられた、という知識が俺の頭脳に浮かび上がってくる。
「……アホだろ、未来人」
その事実を脳内に流し込まれた俺の口からは、自然とそんな呆れた声が零れ落ちていた。
事実、それ以外の感想が浮かんでこないのは、記憶がなくとも600年前である21世紀を生き延びた男性の感性が俺に残されている所為だろうか。
まぁ、理由は兎も角として、この世界の男性は赤子同然の保護を受け、健やかに甘やかされて生きているらしい。
──甘やかされていると言うか、管理されていると言うか。
男性の意思よりも男性機能が大事という本音が透けて見えるところが、この未来社会を俺が今一つ好きになれない原因だろうか。
一瞬、鶏みたく閉じ込めて精子だけ搾り取ったら効果的だと考えてしまった俺だったが……現在の「男性を市長とする社会」が形成される前の過渡期には、男性に対してそんな非人道的な真似をしていた時代もあったらしい。
尤も、そんな幽閉状態ではストレスが原因により男性の機能が著しく低下してしまった挙句、男子の出生数までもが激減したという。
結果、ただでさえ男子減に悩んでいた社会の男女比が更に大きく傾いてしまい、このままでは人類が滅亡すると社会全体が判断を下した結果……男性は数多の女性たちの頂点に君臨する存在となった訳だ。
勿論、市長と言ってもただ形だけの存在であり、実質のところ男性とは大多数である女性が実権を握る中、言わば象徴として留め置かれているだけの存在でしかないのだが。
「まぁ、起きるまでは寝かせておいてやるか」
導入した理由がどうあれ、この床上5cm防護システムの感触はそう悪いものでもない上に、今俺の腕の中で意識を失っている未来の正妻様の香りも抱き心地もそう忌避するものでもない。
俺はそう小さく呟くと、リリス嬢が目を覚ますまで……正確には目を覚ましてから本格的な覚醒に至るまで3度ほどの気絶を挟んだ時間、彼女と共に床上5cmの距離に浮かんでいたのだった。