~ 退院 ~
俺の退院手続きは事務手続きから支払いを含めて完全に婚約者のリリス嬢がやってくれたので、俺はただ退院日を待つだけだった。
正直、記憶の片隅にあるクソ面倒くさい事務手続きを覚悟していたのだが……流石は優秀な未来の正妻というところだろう。
──完璧にヒモの発想だな。
まぁ、この時代はBQCOで調べた限り、男性が労働を行うこと自体、推奨されてないと言うか禁止されているので、全男子がヒモと言っても過言ではないのだが……。
俺が暮らしていた時代の、女性の働く権利云々って叫んでいたフェミニストたちがこの時代の様相を知ったら果たして何と言うだろう?
そんなことを考えつつも最後に病室を振り返り、忘れ物どころか私物の一つもなかった事実に苦笑した俺は、そのまま自分の足で病室から出ると……一歩一歩を踏みしめながら廊下を歩き続ける。
「あの、あああなた、その、抗重力リニアカートもありますが……」
「……いや、歩くさ、これくらい」
俺の隣を歩く付添いを買って出てくれたリリス嬢がそう尋ねてくるものの……俺としてはこの自分が数週間くらい寝泊まりした建物を自分の足で歩いてみたかったのだ。
俺がそう呟いた途端、何かに納得したのか、未来の婚約者が軽く頷いた後、彼女の身長が5cm程度ゆっくりと下がる。
どうやらあのケニー議員と同じように抗重力ブーツとやらで少しだけ浮いていたらしく……この時代流行りの室内移動手段なのかもしれない。
──すげぇ。
──今更だけど、本当に、未来なんだな。
とは言え、俺自身としては彼女の身長などよりも、そうして室内移動で用いられている未来の技術よりも、通路の窓に映し出されている周囲の景色に意識を奪われていた。
……そう。
俺の認識が正しければ、俺が今いる場所は、海中都市『スペーメ』……あのケニー議員とやらが正妻として建造した都市の中の筈であり、それは恐らく事実なのだろう。
少なくとも俺が知っている都市という概念は、こんなに立体化はしていなかったと思う。
高層ビルではなく、構造そのものが立体化している……と言えば俺の驚きが伝わるだろうか?
水圧に抵抗するための球形外殻を上手く利用するようになっているらしく、高層ビルの合間をリニア通路が抜けているその姿は、大昔のSFで見たような景色であり……そういう俺の知っている時代では『あり得ない景色』がこの海中都市では至る所に存在していた。
何が一番凄いって、そんな海中都市であるにも関わらず、空が見えること、だろうか。
BQCOはその空を球形外殻の内側に映し出された映像でしかないと語ってくれるが……映像の割には太陽光の眩しさも暖かさも、雲の動きも透明感のある空の碧さも、何もかもが凄まじく現実感を持っていて、それが俺を更に驚かせてくれる。
空に金属製の外殻フレームが浮かんでいるのも見えなければ、ここが海中都市であることすら納得出来なかったことだろう。
むしろ「此処が海中都市であると忘れないため」だけにあの外殻フレームは見えるようにされている、とのことらしいが……言われてみればそれも納得できる話である。
──技術の発達ってのは凄まじいんだな。
──これなら、自宅のシアタールームで見るAVはどれほど……
それほど凄まじい技術の進歩を目の当たりにしてすぐに思いついたのがソレと言うのが、子供の身体とは言え中身がエロいおっさんという欠点だろうか。
とは言え、こちらはビデオデッキ時代からAVを眺め、DVDで高画質になった途端に高画質が写るテレビまで買い替え、ブルーレイで高画質になったもののモザイクに涙した、人生とエロとは切り離せなかったもてないおっさんである。
──何でこんなアホなことはすぐに思い出せるんだ、畜生。
自分の過去はあまり思い出せないのに、魂に刻まれていたのかそういう過去の矜持とかは衝動的に浮かんでくる自分が悲しくなり、俺は思わず嘆息する。
「大丈夫です、ああ、あなた。
私たちの都市も、この『スペーメ』に負けないくらい、頑張りましょうっ!」
俺の溜息をどう勘違いしたのか、婚約者の少女は拳を握りしめ鼻息荒くそう宣言する。
「ふふっ、お手柔らかにお願いしますね、クリオネ君。
そして……リリス。
貴女の今後に期待しておりますわ」
そう少女が宣言するを見計らった訳ではないだろうが、タイミングが良かったのだろう……俺の退院を見送りにきたらしきケニー議員が笑いながらリリス嬢の声にそう言葉を返す。
その笑みが意味するところは、恐らく「余裕」だろう。
この海中都市『スペーメ』を世界で五指に入る都市へと成長させたという実務者としての余裕が、ライバルとなるだろう後進のやる気を笑って流せたのだ。
「はい、スペーメ正妻。
私は今日、この都市を卒業します。
今までありがとうございましたっ!」
俺の知らないところでリリス嬢とケニー議員の間には色々と関係があったらしく……俺の婚約者の少女は眼前の老女に向け、そう大きく頭を下げていた。
実際のところ、正妻教育を受けられるのは非常に優秀で金銭と教育環境に恵まれた、10万人に数名という少数のみである。
である以上、この巨大な海中都市であったとしても副市長とも言うべき正妻と、正妻教育を受けられる上級市民の子供との間に関係性がないと考える方がおかしいのだろう。
──もしかして、恋人の子供だったりしてな。
──もしくは、大企業取締役の娘とか。
よくよく考えてみれば、俺自身……あまりこのリリスという名の少女について知らないことを今更ながらに思い知る。
はっきり言ってしまうと、ゲームの便利な案内キャラ程度のつもりだったのでそこまでの興味がなかったのだが……今となってはそれなりに情も移っていて、もうちょいと目をかけてあげるべきなのだろう。
と言うか、「男性は働かなくても良い」というお題目を免罪符に、この時代の企業とか就職とか、そういう社会システムについて全く勉強していなかった上に、俺の記憶の中では血縁者は全く思い出せず、労働に良い思い出がなかったことから……そういう仕事とか血縁などから敢えて目を逸らしていたのが正解か。
「じゃあ、行くか」
そういう反省もあったことから、俺は少しだけ歩み寄ろうとして未来の正妻の手を取りながらそう語りかける。
何と言うか……記憶の片隅に乗っている映画の最後のシーンや漫画の打ち切りシーンなどであるような、「俺たちの未来は此処から始まる!」って感じを演出してみたかったのだ。
「は、はひっ?
え、えええええ、えええと、ああああああああああなた。
ご、ごご護衛は、配備、しししておおおります、はい」
そのちょっとした歩み寄りの効果は絶大過ぎた。
異性との接触に慣れていないリリス嬢は、たかが手を握られた程度で顔を真っ赤にしたかと思うとあっさりと機能不全に陥り……瞬時に俺は少しサービスし過ぎたと反省する。
「あら、思ったより上手くやっているみたいですね、クリオネ君。
では、貴方の門出をお祝いさせて頂きます。
何かお困りでしたら、出来る限りのことは協力させて頂きますので」
「ありがとうございます、ケニー議員。
ですが、出来る限りは自力で……いや、二人でやって行こうと思います」
老女の社交辞令に対し、俺も笑顔で社交辞令を返す。
この辺りは俺も社会人をしていた大の大人であり、記憶が今一つ定かではないものの、それほど苦労なくこなすことが出来る。
まぁ、本来こういう駆け引きをするべき未来の正妻が見事ぶっ壊れているのが原因とも言えるのだが……
──こんなんで、子供作れるのかね?
俺はたかが手を握っただけで真っ赤になってしまう婚約者の将来を心配しつつ……そんなことは欠片も表情に出さないまま、地球連邦議員の一人と社交辞令を交わし合う。
「引き留めて申し訳なかったわね。
では、改めて良い人生を」
「ええ、ご丁寧に。
色々とありがとうございました」
彼女は俺の経歴を……北極の海の中に沈んでいた経歴を知っているのだろう。
だからこそ「改めて」なんてわざわざ言の葉に乗せて別れの挨拶としたようだし、俺はそんなこと意にも介していないという姿勢を崩さず礼を告げる。
それが、この病院での最後の会話となり……そのまま振り返ることもなく、婚約者の手を引いたまま俺は真っ直ぐに歩き続ける。
この先には男性専用ポート……女性客と一切顔を合わせることなく都市外へと出られる港がある筈なのだから。
そうして俺が婚約者の手を引いて歩いて行った先に、その船はあった。
機体名も知らなければ、規格も何も知らない……未だ再起動を果たさない我が愛しのポンコツ姫がチャーターした海中進行艇である。
潜水艦……と言うには少しばかりハイカラが過ぎるデザインで、客室の球形外殻が透明で周囲が見える形状となっているのがまた技術の革新を伺わせる造りとなっている。
左右の円形プロペラとか推進力と言うよりは空も飛べそうなデザインであり、足元にも同じような円形の何かが二つあり……もしかしたら陸海空万能機なのかもしれない。
「時間通りですね、市長。
運転はお任せ下さい」
「ああ、任せる」
警護官のリーダーらしきアルノーが抑揚のない声で俺にそう告げる。
彼女は子宮全摘出の上、脳内も性欲から斬り離されているため非常に安定して信頼がおける人材である。
……外見がちと無骨すぎる欠点はあるが、こういうときは役に立つだろう。
「副操縦士としての知識は叩き込んでおります。
万が一の際にはお役にたてるかと」
「……その場合が来ないことを祈るよ」
次に口を開いたのは警護官のユーミカだった。
彼女が口にしたことは物騒極まりない内容ではあるが、俺も非常時に備えるのが必要なことだとは理解している。
そういう意味では、彼女はかなり優秀な人材なのだろう。
少なくとも必要な知識を前もってインストールする周到さは持ち得ているのだから。
「あ、あたしたちはお客だし」
「う、うん。
何かあったら頑張るけどさ」
「た、タマは護ります」
逆に全く役に立ちそうにないのはこの信号カラーパンツの三人娘だった。
まぁ、彼女たちは賑やかしという概念が強く、あまり警護という観点で期待はしていない。
「じゃあ、出発してくれ。
俺の、新たな都市というヤツにっ!」
そうして俺の……いや、俺たちの新たな生活が今此処に幕を開ける。
これから何が起こるのかさっぱり分からない……ただでさえ記憶がない上に、全く将来の予測がつかない「市長」という立場となる身ではあるが。
それでも、何とか生きていくだけなら何とかなりそうだと……生きてさえいれば何とかなりそうだと俺は溜息を一つ吐き出すと、安住の地だった病院から離れるため、海中進行艇へと乗り込むのだった。
2021/09/25 20:23現在
日間空想科学〔SF〕ジャンル1位。
週間空想科学〔SF〕ジャンル1位。
月間空想科学〔SF〕ジャンル1位。
四半期空想科学〔SF〕ジャンル5位。
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