~ 痕その4 ~
──遺伝子、手術、痕?
正妻リリス嬢の口からその単語を聞かされた時……俺は彼女が一体何を話しているのかさっぱり理解が追いつかなかった。
凄まじくもったいぶった癖に、そんなどうでも良いことで騒いでいるのかと。
と、そこまで考えた時、不意に俺の脳裏を横切ったのは、生まれて初めて目の当たりにしたテロリスト……あの猫耳族の少女の姿だった。
──えっと、確か……
彼女たち遺伝子調整人類のように染色体に遺伝子手術痕がある場合、3世代後には死産もしくは異形と化した赤子しか生まれなくなる……BQCOによて見せつけられたそれらの奇形児の様相は、今でも吐き気を催すほどに強烈な記憶だった。
「……ああ、そういう……」
その段になってようやくリリス嬢が何を言おうとしていたのを理解出来た俺は、小さくそんな呟きを零す。
女性は男性の遺伝子を求めて都市に群がっているのだから、俺の遺伝子に手術痕とやらがあり、3世代後以降の子供が望めないならば、我が海上都市『クリオネ』に遺伝子を求めに来る女性の総数は格段に減るだろう。
この男性が極端に足りない未来社会なのだから、完全にゼロにはならないとは思われる者の……少なくとも今のような、警護官が休まる暇もないほどテロリストたちに襲われ続け、移民応募人口が過熱し過ぎ、他の都市の存続までもが危ぶまれるような事態にはならないに違いない。
そして何より……
──男性の価値は、遺伝子にある、か。
そんなこの未来社会の価値観を考えると、俺自身に対する評価も一変し、今遺伝子目的で集まって来ている女性たちから心のない言葉を投げつけられたり、級友たちからも格下扱いされることが予想される。
眼前で心配そうな碧眼でこちらを見つめている我が正妻は、俺がそんな事態に遭遇することが容易に想像出来るからこそ、あれだけ辛そうな表情をしていたのだ。
──しかし、遺伝子手術なんて、何処で?
そんな大仰な手術なんてした記憶すらなかった俺は、首を傾げながら記憶の奥底へと潜り心当たりを探し続ける。
そうして考えること37秒。
不意に俺は、あの北極都市でサトミさんから告げられた言葉を思い出していた。
──貴方の身体は、末期の遺伝子病に加え、稚拙な冷凍保存の所為と思える細胞破裂により……
──ですので、遺伝子治療とテロメア延長手術と併せ……
言われてみれば確かに……出会ってすぐの頃、サトミさんは俺に向けてそう告げていた。
あの頃にはBQCOが埋め込まれていなかったものだから、しっかりと検索して引き出した記憶ではなく、一言一句正しいかと言われると正直、自信がないのだが……
──あ~。
──言っていた、っけなぁ。
実のところ、あの時は過去の記憶が全くないことと、全く見覚えのない周りの風景に驚くばかりで意にも介していなかった訳だが……よくよく考えてみればテロメアってのは、染色体の末端にあって細胞の寿命に影響するという、もろに遺伝子をいじくり回す系の話である。
専門的な知識はBQCOを経由してもさっぱり理解出来ず、テロメア延長手術とやらが直接DNAに関与するかどうかは定かではないが……どの道その手術がなかったとしても、そもそも末期だったらしき俺の遺伝子病を治療した段階で遺伝子手術痕が発生していたに違いない。
こうして自らの遺伝子が大勢から必要とされる状況になって……しかも、既に妊娠してしまって引き返せない状況の女性たちがいる事実を考えると、もう少しばかりきちんとサトミさんの話を聞いておくべきだったかなぁなんて考えてしまう。
いや、今は自分のことよりも、俺の遺伝子を求めて集まって来た女性たち……即ち海上都市『クリオネ』の市民たちのことを考えるべき、だろう。
「……なら、公開するか。
ああ、でも、それで転出を希望する女性たちには、ペナルティなんかは与えず、希望が叶うようにしてあげたい、な」
「え、ええ。
あの……ショックを受けては、いられない、ので?」
色々考え込んだ割には、俺がそこまで動揺を見せないばかりか、遺伝子云々の話を呑み込んで女性を気遣い始めたのが不思議だったのだろう。
正妻であるリリス嬢がそう首を傾げていたものの……実のところ、俺自身には「欠片の動揺もなかった」と言っても過言ではない。
まず理由の一つとして、俺自身がことの重大性を全く理解出来ていないことが挙げられる。
実際問題として、「貴方に遺伝子手術痕がありますのでひ孫以降の子供から奇形が発生します」と言われ、実感が湧くだろうか?
ぶっちゃけた話、俺は今リアルタイムで妊娠している255人……あれから数日が経過して現在は570人らしいが、彼女たちの子供が俺の遺伝子を受け継いでいるという事実を聞かされても、その実感すら湧きやしない。
実の子供すらこのザマである。
ひ孫の子……玄孫だっけか、そんなところまで理解が追いつく筈もがない。
──あと、遺伝子ってよく分からないのもなぁ。
それも、俺の理解が全く及んでいない理由の一つに違いない。
何しろ今現在、リアルタイムで健康上の実害が一切感じられないのだ。
21世紀に生きていた頃でさえ、俺は将来確実に実害が出るであろう成人病・生活習慣病の予備軍とか言われていたものの、現在進行形での実害が全く感じられなかったが故に何一つ改善が出来なかったダメ人間である。
いや、記憶が朧気な所為で、ダメ人間だったような記憶が微かにある、というのが実際の感覚なのだが……そんな俺だからこそ、遺伝子関係の病気なんて真面目に受け止められる筈もない。
「で、では……公表する、方向で、進めさせて、いただき、ます」
俺があまりにもあっけらかんとしていたのが意外だったのか、それとも彼女自身に何か忸怩たるものがあったのか……我が金髪碧眼の正妻は震える声を必死に押し殺しながら、俺に向けてそう告げた。
「……ああ、済まないな。
こんなことになって……」
何の非もない優秀な正妻が、必死に感情を押し殺した声を出している様子を見て、流石に心が痛んだ俺は、そんな言葉を発してしまう。
考えてみれば、冷凍保存されていた俺がこの未来社会に復活したことで最も影響を受けたのは、眼前でこちらを真っ直ぐに見つめている彼女なのだ。
……だけど。
「いえ、私に配慮する必要はありません。
あなたの染色体全数調査の結果を受け取った時点で、私もあなたと同じくテロメア延長手術を受けました。
私もあなたも、人の数倍の寿命となりますが……死が二人を分かつまで、付き合わせて頂きます」
「……は?」
俺の詫びの言葉に対し、我が優秀過ぎる正妻は、そんな凄まじい返事を返してきたのである。