~ 鬼の居ぬ間の ~
優秀なる正妻様がお休みに入ってしまわれた。
その初日の朝、俺はベッドに寝転びながら虚空を眺め……正妻がいないからこそ出来ることをしようと心に決める。
──まずは……何だ?
最も先に自分が思い出したのは、夏休みに親が不在の間、楽しくエロいビデオを大音量で流した経験であり、次に思い出したのは社会人時代の最初期、長期休みに入った解放感から全裸で踊り出した過去だった。
未だに過去の記憶が定まらない癖に、そんな要らぬことばかりを思い出す昔の自分という存在に対し、憎悪を苛立ちを覚え……すぐさま頭を振ってそれらの記憶を振り払う。
そうして変な記憶を払い落とし、20数秒ほどを思考に費やした結果……実は正妻の不在というモノが、俺の生活に何一つ影響を及ぼさない事実に気付かされる。
論ずるに値しない話ではあるが、彼女の存在が不要という訳ではない。
ただ、未来社会における男子のプライバシーは完璧に護られている上に、正妻たるリリス嬢はあまりにも出来過ぎていて、俺の生活にほぼ干渉しようとせず、俺の自由意志を重んじてくれていたため……彼女がいる/いないで何一つ俺の生活が変わらないのだ。
である以上、正妻の不在以前の段階で、エロ動画を大音量で流そうが全裸で踊り出そうとも、俺が何一つ制約されることもなく……要するに今俺に訪れているのは、「暇で暇で仕方のないいつもの時間」、ということである。
「せっかく休んでいるんだから、リリスのいつもの仕事でも見てみるか……」
俺がそんな要らぬことを思いついたのは、本当にただの好奇心から、だった。
暇に飽かせた好奇心に突き動かされていたからこそ、俺はろくに考えもしないままBQCOを起動し、海上都市『クリオネ』の公務タスクへと侵入を試みる。
侵入と言うと聞こえが非常に悪く不法行為を行ったように感じられるものの、実のところただ市長権限を使って公務タスクの置いてあるデータベースに真正面から入っただけなのだが……
「……ぬぐぁ」
そうしてBQCO経由で仕事タスクを頭に入れ始めた……ほんの3秒後、俺の口からはそんな呻き声が零れ出ていた。
「何、なんだよ、これは……」
俺が呻いたのは、一言で言ってしまうと「仕事があまりにも多過ぎた」所為である。
どうやら正妻が休んでいる現状では、公務をAIに任せているらしく、次から次へと送られてくる案件が「以前からの取り決め通り」に決裁されていっているのだが……その様子がBQCOを通じて理解出来てしまい……だからこそその余りの情報量に、俺は耐え切れなかったのである。
──警護官の採用募集案件。採用予定者25名に対し応募者7,984名。
──事前の点数表から選択、上位から順番に採用。
そんな案件の処理開始へと様子に意識を向けると、各警護官の個人情報とプロフィール、事前に決定していた採点表に基づく点数一覧が俺の脳裏を過り……それらをかみ砕く間もなく、具体的に言うと3秒もしない間に次の案件が流れて来る始末である。
──都市開発に問題発生、外注資材搬入の遅延発生。
──第二取引先宛に資材発注可能か確認、不可能ならば第三・第四候補。
──それらの遅延込みでスケジュールを再構築……許容予算内で最も遅延の少ない案を採用。
──移民受け入れ候補1,000名のロットが完成、選別に入る。
──事前評価で選定、現状では244名の移入が可能。
──決定後、合格者・不合格者に事前に用意された様式の通達を送信。
──都市内でAIの脱法プログラミング確認……違法ではないグレーゾーン案件であるため、正妻の認可を仰ぎたい。
──正妻認可応答なし……AIが判断、不法性、反社会性はないと判断、許可。
──警護官の配置換え要望伝達。
──要望通りの場合、シミュレーションすると15分間警備に穴が発生する、不許可。
──他の警護官が配置換えに納得した場合、許可を通達するため、警護官同士でスケジューリングの調整を図るよう指示。
それらが1件1件、僅か10秒単位で次から次へと送られてくるのである。
21世紀人の感覚では「眼球が文字を識別する速度が追いつかない」だろうそれらの案件を、BQCOはその優れた情報伝達速度によって迂闊に全ての情報を脳みそ内へと伝達してしまうから大変である。
ぶっちゃけて言うと、俺は僅か3秒ちょっとでその膨大な情報量に呻き声を上げ……30秒が経過する頃には、完全に酔ってしまったのだ。
「……ぬぉああああああああ」
視界が歪み平衡感覚が喪失した所為で起き上がるどころか目を閉じることすら叶わず、胃は不快感に内容物を逆流させようと動き始め……幸いにして朝起きたばかりであったため、胃には何も入っていなかったが。
「……仕事馬鹿とは、思っていたけど……ここまで、とは……」
今、俺の体調が絶不調に下がってしまったのは、正妻の仕事量を……いや、仕事に付随するただの情報をそのままの速度で、BQCOを通じて脳みそに放り込んだから、である。
……そう。
要するにどんな仕事をしているか……その情報に触れただけ、なのだ。
我が優秀過ぎる正妻様は、この情報量を理解しAIが政策候補を挙げるという補助があるとは言え、決断を下し……その責任を負うという難事を毎日のようにこなしているのである。
──絶対に、化け物だ、アイツ……
勿論、俺自身がBQCO経由の情報伝達に慣れていないことも原因の一つではあるのだろう。
加えて、俺自身が都市経営のノウハウも持っておらず……この海上都市『クリオネ』が造られ始めてからずっと運営をこなしてきた実務経験の差という面が大きく影響しており、俺と彼女とで地頭の出来がそこまで乖離していない、とは思いたい。
だが、それでも……それでもこの業務量と執行速度は『異常』の一言に尽きる。
「……脳の血管、マジで切れたのかも、なぁ」
俺は突如として休暇を申請してきた金髪碧眼の正妻の、あの時の不審な動きを思い出し……少しばかり彼女の身を慮る。
幸いにしてBQCOで検索したところによると、脳内の毛細血管が破裂したくらいであれば……発症すぐにこの未来社会の医療技術を用いれば、何の後遺症もなく治療可能とのことである。
……むしろ、睡眠中に毛細血管が破裂、閉塞した案件を、寝ている間に治療する案件が多く、そんな治療が行われていること自体、一般市民は気付きもしていないのが実情のようだったが。
──そもそも高血圧自体が少ないみたいなんだけどな。
そうして彼女たちの健康が保たれているのも、規則正しくバランスの取れた食事(ミドリムシ加工)を強制的に摂取させられ、寝ている間にもBQCO経由で全身の筋肉を微細に動かすことで必要最小限の運動が自動的に行われいる所為、だろう。
「……本当、便利な世の中だ……」
久々に自分が住んでいるのが21世紀ではなく未来社会だという実感が湧いてきて、俺は思わずそんな呟きを零してしまう。
そして……
「意識の強制シャットダウン、10秒後。
起きるのは、3時間後で」
取り合えず、眩暈と吐き気に耐えられる自信がなくなった俺は、最終手段として「一睡する」ことを決定した。
実のところ、21世紀のパソコンと同じように、意識の強制シャットダウンを用いることで、眩暈や寝不足、倦怠感など簡単な不調などは何もかも解決するのだが……仕事をしていた頃の名残か「何もせずにただ寝るだけの時間というのが妙に勿体ない」気がして、なかなか決断に踏み切れないのである。
以前俺が勤めていた会社やあの社長……いや、それどころか「測量業という概念自体」が消え去っているというのに、こんな感覚がまだ消え冴えっていない辺り……本当に仕事という苦行の精神性外傷の後遺症は大き過ぎると言わざるを得ない、だろう。
2025/07/05 11:38投稿予約時
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