~ 妊娠その1 ~
出産、育児、教育費。
朧気な過去の記憶の中にある「妊娠」という言葉から連想されるイメージはこんな感じであり……結婚相手どころか交際相手すら記憶から出て来ない過去の俺にとって、この言葉にはマイナスのイメージしかなかったようだった。
そんな俺だったからこそ、眼前の……正確にはここは仮想空間でしかないため、データ上での話なのだが、『飯友達』のユーミカさんが「妊娠」するという未来が現実のものになりそうな事実に、動揺を隠せない。
──ど、どうすれば、良いんだ?
俺の中の常識では、結婚して育児費用などを捻出するか、もしくは堕胎させるためのお金をカンパ……は学生ものの不良漫画だったか。
思考回路がとっ散らかっていて、自分が完全に混乱しているのが分かる。
分かっていてもどうしようもないのが緊急時であり……だけど、21世紀の俺に存在してなかった「外部から必要な知識を投入してくれる援護器官」が現在の俺には存在していた。
……そう、BQCOである。
──子供の出産・養育費用は都市運営費から供出される。
──女児ならば出産費用全額と凡そ3年間分の生活費。
──男児の場合は女性平均年収の300倍に相当する額となり、それは全額中央政府の補助金によりまかなわれる。
どうやらBQCOは具体的額ではなく、年々変わっていく物価を考慮して作られていたらしき、法的な文章で回答をしてくれたようである。
お陰で具体額はよく分からないものの、子供を孕ませても俺の懐が直接痛む訳じゃないということだけは理解出来て、俺は若干の余裕を取り戻していた。
あと、以前トリー・ヒヨ・タマの三姉妹が口にしていた「男児を授かったら7回分の人生働かずに済む」との言葉は嘘じゃないということも。
──宝くじより儲けが大きくないか?
俺が知っている宝くじ……ちょこちょこスーパーマーケットの片隅で売っていた覚えのある公営のヤツだと、最高は確か10億円だった筈である。
自分の年収の具体額は覚えていないものの……今BQCOで検索したところ、西暦2000年のサラリーマン平均年収が約500万円。
面倒くさいので端数は省くものの、その数値で計算すると宝くじは年収の200倍……サラリーマンが20~60まで40年間働くと仮定すると、宝くじは人生5回分に相当する訳だ。
──そう考えると割は良いのか。
数字7つを当てる宝くじの当選率は、10,295,472分の1……約1,030万分の1である。
それに比べ、男児が生まれる確率は110,721分の1……11万分の1。
まぁ、元手が200円だか300円だかの宝くじと、膨大な納税をしたうえで10月10日を費やして行う出産とを比較して何になるかというと全く何の参考にもなりやしない訳で……要するに俺は少々落ち着きを取り戻したとは言え、未だ絶大に混乱している最中というだけの話なのだが。
「あの、市長?
大丈夫、ですか?」
「……ああ、何も問題はない。
俺は、冷静だ」
そうして混乱した挙句、妊娠する予定の女性に心配される始末である。
俺自身は懐も痛まないしただ精子を提供するだけなのだから、どっしりと構えて父親らしい姿勢を見せ……見せ……
──まて、俺は父親になるのか?
──そもそも、妊娠する予定って何なんだ?
胎内に精子を注入したどころか、粘膜接触以前の肉体接触すらない女性に対し、責任を取って父親になるとは何なんだろう?
それ以前に、俺には正妻が……まだ具体的に濃厚な肉体接触をしている訳ではない名目上だけとは言え、妻がいる身である。
なのに、他の女性を孕ませ……孕ませ?
「そもそも、どうやって妊娠させるんだ?」
いや、生殖行為の云々を言っている訳ではない。
俺の記憶にはうっすらとしかないものの、女性を抱いた経験は確実にあるし、そうでなくてもエロいビデオや漫画・ゲーム等で情報は幾らでも仕入れることの出来る時代だった。
だから、俺が言いたいのは俺の知識の中にある『生命体本来の生殖手段』ではなく、この俺にとって600年後の未来社会で、『1:110,721なんて馬鹿げた男女比を実現させている生殖法』のことである。
恐らくは試験管ベイビーとか人工授精とかそういう手法だとは思うのだが……実のところ、精子を持っていかれることばかりが騒がれていて、その辺りの知識は全く仕入れていなかったのだ。
「……え?
……えええええっ?
わ、わたし、も、その、殿方との、経験は、まったく……いや、VR上では通常の一般女性並にはありますが、相手はCPUであって、その……」
そういう訳だから、ユーミカさんが現在想像しているようなことを、俺は彼女に求めたのではなく……いや、別に性的対象として見ることが可能かどうかと問われると、実はこの海上都市の中で最も性的に好みの相手ではあるのだが。
そもそも40代前後だった筈の俺としては、あまり歳が離れ過ぎていても……いや、若い子は若い子で嫌いじゃなかったと思うけれども。
「……違う、そうじゃない」
取り合えず、俺は警護官最年長の彼女に対してそう静かに諭すように告げ……彼女が自分の勘違いに気付くのに、凡そ100秒ほどの時間を要したのだった。