~ 円満退職 ~
BQCOで検索した結果をまとめると、俺が適当に雇ったことに加え、何も考えず海上都市『ペスルーナ』と合併した所為にで、ユーミカさんが仕事を辞めようとするほど追い込まれている、というのは理解出来た。
尤も、彼女自身、警護官は妊娠したら辞めなければならないというルールを、現在の職に就くまで知らなかったようではあるが。
……そうでなければ、年齢制限が迫っている中、わざわざ警護官になろうとはしないだろう。
「……どうしたもんかなぁ?」
まず、彼女が警護官を続けていくのは非常に難しいだろう。
何しろ能力不足である。
俺の記憶にある少年漫画であれば、ここから彼女が奮起して学習し、見下していた同僚を見返す展開が始まるのであるが……40手前で、しかも異業種から入って来たばかりの新人である。
BQCO経由で学習は簡単に出来る時代とは言え、能力とは純粋に「今まで積み上げて来た努力と経験の積層である」と理解している俺としては、むしろ少年漫画みたくわずか数日の特訓で数年間の努力が不意にさせられる展開に納得がいかないというか……歳を取って納得がいかなくなったというか。
──そう言えば、少年漫画を読めなくなったのはいつの頃だったか。
相変わらず全く思い出せないエピソード記憶に溜息を押し殺しながら、俺は内心でそう吐き捨てる。
残念ながら今は懐古に浸る時間ではなく、食友達の進退問題である。
「取りあえず、妊娠させるのは構わないとして……問題は、その後の進退か」
「……良いんですか?」
ふと考えたことをそのまま垂れ流してしまった俺の呟きに、ユーミカさんが驚いた声を上げる。
まぁ、彼女からしてみれば……いや、この時代の女性からしてみれば、精子とは「通貨以上の貴重品」「都市の戦略物質」という位置付けであり、当の市長がこんなにも容易く提供に頷くとは思わなかったのだろう。
だが、俺の常識はまだ「精子なんざ吐いて捨てるほどある上に、勝手に溜まっていく」という21世紀人的な感覚が残っており……そもそも正妻であるリリス嬢から「俺の精子量だと、現在備蓄している分だけで都市人口全員に提供しても十分に余る」という現実的な話を知っている。
「え?
そんなに簡単に?
市長の声ならば当然通るのは事実ですが……」
──そして多分、リリスはこのことを公表してない。
多分、都市運営を考えるとそちらの方が有利だから、だろう。
ユーミカさんの狼狽えた声が、その事実を俺に教えてくれる。
実のところ、精子量のデータは一度漏洩したものの、この時代の男子の平均値から大きく逸脱してしまっているため、彼女の反応を見る限り、どうやら一般市民的には盛り過ぎた数値であると思われているようだった。
「それは、まぁ、良いとして。
ちなみに……警護官が妊娠した場合、どうなるんだ?」
「それは、基本的に解雇されて……えっと?
さ、三年間の育児休暇中に、その、なんとか……」
興味本位で何気なく発した俺の問いに、ユーミカさんは仮想現実にも関わらず瞳を泳がせ額に汗を流し始めた挙句、そんな行き当たりばったりの回答を口にした。
……恐らく、妊娠することが目的で、そこから先を考えていなかったのだろう。
──軽率、と責めるのは酷、なんだろうなぁ。
この時代の女性にとって妊娠出産は選ばれた者の特権に近く、貧民層の女性たちは都市税すら払えず妊娠すら夢のまた夢なのだ。
もしも都市税が払えたとしても、精子提供は都市への貢献順……要するに高額納税者もしくは特殊技能持ちから順番に選ばれていくため、一般人には分の悪い賭けに近いものがある。
だからこそ、そろそろ素のままでは年齢制限に引っかかりそうなユーミカさんは、ギリギリの一発逆転に賭けて警護官になったという経歴だった、筈だ。
──だから、まぁ、そこを人生のゴールに設定してしまうのも、分からなくはないんだが。
それでも……結婚しようが妊娠しようが出産しようが、親が死のうが失業しようが失恋しようが、人生は容赦なく続いて行くのだ。
先のことを考えないと、後で痛い目を見てしまう。
……詳しい記憶には生憎と浮かんで来ないが、その教訓だけは非常に胸に響いているので、恐らくは何らかの実体験から来たものだと思われる。
「確か、上下水関係に詳しかったよな?
現在の従業員数は……ああ、やっぱり足りていない」
共に食事を取る友人未満の相手……相手がどう思っているのかは兎も角、俺としては職場のちょい親しい同僚くらいの相手と思っている女性に対し、少し親切にするくらいの感覚のまま、俺はBQCOで検索をかける。
俺の予想通り……上下水道というインフラ整備の職員は、たったの2名しかおらず、8時間3交代制の人員すら足りていない有様だった。
──この辺り、21世紀も同じだったっけなぁ。
上下水道という、目に見えないインフラを軽視する……「蛇口を捻れば水が飲めるのは当たり前」「トイレを流せば綺麗になるのは当たり前」であり、そこにかかっている労力を想像できないのは、ある意味でインフラがきっちり整備されているからこそ、だろう。
そして残念ながらその見えないものを維持する仕事は非常に人気薄であり、完全コンピューター制御になっているこの未来社会においても、責任者という名の人間の労働者は全く足りておらず……実際のところ、エラーが出ないのを目視で確認し、エラーが出れば補修プログラムを実行する程度の仕事のようだったが、それでもなり手がいない有様である。
BQCOによると、人員が足りていない時間帯は主に正妻が責任者を務めているとか。
そんな慢性的な人手不足に陥っている職場だからこそ、妊娠したユーミカさんを部署転換させるくらい、俺の権限だけで何とでもなりそうだった。
──いや、俺の権限ってのは、何だろうとどうとでもなるんだったか。
訂正、俺の権限で無理やり押し込んでも、大きく組織が歪むことにはなりそうになかった。
「え、えっと?
その……ここまで優遇していただいて、その、構わない、んでしょうか?」
俺の提案に面食らっているのは、当の本人である。
彼女からしてみれば人生の目的とも言うべき妊娠と忠誠とを秤にかけて苦悩していたところ、突如としてその目的とその後の再就職が決まったのだから、ある意味では当然かもしれない。
だけど、まぁ、コネなんて本来そんなものなのだ。
行き詰って困っていて本人にはどうしようもなくなったからこそ、人間関係によって救われる……だから人付き合いを大事にしなければならないという教訓は、チームで仕事をしていれば嫌というほど思い知る経験でもある。
尤も、俺が暮らしていた21世紀だとコネというと「楽して仕事を得る裏道」みたいな扱いをされていたものではあるが。
「まぁ、構わないだろう。
……ざっと見たところ、誰も困らないようだし」
「あ、ありがとうございますっ、市長っ!」
適当な俺の回答に、ユーミカさんは大きく頭を下げてそう叫ぶ。
文字通り人生を賭けた取引が成立したのだから、彼女の行動はそうおかしくないだろう。
……ただ、一つだけ問題があるとしたら。
──そう言えば……この流れって要するに。
──彼女が、俺の精子で、妊娠する、のか?
彼女の去就にばかり意識が向いていた所為で、顔見知りの、言葉を交わしたこともある彼女が妊娠する……しかも自分の精子を用いて妊娠するというその意味に、俺は今さらながら気付いてしまったのだった。