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消えたい女3

作者: jh
掲載日:2021/08/10

 引っ越しをするたびになぜかいつも捨てられなくて、必要になる日は永遠に来ないとわかっていながら、いつまでも側においているものがある。

三十年前の大学入学時の学科の名簿もその一つだ。まだ個人情報なんて言葉もなくて、全員の住所と電話番号、さらには帰省先の住所と電話番号までもが記載されている。現役の大学生の息子に見せたらありえないと一蹴されるだろう。長く生きていると思いがけない形で何かがつながることがある。

 初めて北陸新幹線に乗車して金沢で降りた。仕事をしていた頃に出張で来て以来の金沢。小松空港からバスに乗り、広い窓からどんよりと曇った空と灰色の海とを左手に眺め、日本海には曇天が似合う、と、横に上司がいるのにひとり旅情を満喫したことを思い出す。未来が狭いことを想像さえもしなかった、怖いもの知らずで浅はかだった頃の空気が胸の奥でよみがえり、私は少し驚いている。

スマホの地図を確認したら小松空港から金沢は思っていた以上に遠い。確かに新幹線は便利だ。

 夏の金沢は暑い、ものすごく暑い。東京よりも遥かに気候の厳しい土地だと身に染みる。こういう土地で育って東京に出てくる人に敵わないと感じるのは、ある意味当然なのかもしれない。

ネットで予約した駅からすぐのホテルにキャリーケースを預け、私は菓子折りを手にタクシーに乗って近江町市場に向かった。のどぐろを初めて食べたのは近江町市場の回転すし。世の中にこんなにおいしい回転ずしがある、私は驚嘆の言葉を上げた。まだどうにかそれをかわいいと言ってもらえる年齢だった。せっかく金沢を再訪したのに市場を外すわけにはいかない。それに、お昼過ぎに突然他人の家を訪れて上がり込むつもりでいるのに、食事もすましていないなんてもうこの年齢ではできない。

 市場の前からもう一度タクシーを拾うと運転手さんに目的地の住所を告げた。浅野川を渡り、住宅地に入ると、かなり年季の入った美容院がある。ガラスのドアには「半田美容室」の文字があり、二階には洗濯物が干してある。ここで間違いはない。問題は彼女がいるかどうか…。私はドアを押して中に入った。



 出世した大学の同級生がテレビのニュースに出ていた。それもスキャンダルで。

 都内のドラッグストアの駐車場で、高齢者がブレーキとアクセルを踏み間違え、運転していた車が店舗の壁に衝突する事件が起きた。その直前、駐車場内で他の車と接触したことで運転手がパニックになり、壁に突っ込んだとのことだった。接触した相手の車を運転していたのが、都議に再選されたばかりの半沢美穂。接触事故そのものは小さなものだったが、彼女が免許停止期間中の無免許運転だったかことから、ニュースで大きく取り上げられた。

 彼女は会見で「免停期間が終わったと思っていました、申し訳ありませんでした」と頭を下げたが、議員を辞めるつもりはありませんともはっきり言った。

 この一言から騒ぎが大きくなり、党からは除名処分を受け、辞職勧告に発展、最終的に彼女は辞職願を提出したが、会見もないまま姿を消した。

 彼女は金沢出身だった。父親はなく、母親が美容院をやっていると話してくれたことがある。私は何年も、いや何十年も彼女のことはほとんど何も知らないのに、どういうわけか絶対に実家にいるという確信なようなものがあった。



 美容院の中は壁紙も鏡も昭和にタイムスリップしたようだ。それなのに、置いてある機械は場違いなほど新しい感じがする。おそらく美穂が相当お金を出したのだろう。

「いらっしゃいませ」髪の毛を綺麗に茶色く染めた小柄の年配の女性が戸惑いを隠すような笑顔で声をかけてくれた。目のあたりが美穂に似ている。この年齢でこんな微妙な表情を作れるなんてさすが政治家の母親だと、私の背筋が伸びた。

他にお客さんはいない。

「こんにちは、私、美穂さんの大学時代の友人の田所真紀といいます、もしかして美穂さんこちらにいらっしゃいますか?」

母親の表情が不安で曇った。「田所さん…ですか?」

「はい、田所真紀です」

「少しお待ちください」店内の左手にはレジがあり、その裏に木製のドアがある。美穂の母はドアの奥に消えた。私は鏡に近づいて両手で髪の毛に触れると、元の位置に戻って立っていた。

「真紀」ドアを開いて、Tシャツとショートパンツの美穂が笑顔で現れた。

「美穂」私も彼女の名前を呼んだ。

私たちは思わず両手を広げ抱擁をした。私の方は手土産の紙袋を右手に提げたまま。

「いらっしゃい、よく来てくれたわね、どうして旧姓? 離婚したの?」美穂は嬉しそうに言う。

「違うわよ、旧姓なら私だってわかるでしょう?」

「へえ、…私に会いに来てくれたの?」

「そうよ」

「ここにいると思った?」

「絶対にいると思ったわ」

「どういう自信よ? …それになにそんなにちゃんとメイクしてるの? やめてよ、こっちはこんななのに、そこまでしないと外に出られないわけ?」

「失礼ね、真紀こそダメじゃない、どんな事情があったにせよ免停の期間に車を運転するなんて…」

「それはもう反省してるわ、はい、…まあ、上がってよ」

 ドアの裏はすぐ三和土。私はヒールを脱ぐと用意してもらったスリッパを履いた。

「急だから気を付けて」と言われて階段を上り、リビングに通された。薄い色のフローリングにオレンジのソファ。建物の外観から想像もつかないモダンな室内。リフォームしてそんなに年月が経っていないのだろう。この部屋もきっと美穂の趣味だろう。

「少しだけど」私は持っていた菓子折りを渡した。

「いいのに」

「いいのよ」

「ありがとう、今日来たの?」美穂が訊く。

「そう」私は答える。

「お腹空いてない?」

「大丈夫よ、済ませたわ」

「そう…、じゃあお茶でいい? 熱いのと冷たいのどっち?」

「冷たい方をいただきます」

美穂は冷蔵庫からガラスのポットを取り出すと、透明なグラスに茶色のお茶を静かに注いだ。

「嬉しい、加賀棒茶でしょう?」

「そうよ、どうぞ」

「いただきます」口に含むと喉は涼しさを、鼻腔は香ばしさを感じる。「美味しいわ」私は言った。

「真紀に会うの、いつ以来?」

「最後に会ったのは美穂が選挙に出る前よ、息子の中学受験が終わって私がやっと外に出られた時だから六年前かな? 赤坂のホテルで集まって…、美穂は二次会から来たのにものすごい勢いでお酒飲んでびっくりしたわ、強かったわね」

「ああ、あの時…、お酒はねえ、就職してすぐ水商売をしてたことがあるの?」

「そうなの?」

「うん、仕事のあと平日の週三プラス土曜日、荒木町のスナックで働いてた」

「どうして?」

「だってお金なかったから、給料安くて都内の一人暮らしでは生活できなかった、食べていくため」

「それで就職してしばらく音信不通だったの?」

「そういうこと、誘われても無理よ、お金も暇もなかった」

「そうだったの、知らなかったわ」

「そうでしょう、誰にも言わなかったから、…そのときのママがいいことを言ってくれたのよ」

「何て?」

「水商売に慣れた頃に、何のためにここで働いてるのかって訊かれて、私はお金のためだと答えた、そうしたら言われた、だったらこんなところで時間を切り売りしてもしかたがない、今の会社で一生懸命働いて出世した方が長い目で見たらよほどお金になる、目の前のことが永遠に続くなんて勘違いしたらダメ、これから女でなければできない絶対に仕事が増える、だからとにかく今は会社で人の嫌がる仕事を率先してやり誰よりも多く働きなさい、誰かが見ていてくれる、他の人がやらないことで一番になるのは実はそれほど難しいことじゃない、そこは気がついた人間の勝ちだ…、それが私のスタートだったのかもしれない」

「それはすごい経験だわ」

「ママにはすごく感謝してる」

「今でもお付き合いはあるの?」

「残念ながら音信不通よ」

「そうなの?」

「でも、もしかしたら私のニュース見てくれたかも、有名になっちゃったから私…」

「ごめんなさい、何て返したらいいかわからない」

「いいわよ、好きなこと言って、まあでもとにかく私はママの言葉を信じて水商売を辞めて会社で誰よりも働いた、気がついたら上司に重宝がられていろいろな経験をさせてもらった、それだけよ、自分に能力があるわけではないことはわかっていたつもりよ、大学だって浪人して入って、全然勉強してそうにない真紀より成績悪かったから」

「そんなことないわよ、議員になるなんてすごいことじゃない、とにかく努力したのよ、真紀は」

「ただ運が良かっただけよ、あと何年か早く生まれていたらこうはならなかった、女性をもっと活用しようという流れがあったからそれにのれたのよ、…あとは、こんなこと言ったら炎上しそうだけど、なでしこジャパンと一緒よ」

「どういうこと?」

「2011年になでしこジャパンがワールドカップを制した、あの時の日本チームはたぶん世界一の練習量をこなしてフィジカルの弱さを補えるショートパスでつなぐサッカーをした、いわば戦略の勝利よ、でもその戦略は一回しか使えないの、日本がお手本をしめすことによって世界中のチームがハードな練習をしてショートパスを研究した、結局世界中が同じ土俵に立ってしまったの、そうなったらもうフィジカルが強いチームには敵わない、…私も能力のなさを補うために誰よりも仕事をしたけど、能力で勝る人が同じだけ仕事をしたらもう勝てないの、幸運なことに私の前には私ほど仕事をする女性がいなかった、でも私を見て下の世代は何をすればよいか気づいてしまいすごい競争になった、何年か前だったら私にはチャンスは与えられなかったし、何年か後だったら私ではなくもっとできる人が上に行った、とにかく自分の力でここまで来たわけじゃない、それだけは絶対に忘れないつもりでいた」

「だったら本当にもったいない、私ごときに言われたくないかもしれないけど、初動がまずかったんじゃないの、ごめんなさいして辞職すればよかったと思うわ」

「甘かったと言えばそれまでだけどあそこまで叩かれると思ってなかった、私だって生活はあるし、なにより私が辞めたらうちのスタッフを路頭に迷うことになるの、だから辞職なんて選択肢は最初はなかった」

「気を悪くさせるつもりはないけど、テレビのインタビューでスタッフの人が美穂のことを悪く言ってたわ」

「私がお願いしたのよ、もう守れなくなってしまったから、私のことをかばうようなことは絶対に言うなって、とにかく酷い人間の下で経験を積んだからどんな仕事でもできるって言って次の仕事探してほしいって」

「そうだったの…、もう、どうして免停中に運転なんてしたのよ?」

「私、今ひとりだから…、忙しくて家の中のものがいろいろ切れちゃったのよ、それでまとめ買いをしようと近所のドラッグストアに車で行った、違反する可能性なんてそれこそ絶対にないよく知っている道だったし、慎重に運転したわ、でもまさかあんなことが起こるなんて、運が悪かったって言うとまた怒られそうだけど、今までが運に恵まれ過ぎたからどこかで終わるだろうって予感はあった、…予想よりもだいぶ早かったけどね」

「そんな弱気なこと言わないでよ、だいたい買い物なんてスタッフの人にお願いすればよかったのに」

「そんなことのためにみんなの時間は使えないのよ、…でも心配してくれてありがとう、ねえ、真紀、今日は何て言って出てきたの? 無免許運転の議員に会いに行くって言ったの?」

「言うわけないじゃない! 美穂と同級生だとは家族にも言ってないわ、どこで何がどうつながるかわからないでしょう、私のせいで美穂の居場所がバレるわけにはいかないから」

「真紀は学生の頃から口が堅かったわ」

「そうよ、出直すときは私を雇ってみない? 車の運転もきっと美穂よりは上手だし、何かあったら泥被るわよ、全部私のせいにしていいわ」

「そんな日が来たらいいわね」

「大丈夫よ。まだこれからよ、…ねえ、気づいてた?」

「何が?」

「女って友人が自分より幸せに見えるときは距離を置くくせに、自分より不幸に見えるときは寛容な顔をして近づいてくる、私はその典型でしょう?」

「正直ね、でも不義理をしてる私のところに来てくれたのは真紀だけ」

「だったらまだみんな美穂のことを不幸だと思ってないのよ、美穂だったら自分でなんとかするんじゃないかと思ってる、こんなときくらい頼ればいいのよ、世間は世間、友人は友人よ」

「真紀は…、どうして仕事辞めたの?」

「ちょうど息子が生まれた頃に母が病気になってしまったのよ、父とは離婚していたし私が見るしかなかった、だから辞めるしかなかった」

「そうだったの、知らなかったわ」

「人に言うことでもないでしょう」

「…私、ずっとサッカーが大好きだったのよ、特にアルゼンチンの大ファンだったの、昔のアルゼンチンは審判の見てないところで反則するし、足をかけられてもいないのに自分から倒れて大げさに痛がったり、日本人には真似のできない狡猾に感心してたの…、でも今はビデオ判定が導入されてそういうのができなくなった、人間の目はごまかせるけど機械の目はごまかせない、昔の方がよかったって思うのは古いのかな?」

「古い、古い、時計の針は戻らないし、ビデオ判定がなかった頃のことなんてみんな忘れる、ほとぼりはいつか冷めるわ」

「そう思って夜逃げしたのもあるけど…」

「ねえ、本当に夜逃げなの?」

「そう、正真正銘の夜逃げ」

「それでよかったの? ほかにやり方はなかったの?」

「本当のことを言うとわからなかった、何をやってもうまくいかない気がした、だから姿を消したかった」

「そういうこと…、聞いてよかったわ、じゃあ、私そろそろ失礼します」

「ええ? もっとゆっくりしていっていいのに」

「いえ、お邪魔しました」

「真紀、金沢は初めて?」

「二度目よ、前に来たのは大昔、仕事で来たの」

「へえ」

「冬だったわ、あのとき美穂のことが少しわかった気がした」

「どうして?」

「だって、一日のうちに雪が降って、雨に代わって、晴れ間が差して、雷も鳴る、今の天気が苦痛でも我慢してれば変わるわけでしょう? 美穂の粘り強い性格はこの土地が育んだものだと思ったわ、そう考えるとすぐに辞任すると言わなかったことも李空き出来るような気がする」

「なに、それ? 褒めてるつもり?」

「さあ、どうかしら」

「これからどうするの? まさかもう帰る?」

「帰らないわ…、家族には言わずに出てきたのよ、私も姿を消したかったから、…ああ、かまってほしいアピールじゃないわ」

「何があったの?」

「何もない、…ただ息子も大学生になって、このまま家にいてもしかたがないと思ったからかな」

「贅沢な悩みにしか聞こえないけど」

「私は美穂に憧れるわ」

「頭おかしいわよ」

「それを言ったら私の悩みが贅沢に聞こえる方がよほどどうかしてるわ」

「そういうもの?」

「そういうものよ、じゃあ本当に行くわ」私はソファから立ち上がった。「顔を見て安心したわ、私に心配されてるようではだめよ、しっかりしなさいよ」

「真紀、来てくれてありがとう、車呼ぶわ」

「大丈夫よ、少し外を歩いてみようかな…」

「こんなに暑い中歩いたら溶けるわよ」

「消えたい人間にはちょうどいいわ」

「とにかく、気を付けて、真紀」

「会えてよかったわ、またね」


 外は夏の日差しが差している。

冷房で身体が冷えたおかげで少しは歩けそうな気がするけれど、昼下がりの影は短くて日影になる場所は限られる。日傘も持たずに歩くのは自殺行為だ。その辺でタクシーが見つかればいいけれど、とにかく美穂の家から見える場所にいる間だけは歩こうと、私は歩を進めた。

ああ、ひとつ聞き忘れた! 私は突然思い出す。

女性議員が着るスーツは専門のテーラーがいるの? まさかあんな特殊な色のスーツ、既成品ではないでしょう? それを訊きたかったのに。

次に会う時にはもう覚えていないかもしれない。



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