器用で現実的な大人
器用で現実的な大人
清一
週末に千夏もつれて三人でのんびりスーパーで買い物するのが僕たちの新しい日課になった。旅行に行きたいとか、外で食事したいとか、彼女は言わない。予定より若いうちに結婚してしまったから余裕がないんだけど、だから無理して我慢している、だけじゃない。彼女はただ僕との本当になんでもない小さなひとつひとつのことを心から楽しんでくれている。
「今日は何作る?」
「冷奴」
「それ、料理って言わないよ。せいちゃん」
「暑いから食欲ない」
「東京の蒸し暑さに比べたら仙台なんて天国じゃん」
「ぶー」
「ほら、千夏のほうが元気なくらいだよ」
一緒に買い物に行って、何が食べたいのか聞いてくれる。物をひとつひとつ見ながら、一緒に考える。
「じゃ、そうめん」
「そうめんと何にする?」
さりげなく誘っているけれど、でも、きっと彼女は深いところでは分かっている。普通の子供だったらあったような経験。お母さんと一緒にスーパーへ行って、食べたい物を買ってもらったり、作ってもらったりしたことが、僕はない。
「みょうが」
「それは、おかずじゃなくて、薬味だよ」
彼女はその昔僕が経験できなかったことを、経験させるために、荷物が重いとかなんとか適当な理由をつけて僕を家から引きずり出しているんだ。
「あ、まぐろが安い。まぐろのやまかけが食べたいな。それでいい?」
「うん」
昔、僕たちがまだ大学生でつきあいはじめたばかりの頃、彼女は一度だけ、わたしが僕の母親の代わりになると言ったことがある。母親の代わりになるから、小さい頃お母さんにしてもらいたくてしてもらえなかったことを今からしようって。その言葉はとても重いことばだった。軽々しく口にするような言葉じゃなかった。僕はあの時、戸惑った。なんとなく図々しいとさえ思った。そんなに重大なことを簡単に言ったと。でも、彼女はそれきりそのことばを口にはしないけれど、ずっと忘れていない。なつはあの時、本気でそう思ってくれていて、そして約束してくれてたんだ。
「昔、おばあちゃんが……」
彼女がこっちを見た。
「ただの山芋をおろしたのをかけるんじゃなくて、出汁でのばしたのをかけてた」
「うん」
「あれがおいしかったな」
「じゃあ、それ、作ろう」
彼女は旅行に行きたいとか、外でご飯を食べたいとか言わない。そういうことじゃなくて、ただ一緒にスーパーに言って、夜ごはん何を食べるか相談して、買い物して、一緒に料理して、食べて、寝る。そんな普通の生活で満足してくれている。表面的には本当に何でもない僕たちの生活。でも、それは僕にとっては、本当に特別なものなんだ。
「出汁は、こんぶ?かつお?にぼし?」
「うーん。そこまでは覚えていない」
「じゃあ、合わせ出汁にしちゃおう。こんぶとかつおで」
「たしか、すりこぎで混ぜてた」
「そんなんないよ」
我が家に調理器具がまた一個増えた。帰りの車の中で彼女は言う。
「なんか料理って楽しい。方程式みたい。ひとつひとつの式を覚えると、一定の答えがでるの。数学の方程式より断然こっちのほうが楽しい」
「お前、赤点とってたもんな。一年の頃」
「なんで人の成績についてそこまで細かく覚えてるわけ?わたし自身忘れてたわよ」
「なんでだろう?自分の成績よりなつの成績のほうが鮮明に思い出せる気がする」
「早く忘れちゃいなよ。そんな今の生活に全然必要ない記憶」
「いや、忘れようと思って忘れられるものじゃないんじゃ……」
この人は別にばかじゃないんだけど、興味のあることにしか頭を使わない。だから、勉強はいつも嫌いだった。僕はよく知っている。
「子供が大きくなってきたときにまだそういうこと覚えていられると困るから、それまでに忘れてよ」
「はいはい」
僕たちは家路を急ぐ。
このは
わたしは旅行本の棚にチベットを差した。レジ係しているときに、おばあさんが店に入ってくるのが見えた。またいつものように旅行本の棚にまっすぐ進む。わたしは彼女から見えないように気を付けて様子をうかがう。彼女は棚の前でぴたりと止まった。一瞬、そして、踵を返してさっさと帰っていった。何?何で?手に取りもしなかった。しかも、いつもはもっとだらだらと棚を見まわしたり、他の本を手に取るのに。
「すみません」
「あ、すみません」
レジに人が来ているのに気がつかなかった、と思ったら、
「進藤君」
「どうも」
「腕の具合は?治った?」
彼はにっこり笑って、けがしたところを見せてくれた。
「あざもほとんど消えました」
「そっか。よかった」
それから、彼が持ってきた文庫本に目を落とす。
「ああ、火野先生。好きなの?」
「はい。まぁまぁ」
「今度、このお店に来るよ」
ピッ、バーコードを読み取る。
「え?そうなんですか?」
「うん。仙台出身でしょ。火野先生って。サイン会するんだよ、今度。カバーおつけしますか?」
「はい」
カバーをつけて、しおりをひとつ挟み、ビニール袋に入れる。彼が出した千円札のおつりを渡す。
「日程ちゃんと決まったら案内あげるからさ。おいでよ」
それじゃ、バイバイ。彼は手を振って帰っていく。
***
火野蒼生は、仙台出身の小説家で、デビューしてからまだ10年経ってないが処女作が映画化されたこともあって、新しい作家のわりに有名なほうだと思う。20代後半にデビューしているので、今はたぶん30代後半のはず。2、3作目が出たころに立ち読みして、数ページ読んでみて、自分の好きな文体だったので買って読んだ。それ以来、好きな作家で彼の作品は全部読んでいる。
その作家がサイン会で来る。本人に会える。書店員ってこんなチャンスもあったんだ。書店に就職してよかった。
うちの会社は関連会社に書籍販売のほかに、出版、映画や音楽の製作販売も行っている。出発点は出版で、それからそれぞれの製作販売に多角化した結果だ。その出版社が火野先生を最初に世に出した関係で、今も主な作品はうちから出てるし、サイン会なんかもうち系列の書店で行うことになったと聞いた。
「でも、同郷の作家だとは知ってても、あの映画化された処女作以外、実は読んだことがないのよ」
一之瀬さんが言う。
「正直、わたしにはちょっと若いかな?内容が。でも、店長命令だからもちろん、今回全部一通り読んだけど」
お迎えする先生の作品を、書店員が読んでないなんてことあっちゃいけない。出版社から本社経由でいろいろ注意があったらしい。仙台店の全員、アルバイトに至るまで読まされている。(もっともアルバイトの子がちゃんと読んだかは疑問)みんなぶつぶつ言いながらも、もともとわたしたちは読書家の人が多いので、みなさん十数冊苦も無く読み切ったみたい。
「結局、オリジナルのファンって野中さんだけじゃない?」
「そうなんですかね?」
「どこが好き?つまらないとは思わないけど」
「そうですねぇ」
偉そうに語るほど、の、人物じゃないような気がするんだけど。わたし。
「読んでいてなつかしい感じかする、のかな?」
「なつかしい?」
「自分が子供の頃に思ったり考えたりしていたけど、いつのまにか忘れてしまったようなこととか書いてある気がします」
「でも、出てくるのは大人の人たちだよね」
「うーん。そうなんですけど、なんというか、小説の中の人たちは子供のように純粋に自分の心と向き合ってるけど」
「けど?」
「現実の大人はそんなに真剣に向き合わないじゃないですか。その、疲れるでしょ?」
「うーん」
一之瀬さんは少し考える。彼女はもう30歳を越した大人の女性。まだ 結婚していない。
「たしかにそうね」
「流されるほうが楽だし、実際は大部分の人が大人になると上手に流されるようになって、そして、自分を守ってるんですよね。じゃないと、常に真剣になってしまうと、生きていけないじゃないですか。心が傷だらけになっちゃって」
「うん」
「だけど、小説の中では子供みたいな純粋さのまま、生きていく人たちが出てきて、それは、それでいい」
一之瀬さんは黙った。しばし。
「あのさぁ、野中さん」
わたしは先輩を見た。仕事の先輩。
「あなた、最近何かあった?」
一之瀬さんは心配そうな顔をしていた。
「なんで、ですか?」
「その……、最近週末になると毎週来ていた彼を、見かけないし」
わたしはうつむいた。脳裏にケンタッキーの片隅で幸せそうにわたしを待つかっちゃんの映像が鮮やかに蘇ってしまった。採点が必要なテストとか、読まなきゃいけない参考書とか、まだ慣れなくて自分でいっぱいいっぱいで、彼だって仕事をいっぱい抱えていたけど、少しでも早くわたしの顔がみたくて、わたしのお店の横まで来てしまう。
「すみません……」
ちょっとだけ泣いてしまった。先輩はため息をついた。
「話を聞いてほしければ聞くし、話したくないなら聞かないし……」
「まだ、人に話せるような段階じゃなくって」
「あなたから別れちゃったの?」
わたしは先輩の目をみて、こくりとうなずいた。
「ちょっと自分の気持ちがよくわからなくなっちゃって、本当にこのままずっと一緒にいていいのかどうか……」
「あなたさっき自分で言ってたけど、わたしから見たらあなたもまだまだ小説の中の人たちみたいよ」
「どういうことですか?」
「真剣に自分の心と向き合って、流されていない。だけど、そんなに泣いちゃうくらいなら、流されたっていいじゃない。まだ彼のところは戻れるあなたの場所なんじゃないの?」
流されたから不幸になるわけじゃない。
「真剣に生きるのは小説の中の人たちにお願いして、あなたはもう少し器用になってもいいんじゃないの?器用で現実的な大人に」
「一之瀬さんはどっちですか?」
「何が?」
「器用な大人ですか?」
ふふふと彼女は笑った。
「自分が不器用で、失敗しちゃってこの年なったから、あなたにこんなこと言ってるに決まってるじゃない」
でも、その笑顔はきれいだった。
***
かっちゃんと離れた生活は、思った以上に苦しかった。どうしてこんなことしているのか自分でもわからなくなった。だけど、感じた違和感をそのままに前へ進めない。たしかにわたしは不器用。
「久しぶり」
「……久しぶり」
「元気してる?」
言ってから、ばかげだ質問だと思う。我ながら。
「どうかしたの?」
彼の声はやっぱりよそよそしくなったと思う。2人で最後に話してから二週間くらい経っていた。
「あなたの荷物をどうしたらいいかと思って」
彼は少し黙った。
「着払いで送ってくれればいいよ」
彼は住所を言って、わたしはそれを書き取った。
もう一度、元気にしてる?と聞きそうになった。暑いけど、夏バテしてない?残暑がまだ続いている。
「このは……」
彼がわたしの名前を呼んだ。
「なに?」
声が聞きたくて電話した。彼が着払いなんて言わなければ、会う気でいた。
「なんでもない」
会えばきっと流される気でいた。わたしは。それくらい苦しかった。予想していた以上に。電話が切れて、電気をつけていない暗い部屋でわたしは1人で泣いた。たった二週間電話もせず、会いもしなかった。今までの時間と比べたら、ほんのわずかな時間だった。それなのに、彼の声は確実に遠くなっていた。
自分が愚かだと思った。別れるってこういうことじゃないか。彼はもう自分のものではなくなる。それなのに、今でも自分に優しくしてくれると無意識に思ってる。会いたいときに会ってくれると思ってる。心も体も彼を覚えている。忘れられない。
まだかろうじてわたしの場所は残っているんだろうか?わたしが謝って、もう一度やり直そうと言ったら……