同じ方向を見て歩けない
同じ方向を見て歩けない
このは
金曜日の夜、仕事が終わって家へ帰る。車を停めておりると、二階の自分の部屋に電気がついているのが見える。何の約束もしてなくても、何か用があっていけないと連絡がない限り、彼は仕事が終わるとまっすぐわたしの家に来る。わたしはばたんと車のドアをしめて、ロックする。家に向かって階段を上る。
今週も来た。ということは、とんとんとん上りながら考える。やっぱりあれはあの電話はたちの悪いいたずらだったんじゃないかな?
「ただいま」
「おかえり」
かっちゃんがビール飲みながらテレビを見ている。部屋におきっぱなしのハーフパンツとTシャツを着ていた。いつもの光景。
「ごはん食べた?」
「まだ」
わたしは何か簡単に作ろうと冷蔵庫を開ける。今からだとごはんたくのも時間かかるし、麺とかになっちゃうかな、やっぱり。
「そうめんゆでたら、食べる?」
「うん」
彼はテレビを見たままで答える。わたしは湯を沸かしている横で、ネギを刻んで生姜をする。沸騰したらそうめんを何束か入れた。テレビの前のちっちゃいちゃぶ台に食事を並べながら、当たり前のようにそこにいて寛いでいる彼を見て、心が痛んだ。わたしが何も言いださなければ、きっと2人はこのままゆっくりと進んでいく。いくのに。無重力空間を慣性の法則で進み続ける宇宙船みたいに。
わたしは座って箸をとる。彼は両手を合わせていただきますと言って軽く頭を下げる。教師になる人だけあって、ポイントポイントで彼は育ちがいい。
長く一緒にいすぎたと思う。それにわたしたちは、2人ともお互いが初めての相手で、だから2人で一緒に子供から大人になった。わたしたちはお互いに両方の顔を知っていて、覚えている。子供の顔と、
「このは、どうしたの?食べないの?」
大人の顔を。
「……」
食事が終わってからにしたほうがいいのかな、こういう話は。でも、わたし、一口ものどを通らなさそう。
「変な電話がかかってきて」
「変な電話?」
わたしはうなずいた。
「携帯に」
彼は箸を止めてわたしをじっとみている。ついたままのテレビの音をちょっと2人で聞く。
「あなたが、この前、同窓会の日の夜に浮気したって」
彼の目を見てわかった。急に顔つきが変わったから。ああ、なんだやっぱり……
「誰から?」
「知らない人」
本当なんだ、これ。
「そんなの信じるなよ。根も葉もない話だよ」
「真っ赤な嘘?」
「でたらめだよ」
つまり、本当だとしてもそういうってことは、
「信じてくれるよね」
この人は、その誰かと続けたいんじゃなくて、わたしと続けたいってことでいいのかな?
「……」
「このは」
わたしの名前を呼びながら、食べかけの食卓をそのままに彼はわたしににじりよって、わたしを抱きしめた。
「本当は、さ」
抱きしめられたまま、お互いの顔が見えない状態でわたしは話す。彼の目を見ずに。
「なんかあったんじゃないの?そういうこと」
「ないよ。そんなことなにもない」
そして、彼はわたしを抱こうとした。
「ねぇ、かっちゃん。やめて」
「なんで?」
「今日は帰ってください」
「なんで?信じてくれないの?」
そういって、わたしの目をのぞきこむ。さっきまで安心してくつろいでいた目。それが今、必死な目。崖から落とされそうになっている人が、助けてとすがりつくような。
その目を見て再確認する。そうこの人は本当は、わたしが大好きなんだ。昔こんな同じような必死な目で、わたしにつきあってほしいって言った。
だめと言ってもわたしを抱きしめて、彼はキスをしようとした。今まで何度もしてきたみたいに。
「ねえ、かっちゃん。やめて。本当に」
彼はそっと体を離して、ちょっと離れたところに座った。
「帰りたくない」
このまま、許せばきっと、今日も彼を家に泊めてあげれば、このまま続くだろう。
「ねぇ、かっちゃん」
でも、わたしは話し出していた。もう1人の自分が、勝手に口を動かしたみたいだった。
「あなたが浮気をしたかどうかだけじゃなくて……」
彼の顔をわたしはその時、まっすぐに見ていた。後から思った。顔を見ずに話せたら、電話か何かで。だって彼の傷ついた顔は、その様子は、
「最近、あなたとのこと、よくわからなくなってきてたの」
その後ずっとわたしの脳裏に刻み付けられて、わたしを苦しめることになったから。
「だから、しばらく距離をおかない?わたしたち」
ずっと信頼しあってきた絆のある人をわたしは、自分の手で傷つけた。怖くてずっとできなかった。
「冗談でしょ?だって、ほんのちょっと前までずっと、前と変わらず俺たちうまくいってたじゃない」
涙が出た。もうこれ以上何も言いたくない。
「俺の気持ちは、何もずっと変わってないよ」
「でも、浮気はしたんじゃないの?」
何を言っても彼を傷つけるだけだから、何も言いたくない。
「そんなの、してない」
もしも、あの時、彼が本当のことを言ったら、何か違っただろうかと後から思った。でも、たぶん変わらなかったと思う。
「ごめん。かっちゃん。ごめん」
浮気はただのきっかけ。
「わたし、あなたとは、結婚できない」
自分を偽って、このまま彼の横にいつづけることはできないって、あの頃はまだ、自分の心の中を整理できていなかったけど、わかってた。大好きな人。あなたと人生の一部分を共に過ごすことはできる。それはすばらしい時間でした。でも、一生という時間をあなたと過ごすことはできません。
「ごめんなさい」
嫌いになったわけじゃない、たくさんの時間をさまざまな場所でともに過ごした男の人を、家の外に追い出すのは、ほんとうに苦しかった。自分の車に乗る前に彼はポケットから、わたしの部屋のかぎを取り出した。
「これは、話し合ってちゃんと結論が出るまで持っていてもいい?」
わたしは答えられなかった。
「それとも、俺にとっては突然すぎてなにがなんだかわからないんだけど、このはにとっては、もう揺るがない結論なの?俺と……」
目を閉じた。次のことばを聞きたくない。
「結婚できないっていうのは」
そして、言いたくない。何も。
「こんなに長く一緒にいて、こんなに簡単なの?終わる時って」
ただ泣いてるだけじゃいけないって、本当はわかってるんだけど。
「なにか言ってほしい。時間をもう少しおいて」
かっちゃんの声が震えだして、彼も泣いているのがわかった。
「君が落ち着くのを待って、僕がもっと努力したら、僕にはまだチャンスがあるの?」
「ごめんなさい、あなたが……」
夜の生温かい空気を吸い込んだ。
「あなたが悪いんじゃない。でも、2人は、これから生きていく時に向いている方向が違うんだと思うの」
お互い泣きながら見つめ合った。
「わたしはあなたと同じ方向を見て歩くことがもうできないの」
あなたのことを嫌いになったわけじゃない、でも、
「自分に嘘をついて、あなたと一緒にはいられない」
彼は鍵をそっとわたしの手のひらの上において、背中を見せて、車に乗った。彼の車が見えなくなるまで、わたしは立ちつくした。