捨て猫とホットミルク 1
「いーろーはー! いるのか? いろはー!」
屋上の重いドアが開いた途端、ゲンちゃんが叫び出す。
「うっさいなぁ……もう」
部屋で勉強していたあたしは、シャーペンを数学のノートの上に置いて耳を澄ました。やがて玄関を乱暴に開く音がして、どすどすとゲンちゃんの足音が近づいてくる。
あー、これはなんか怒ってるな、ゲンちゃん。
「開けるぞ! 彩葉!」
あたしの返事を聞かないうちに、ゲンちゃんはふすまを勢いよく開いた。
「なんなの? 勉強中なんですけど?」
あたしは本当に勉強中だった。もうすぐ学年最後の定期テストがある。こんな家庭環境でも、テスト前は真面目に勉強するいい子なんだ、あたしは。
だけどゲンちゃんは、そんなのおかまいなしに怒鳴ってくる。なぜか片手に小さめの段ボール箱を抱え、片手にスマホを握りしめて。
「おいっ、今お前の担任から電話があったぞ! なんとか面談の希望日を教えてくれって!」
「ああ、三者面談かぁ……」
あたしはまだプリントを、ゲンちゃんに渡せずにいた。さすがに待ちきれなくなった先生が、いちおうあたしの保護者であるゲンちゃんに連絡を入れたのだろう。
「なんで俺に黙ってたんだよ!」
「いいよ、ゲンちゃん来なくても。めんどくさいでしょ? それにあたしの進路はもう決めてるから」
「もう決めてるって……どうするつもりだよ?」
ゲンちゃんが部屋の入口で立ち止まり、眉をひそめる。
「中学卒業したら就職してこの家出る」
「は?」
ゲンちゃんが口をぽかんと開けて固まった。
「お前……中卒で働く気?」
「そうだよ。だって高校行くのってお金かかるでしょ? 仕事見つけてあたしはこの家出るから。だからゲンちゃんは心配しないで……」
そこまで言ったあたしの前にゲンちゃんが歩み寄り、机の上に広げたノートをばんっと強く手のひらで叩いた。シャーペンがころっと転がり、畳の上に落ちる。
「ダメだ! お前は大学まで行け!」
ゲンちゃんの命令口調に、あたしはちょっとムカついた。
「なんでゲンちゃんがそんなこと決めるのよ!」
「だったらお前も勝手にこの家出るとか決めんな!」
「いいじゃん、あたしの進路なんだから! ゲンちゃんだってあたしがいないほうが、お金に困らなくていいでしょ!」
ゲンちゃんが黙った。あたしのことをにらみつけて。あたしもぎゅっと唇を結んで、精一杯悪い目つきを作ってゲンちゃんをにらむ。
そのときあたしの耳に、小さくてか弱い声が聞こえた。
「みぃ……」
「え?」
あたしは目を見開いて周りを見回す。いまなんか声しなかった?
「み……みぃ……」
「へ? なに?」
ゲンちゃんの持っている箱がカタカタと揺れる。
「ゲンちゃん! それなに?」
あたしは飛びつくようにして、ゲンちゃんの腕から小さな段ボール箱をひったくった。そして閉まっていた蓋を開く。
「みー、みー」
「ぎゃー、子猫!」
悲鳴のような声を上げ、あたしは箱の中をのぞき込む。中にいたのはちょっと薄汚れた、小さな小さな子猫だった。
「ど、どうしたの、この猫。かわいー、ぎゃー、かわいすぎるっ」
あまりのキュートさにあたしは我を忘れる。
「拾ったんだよ、コンビニの裏で」
ゲンちゃんはあきれたようにあたしを見下ろしながら、そう答えた。
「うそっ、こんな絵に描いたような捨て猫っているの? あれ、漫画の中だけの話じゃないの?まだ赤ちゃんじゃん。かわいー!」
あたしはそっと手を入れて、子猫を抱き上げた。あたしの手の中で小さな猫は「みぃ、みぃ」とか弱い声で鳴いている。毛並みは泥で汚れていて、細い体にぺっとりと張り付いていた。
「ゲンちゃん、この子お腹すいてるんじゃない? なにかご飯買ってきた?」
「ねーよ、そんなの。牛乳でもやっとけばいいだろ?」
「人間の牛乳じゃダメだよ。猫用じゃなきゃ」
「そんなのあるのか? めんどくせーな」
「めんどくさいとか言わないでよ。自分で拾ってきたくせに」
そう言ってから、あたしはふっと息を止める。そうだ、あたしもこうやって気まぐれに、ゲンちゃんに拾われてきたのかもしれない。あの雪の降っていた夜に。
「人間のでいいだろ。たしか冷蔵庫に……」
ゲンちゃんの声にはっとして、台所へ行こうとするその腕をつかむ。
「ダメダメ。ちゃんと猫用のを買おうよ。キャットフードも食べられるのかな? それにトイレも用意しなきゃ。ねぇ、スマホで調べてよ。子猫を飼うのに必要なもの」
あたしはスマホを持っていない。中学に入ってクラスのほとんどの子が持ち始めたけど、あたしは「欲しい」なんて言えない。
「えー、めんどくせぇなぁ」
ぐずぐずしているゲンちゃんをせかして、ネットで必要なものを検索する。けっこういろんなものがいるんだな。なにかを育てるのは、やっぱりお金がかかる。
「ナナに頼んで買ってきてもらお」
ゲンちゃんはスマホにメモした買い物リストを、ナナちゃんにメッセージで送りつけている。
「もうー、なんでもナナちゃんに頼るのやめなよ。ゲンちゃんが拾ってきたんだから、ちゃんと責任もって育ててよね」
「金はあとで払う」
「金さえ払えばいいってもんじゃないでしょ」
「それよりそいつ臭くね? 風呂いれよーぜ」
「えっ……」
ゲンちゃんがあたしの手から、片手でひょいっと子猫を持ち上げる。そして猫を連れてお風呂場のほうへ歩いていく。
「ちょっ、乱暴にしないでよ! やさしくしてあげてよ!」
「わかってるって。お前はいちいちうるさい」
ゲンちゃんの背中を見つめながら、あたしはその場に立ち止まる。
そういえばあの夜も……あたしはこの家に来てすぐ、お風呂に入ったんだっけ。
「やーん、超かわいいじゃなーい!」
猫グッズを大量に買って帰ってきたナナちゃんは、お風呂に入りドライヤーで乾かして、ふわふわな毛並みになった子猫を見て頬をゆるめる。
「ねっ、超かわいいよね、この子。最初見たときは汚れててわかんなかったけど、毛は真っ白だったんだぁ」
「ミルクあげてみる?」
「うん!」
「名前もつけなきゃね。いろちゃん、なんて名前にしようか?」
テレビのある部屋で、ナナちゃんと子猫を囲んでいたら、台所から不満そうな声が漏れた。
「その猫拾ってきたの、俺なんだけど」
テーブルに頬杖をつき、ゲンちゃんはじとっとあたしたちを見ている。ナナちゃんはバッグから一枚の紙を取り出し、そんなゲンちゃんに突き付ける。
「ああ、そっか。ゲンちゃんの猫だったね。じゃこれ、領収書。立て替えておいたから、ちゃんと払ってよ」
「は? なんだこれ。お前、こんなに使ったのかよ。こんなチビ猫に」
「最初なんだからしょうがないでしょ? あっ、ミルク飲んでる。かわいー!」
小さな猫はお皿に入れたミルクを、ひとりで上手に飲んでくれた。あたしはホッとしながらまた頭の中で思い浮かべる。
初めてここに来た夜、ゲンちゃんが作ってくれたホットミルクを。
「飲めば?」
あの雪の日。アパートであたしを拾ったゲンちゃんは、あたしがあったかいお風呂から出ると、ホットミルクを差し出した。
あたしの濡れてしまった服は洗濯機の中でぐるぐる回っていて、部屋にその音が響いていた。あたしはゲンちゃんのだぼだぼの服を借り、台所の椅子に座らされた。いまでは当たり前に座っている椅子が高くて、あたしの足は宙にぶらぶらと揺れていた。
「毒なんか入ってないから、飲みな」
あたしはまだゲンちゃんのことを警戒していたけど、ゲンちゃんがマグカップを勧めてくるから仕方なく両手で持って口につけた。
「あ……」
甘い味が口の中にじわっと沁みこむ。ごくんと飲んだらお腹の中が、ふんわりとあたたかくなった。
「おいしい……」
あたしの向かい側に腰掛けたゲンちゃんは、何も言わないままほんの少し頬をゆるめた。
足元では電気ストーブが小さくうなっていて、窓の外には音もなく雪が降り続いていた。
あたしはあの日の甘い匂いも、あたたかい空気も、あたしを見つめるゲンちゃんのやわらかい視線も、ぜんぶ心の中で覚えている。
「はぁ……」
あたしは机の上のノートを見下ろしたまま、小さく息をはく。時計の針は十二時を過ぎた。もうそろそろ寝なくちゃ。
勉強道具を片付けながら、机の引き出しから一枚のプリントを取り出す。結局さっきは子猫のせいでうやむやになってしまった三者面談のお知らせ。またゲンちゃんに言われたら、なんて言おう。もう忘れちゃってればいいのにな。
プリントを持ったまま、椅子を回して後ろを向く。立ち上がって毛布の敷かれた箱の中をのぞくと、そこにいるはずの子猫がいなくなっていた。
「あれ?」
ナナちゃんがペットショップで猫用のかわいいベッドを買ってきてくれたけど、どうしても猫はそこへ行かず、結局最初にいた段ボール箱で眠っていたのに。
周りを見回すと、隣の部屋に続くふすまが細く開いていた。
「脱走したのかな……」
あたしは細い隙間から隣をのぞく。部屋の電気は消えていて、あたしの部屋の灯りがほのかに差し込んでいる。窓際の布団ではナナちゃんが眠っていて、手前の布団にはゲンちゃんがくるまっていた。するとその布団がごそごそと動き、低い声があたしの耳に響いた。
「猫ならここにいるよ」
「あ……」
薄闇の中、ゲンちゃんがちらっと掛布団を上げた。ゲンちゃんの体に寄り添って、安心しきったように眠る子猫の姿が見える。
その様子を見たら、なんだか懐かしいような寂しいような、何とも言えないもやもやが湧き上がってきた。
「いろは」
猫に布団をかぶせたゲンちゃんが、暗闇の中であたしの名前を呼ぶ。あたしはなぜか泣きたい気持ちになる。
ゲンちゃんはそんなあたしの前で猫のいないほうの布団を開き、ぽんぽんっと自分の隣を叩いた。
「一緒に寝る? お前も」
ゲンちゃんがどんな顔をしてそう言ったのかはわからない。きっとあたしをからかうように、にやにや笑っていたんだろうと思うけど……でもあたしの顔は、インフルエンザで熱を出したときくらい熱くなっていた。
「ば、バカっ! 変態! エロおやじ!」
あたしは手に持っていたプリントをぐしゃぐしゃに丸めて、ゲンちゃんの顔めがけて投げつける。
「いってぇ……暴力反対」
「うっさい! だまれっ!」
「うーん、なんなの? 騒がしいわねぇ……」
ナナちゃんが地声でうなりながら寝返りを打つ。あたしは思いっきりベーっと舌を出して、ふすまをぺしんっと閉めた。
「なんなのよ、あのおっさん」
明るい部屋に戻りぶつぶつ言いながら、ふと思う。
でもあたし、去年まではゲンちゃんたちと一緒に寝てたんだよね。二枚しかなかった布団に三人でごろごろ転がって。あのころは何にも感じなかったけど、ゲンちゃんから突然言われたんだ。新しい布団買ってやったから、明日からは向こうの部屋にひとりで寝ろって。
あたしは部屋に布団を敷いて、電気を消してもぐりこんだ。あたたかいはずの毛布がひんやりと冷たくて、あたしはそれに気づかないふりをして目を閉じる。
だけどやっぱり思い出すのは、初めてここに来た夜のこと。
そういえばあのころ、まだナナちゃんはいなかった。あたしがすがりつけるのは、ゲンちゃんしかいなかった。
あたしはママに会えなかった寂しさを忘れたくて、ゲンちゃんの布団の中で強く目を閉じた。そして誰かのぬくもりを求めて、あの猫みたいにゲンちゃんに寄り添って眠ったんだ。