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甘口カレーライス 1

「うーん……」

 あたしはさっきからずっと、一枚の紙きれをにらみつけている。

 穴が開くほどにらみつけても何の解決にもならないって、中学生になったあたしはわかっているけれど。

「いろちゃん? なにへんな顔してるの?」

 廊下に出てきた隣のクラスの江田(えだ)風花(ふうか)が、あたしの持っている紙をのぞきこむ。

 肩のあたりで切り揃えられた風花の髪は、ふんわりと柔らかそうな栗色だ。夏に短く切ってから中途半端に伸びただけの、あたしの真っ黒な髪とは全然違う。

「三者面談のお知らせ?」

 風花がプリントに書かれた文字を確認し、首をかしげながらあたしを見上げる。

 風花はあたしよりだいぶ背が低い。中学に入ってにょきにょき伸びたあたしは、背の順で並ぶと後ろのほうで、風花は小学生のころからずっと一番前か二番目だ。

 あたしはそんな風花に向かって、ちょっと大げさにため息をつく。

「んー、これどうしよう。あたしと先生だけで話すんじゃダメなのかな?」

「三者って書いてあるからねぇ……お父さんかお母さんが来ないとダメなんじゃないの?」

 風花がいつものように、日なたでお昼寝したくなるような、のんびりとした口調で言う。


「でもうち、お父さんもお母さんもいないしさ」

「ゲンちゃんに来てもらえばいいじゃん。あのカッコいい叔父さん」

 ふわっと微笑んだ風花が、昇降口に向かって歩き出す。あたしは速足で風花を追いかけ、隣に並ぶ。すれ違った同じクラスの子に「ばいばい、いろちゃん」と声をかけられ、「ばいばい」と手を振ってから早口で風花に言った。

「は? ゲンちゃんのどこがカッコいいのよ?」

 風花は自分のクラスの靴箱の前で立ち止まり、ゆっくりとしたしぐさで靴を取り出す。そしてくすっと笑って答えた。

「カッコいいよ。なんかよくわかんないけど、アーティストっぽいし。それに若いじゃん。二十八歳だっけ? うちのお父さんなんて、ハゲでお腹出ててサイアクだよぉ。絶対学校なんか来てほしくない」

「あたしだってゲンちゃんになんか来てほしくないよ。成績のこととか進路のこととか、あの人にわかるわけないもん」

 あたしも自分の靴箱から靴を出し、床の上に放り投げる。白いスニーカーが埃を上げて跳ね、片方裏返ってしまった。あー、サイアク。

「まぁゲンちゃんが来てくれるわけないけどさ。きっと『めんどくせぇ』って言うに決まってる」

「そんなことないよぉ。小学校の授業参観だって来てくれたじゃん。ナナちゃんと一緒に」

「ぎゃー、はずかし。思い出したくない」

 あたしは頭を抱えて首を振る。

「運動会と卒業式も来てくれたよね。ナナちゃんとふたり、やたら目立ってたけど。でもきっとゲンちゃんはいろちゃんのこと、かわいくてしょうがないんだよ」

 風花が靴を履きながら、くすくす笑っている。あたしはちょっと心臓のまわりがむずむずして、持っていたプリントをポケットの中につっこむ。そして片足を伸ばし、逆さの靴をひょいっとひっくり返した。


 あたし――野々山(ののやま)彩葉(いろは)の家庭環境はフクザツだ。

 まずお父さんはどこの誰だかわからない。ママにもわからなかったみたいで、結婚しないであたしを産んだ。だけどあたしを育てるのがめんどくさくなったらしく、子どもを放置。

 あたしはどこで何をしているのかわからないママの帰りを、寒くて真っ暗な部屋の中、いつもひとりで待っていた。

 いま思えば、これって立派な児童虐待ってやつだと思う。通報してやればよかった。ていうか、虐待されてる子どもが自分で通報するのって、アリなのかな?

 そして小学一年生の冬。学校から帰ってきたあたしはアパートの部屋に入ろうとして、鍵を失くしたことに気がついた。困ったけどどうしたらいいのかわからない。あたしはランドセルを抱えて二階のドアの前に座り込み、ママが帰ってくるのをひたすら待った。

 今日みたいな、すごく寒い日だった。空は濃い灰色で、日が暮れると白い雪がちらちらと舞いはじめた。今夜は雪が降るかもしれないと、学校で先生が言っていたのを思い出す。クラスの男の子たちは、雪が積もったら明日雪合戦しようぜってはしゃいでいたけど、あたしはその日の天気を恨んだ。

 はぁっと白い息をはきながら、しんしんと降り続く雪を見ていた。ランドセルをお腹に抱きしめて、何回もはぁっと息をはいた。あたたかい息が集まってあたしの周りもあったかくなるかと思ったけど、どんどん冷えていくばかりだった。

 夜になり、アパートの前の道路が真っ白くなっても、ママは帰ってこなかった。


「なにやってんだ?」

 どのくらい時間がたっただろう。あたしの手も足も感覚がなくなって、頭もぼうっとしてきたころ、頭の上から低い声がした。

「ママは? いねぇの?」

 あたしは息を止め、ひざをぎゅっと抱えて顔を上げる。あたしの真上にあるドアノブを、男の人がガチャガチャと乱暴に回している。

「いねぇのかよ」

 そうつぶやくと、あたしの前にその人がしゃがみ込んだ。ちょっと癖のある長めの黒い髪。やせ気味で目つきのあんまりよくない、でも見たことのある人だった。

「お前いつからここにいたの?」

 あたしは声が出せなかった。声どころか、息も止めたままだった。

 目の前の人があたしの冷たいほっぺをぺちぺちと叩いた。あたしはきつく目を閉じる。

 男の人にこんなことをされるのは、はじめてだ。あたしにはお父さんがいないし、ママには何人もの彼氏がいたけど、うちに連れてくることはなかったから。

「お前さ。俺んちくれば?」

 あたしはびくっと背中を震わせ目を開けた。するとその人が手を伸ばし、あたしの赤いランドセルをひったくり自分の肩にかけた。そしてもう一度、大きな手をあたしに伸ばした。


「きゃっ……」

 凍りついた口から小さな悲鳴が漏れる。絶対動きたくなかったのに、あたしは腕をつかまれ簡単にその場に立たされた。その瞬間、スカートの中の太ももに生ぬるいものが伝わった。それはみるみるうちに足元に流れ、小さな水たまりを作った。

「あ……」

 恥ずかしくて情けなくて泣きたくなったけど、寒すぎて涙も出なかった。

 男の人はあたしの足元をじっと見つめたあと、黙って自分の着ていた黒いダウンジャケットを脱いだ。そしてそれをあたしに着せ、「よっ」と小さく気合を入れて、ぶかぶかのジャケットごと抱き上げた。

「かっるいなー、お前。ちゃんと飯食ってる?」

 あたしの顔のすぐそばで、その人が言った。

「で、お前の名前なんだっけ?」

 あたしは震えながら、か細い声を出す。

「ののやま……いろは」

「ああ、そんな名前だったな。俺は野々山(ののやま)(げん)。お前のママの弟だよ」

 ママの、弟……だから見たことあったのか。

 かすかな記憶だけど、おじいちゃんのお葬式のときに、ママとこの人がしゃべっていたような気がする。


 ママの弟がにっと白い歯を見せた。そしてあたしを抱っこしたまま片手で自分のマフラーをはずして、あたしの首にぐるぐる巻きつけた。ちょっとタバコ臭いマフラーに、あたしの赤くなったほっぺも鼻も包み込まれる。

「帰るぞ」

 どこに帰るんだろう。あたしのうちはここなのに。ママを待ってなきゃいけないのに。それにあたし……おしっこもらしちゃったのに……。

 ママの弟があたしを抱いて階段を下り、アパートの前の道路に出た。あたりは見たことのないくらい真っ白になっていて、街灯の灯りに雪がキラキラと照らされていた。

 ママの弟はジャケットについていたでっかいフードをあたしにかぶせ、雪の道をさくさくと歩きながら言う。

「眠かったら寝てな。ガキはもう眠ってる時間だ」

 あたしはその人の肩のあたりに顔をうずめて、言うとおりに目を閉じる。

 どこに連れていかれるのかわからないのに。あたしを誘拐する悪い人かもしれないのに。

 だけど顔を覆ったマフラーも、くっつき合った胸も、背中をぽんぽんっと叩いてくれる手も、全部あったかくて……あたしはそのまま目を閉じた。


 それがあたしとゲンちゃんの出会い。あたしはもうすぐ七歳になる痩せたチビで、ゲンちゃんは仕事をクビになったばかりの二十二歳だった。

 その日から六年間、あたしはゲンちゃんと暮らしている。

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