9 最後の演奏
その日、『ルシーク』に久野はいた。
いつもの開店時刻であるのに、側に他の従業員の姿はない。なんのことはない、木曜日の今日は『ルシーク』の定休日なのだ。
遡ること数時間前、マスターからの着信を受け、急遽久野は定休日の店にいるのだった。
慌てふためいている彼の姿を思い出し、久野は荷を持ち上げながら少し口元を緩めた。
酒類の仕入れ業者のミスで、定休日の今日に荷物が届くことになってしまったらしい。休日をエンジョイしていた店長は出先の為、すぐには戻れない。
久野の身近で、声だけでこれほど電話の向こうの表情が想像できる人物はいないだろう。
『どうしよう~!!』と嘆くマスターに、スペアキーを持たされていた久野は二つ返事で頷いたというわけだ。
外はまだ雨が降り続いていた。久野の耳に届く音はほんの微かなものだ。
規則的な雨音は心地よくもあり、ひと気のない店内の静けさも相俟って独特の雰囲気を醸し出していた。
人の熱気と喧噪の残り香はあれど、ただそれだけで。この空っぽの風景は少し寂しげにも感じられる。
届いた荷をすべてストックルームに運び終えた久野が息をついた時だった。
突然、店の扉を控えめに叩く音がした。
「?」
「すみません」
扉を開けた先にいたのは音彦だった。眉をひそめていた久野の眼が見開かれる。
「沢木さん?」
「灯りが見えたので、どなたかがいらっしゃるのかと……」
夜闇と、雨に濡れたコンクリートを照らす店の灯り。狭間に音彦は佇んでいた。
俯いてしまった為、背丈のある久野から音彦の表情を読み取ることは難しい。
足元が雨に濡れていることを見止め、久野は軽く周囲を確認するにとどめると、特に何も言わず音彦の手を引いて中へと招き入れた。
瞬間、身体を固くした音彦を訝し気に思ったが、そのままカウンター席へ通すと、久野は一端奥の棚へと身を屈めた。
「上着、掛けましょう。それから右手、処置しますね」
目の前に消毒液などの治療薬が置かれ、音彦の頭にはタオルが掛けられた。
気付いていたのだ、久野は。結界に無理矢理干渉した際に負った傷は掌の表面を切り裂き、皮膚を焼いていた。
直後は何とも感じなかった筈であるのに、現状を理解する道なりに、それは少しずつズキズキと広がりを見せていた。
(どうでもいい)
と、音彦は思っていた。痛みはまるで今の自身を戒めているようで、受け入れたくもあったのかもしれない。だが……。
(ここに来た今は……どうなのだろう)
自問する。
「手、広げてください」
音彦と向かい合う形でスツールに腰かけた久野は、テキパキと音彦の掌を処置し始めた。
骨ばった手の甲と長い指が無駄なく繊細に動いている。音彦自身、指が長く演奏者の手をしているが、同じ男であるのに全く種類が違う。
(大きな手だな……)
音彦はぼんやりとその動作を眺めていた。
「……」
(一体何をしているのだろうか、僕は)
あの後榊家を後にした、その足が向かったのは大学でも家でも無く、『ルシーク』だった。
どうしてここに来てしまったのだろうと、幾分冷えた頭で考えてはみても、未だ音彦は自身の気持ちを測りかねていた。
治療を続けている久野の手を見続けることしか出来ない自分自身。
久野の顔を直視することは出来なかった。手持無沙汰に、もう片方の手で頭の上にかかるタオルを抜き取る。
店内は雨の音と、治療をする微かな音だけが聞こえていた。
「ここが好きで、ここでの時間が、楽しくて……」
沈黙が続いた、暫くの後。結局、口から出たのは酷く子供じみた言葉だった。だがそれは紛れもなく音彦の本心だった。掴みきれない心の中で探した、精一杯の答えを口にしたのだ。
週に2回の『ルシーク』での時間。ここでピアノを弾くことが楽しかった。その時間だけは、榊家での忌々しい枷から解放され、一時でも現状を忘れられたのだ。
久野やマスター、常連客達。時折交わす言葉にも幾度となく救われていた。
このひと月の間に起きた様々なこと。渦中にいる音彦自身、未だに夢ではないかと思う程の出来事が折り重なる中で、この場所は唯一の『現実』だった。
(それなのに……)
「こんなことをして、申し訳ないです」
明日の金曜はバイトの最終日だったというのに、きっと鍵盤に手を載せることが出来ない。
(でも判っているじゃないか、もう。決めたのだから)
『だから、今ここに来たのだから』
ここに居たいと心が渇望する。だが、駄目なのだ。唯一の場所も。
(きっともう、ここへは戻れない)
唇が震える。
久野は音彦を見かけた時も、店に入ってからも何も問うことはなかった。当たり前であるかのように、ただ音彦を受け入れ、怪我にも気付き治療を施してくれた。
もの言わぬ、その様を。
誰かの存在は時にこんなにも辛く、重く圧し掛かるものなのか。
厚意とは時に、こんなにも人に、葛藤を抱かせるものなのか。
(貴方は言わせてくれない)
(言いたいのに)
『何を?』
(全部)
「……言えたらっ……」
(言えたら楽なのに)
(僕は弱者で。こんなのはそうだ。不安とか弱音とか、己の弱さ全部を、何も言うことを許さない強者の……)
顔を上げる。
すると久野は、音彦を見ていた。
「……え?」
眼が合ったと感じた時、ぽんと軽く音彦の髪に久野の手が一瞬触れたのだった。
そのことで音彦はやっと自身の状態に気づくことが出来た。眼鏡を掛けたままにも拘わらず、慌てて手の甲で眼を拭う。自覚した途端、堰を切ったように溢れ出ようとする涙を、音彦は何度も拭った。
「涙には、浄化作用があるらしい」
久野の静かな声音が音彦の耳に響いた。泣けばいいと、言われた気がしたのだ。大丈夫だと、言われた気がしたのだ。
肯定も否定もせず、ただ傍にいること。寄り添う事がこんなにも支えになるということを、音彦はこの時に初めて知った。
久野は他に何も言うことはなく、それがより一層に音彦の涙を促していたのかもしれなかった。
「……っ……」
今、久しぶりに見た気がした久野の眩しい赤毛と、切れ長の双眸。見ようによっては冷たくも映るだろう。だがその何もかもを見通している様な眼差しは深く、奥底に温かさを宿していることを、音彦はもう知っている。
その眼に、許されている。
(違う。弱者も強者も、『ここ』には無いんだ)
声にならない吐息を噛み締めて、音彦は俯いた。
哀しければ泣けばいい。悔しければ泣けばいい。
ぬるい涙を拭った先に、自らの答えを見つけること。何者でもなく、ただ『自分自身』で在ればいいと。
そう思うことが、気付くことが出来たのだから、果たして自身は変われるのだろうか。