8 虚ろなレクイエム
榊家敷地内に作られた地下施設は、整然とそこにあった。
ミヤコ達と初めて顔を合わせた建物から延びる隠し通路を通り、暫く歩くとそれは突如として現れる。
真白の空間は100平米程で、奥からこちらに向かって僅かに風が吹いていた。揺れる水面がさめざめと煌き、微かに聞こえる水音と相まって神秘的な姿を音彦に見せつけた。
奥には白い石造りの祭壇があり、中央に水に浮かぶ大きな岩があった。
(この空間は、一体)
目にした非現実的要素に、自然と音彦の歩みは遅くなる。
その時だった。ふいに、目の端に白い影が入り込んだのだ。
「詩織……」
音彦が目を見開いた。
気付くと音彦は駆け出していた。振り返った女の肩を押しのけ、前に出た、筈だった。
心とは裏腹に、音彦の身体は唐突に微動だにしなくなっていたのだった。
「!?」
まるで物理的に枷をはめられたような、圧倒的な重みが音彦の全身を押さえつけている。指先1つ動かせない。
「何をしている?」
(この声は……)
空気が冷たく張り詰めた。唯一動く目が、声の主を捉える。
「ミヤコ様! ど、どうしてこの場にっ……」
女が色めき立った。
「それは我が聞きたい」
すぐ側に口元を扇で隠したミヤコが立っていた。ゆっくりと味わうように音彦を眺めると、興味なさげな吐息を漏らし、次に視線を女へと投げる。
「いえっ、その、『儀』は明日の筈では……」
代わりに答えた女の声は明らかに動揺している。
女の前に立ったミヤコを目だけで追っていた音彦の額には、次第に玉の汗が浮かび上がっていく。
声を出すことも出来ない。目の前の詩織に手を伸ばすことも。
あの日以来目にした詩織は白装束を身に纏い、裸足でそこにいた。美しい黒髪は後ろで結い上げられており、瞳は未だ虚ろなままだ。
音彦に一瞥もくれることなく、一歩、また一歩と眼前に広がる水辺へと進んでいた。
(詩織っ)
先に水辺にいたシヨウとツキミがその両の手を取り補助する。
ちゃぷ……
水を踏む音だけが、やけに耳についた。
心の中に落ちてくる、広がる音。次第にそれは静かな湖面から水鳥が飛び立ったと思わせる激しさに変わっていった。
音彦は驚愕した。
今、目にした光景はすぐには受け入れることが出来ない事象だ。
詩織たちが水に入ったと同時に水周辺に何かが張り巡らされたのだ。無数の小さな紙には小さな文字が書かれており、一見して札と判る。
これは己の目の錯覚か、それとも現実のものなのか。札はノイズを走らせ、実体が無いものの様に点いたり消えたりを繰り返していた。
「もう一度聞こう。何故この場に?」
その光景を、背に。
ゾッとする気配を纏ったミヤコが立ち塞がった。
「申し訳ございません……沢木殿は確かにミヤコ様のおっしゃるように十分な力の持ち主。尊の末を知る頃合いかと思いー……」
女の言葉を最後まで聞く事は出来なかった。
ミヤコが手をかざした瞬間その場に倒れ込んだかと思うと、女は凄まじい叫び声を上げながらのたうち回りはじめた。
そして暫くの後、緩やかに、動きが止まった。
「沢木よ。判るか」
幻だと、思いたかった。だが女の身体に巻き付き、細く赤い舌で威嚇してくるのは、確かに蛇だった。音彦の眼にははっきりとその姿が見える。
黒蛇の動きに合わせ、コトリ……とこちらに顔を向けた女の顔は凄まじい形相だった。眼は見開かれ真っ赤に充血し、紫色になった唇からは白い泡が溢れている。
眼に光はすでに無く、ぴくりとも動かない。
亡骸に興味をなくしたかの様に、黒蛇はゆっくりとミヤコの腕へと戻っていった。
「尊のなんと儚いことよ。人はその価値を本当の意味で判っておらぬのではないか?」
(そんな……こんな、一瞬で人の命を奪ったというのか)
「こんなこと……許されない。街の人達に施している術も、あの数珠も、一体お前達は何を企んでいるんだ」
(僕と詩織に、何をさせようというんだ)
音彦は渾身の力を込め、ミヤコに身体を向けた。
「ほう、もう術に身体が慣れてきたと見える。それほど衰弱しているにも関わらず、尚も整然とした精神は感嘆に値する」
ミヤコの背後ではすでに、水だまりの奥へと達している詩織の姿があった。
「見るがいい」
音彦の視界が不意に白い膜に覆われる。
(違う、これは……)
無数の玉だ。
淡く発光し、シャボン玉の様に浮遊しながら音彦の周囲一体を埋め尽くしていた。
そしてそれはすでに亡骸となった女の身体からも放出され始めているようだった。
「これは、さっきの……」
この玉には見覚えがある。
音彦は目を見開いた。
「察しがいいな。そう、街人より数珠に込められた御霊の一部よ」
ミヤコが扇を再び開いた。空に平行にかざした扇の表面に白い玉が集まってゆく。
(御霊。そんな、こんなことが現実に行われているなんて)
顔を歪める音彦をミヤコは笑った。形の良い赤い唇が歪む。
「医師だったモノの御霊そのものも、含まれておるか。最後に我らの役に立つがいい!!」
ミヤコが腕を振り上げた。
無数に発光する御霊の渦は一塊となり、見る間にミヤコの後方へと跳ね飛んでいった。
その先にあるモノを見止め、音彦は息を呑んだ。
「……やめてくれ」
淡く、白く光る。水面に照り返り、キラキラと輝く。
祭壇岩に寝かされた詩織がそこにいた。
光の玉が愛らしい唇にみるみるうちに吸い込まれてゆく。
「やめろっ!!」
音彦が叫ぶ。
呪縛から脱することが出来た音彦は、ついに走り出していた。
バシャバシャと激しく水を掻き分け、だが詩織の元へと辿り着いた時にはすでに事は終わっていた。小さな瓶のようなものを拾い上げたシヨウが微笑みを残して水から出ていったのだった。
「詩織、詩織っ!!」
腕の中の詩織に呼び掛ける。
しかし、その瞳は閉じられたままだ。青ざめた頬にかかる髪を払う。
白い肌に桃色の頬、健康的だった筈の詩織の変化に音彦の心がざわめく。
「この娘は御簾だ。御霊の不純物を取り除き、我らに純然たる命の水を遣わすが役目」
いつの間にか背後に立っていたミヤコが言う。
言い放たれた言葉を、音彦はただただ反芻していた。
「お前が街人から御霊の一部を得、この娘が純潔を成す」
「何の、為にだ」
次第に音彦の視界が薄れてゆく。詩織を抱く腕も痺れ、支えているのがやっとになっていた。
「今のお前にはまだこの『水』は辛かろう。素直に意識を手放すが己の為。何の為かは、今は知る必要のないことだ」
ミヤコの姿が二重に揺れる。最後に見た赤い唇は、やはり笑みを形どっていた。
細い、水の音がする。頬を撫でるような心地の良い音だ。
(雨……)
認識すると同時に覚醒した音彦は、瞬時にして状況を理解した。
「外か……」
虚ろな瞳に映る庭は一面雨でしとどに濡れ、色を濃くしている。
榊家の庭の軒下。
雨樋を伝い落ちる水は思ったよりも緩やかだ。
雨の音。水の流れる音。他には何も聞こえない。普段なら心を静めてくれる音である筈なのに、今はただ空しい。
身体は動く。壁を支えに立ち上がると、音彦は離れに向かってゆっくりと歩き出した。
(何時の間に降りだしていたのだろう、この雨は)
辿り着いた戸口は、札による措置がされていた。
(まったく。これじゃあ。雨を嫌いになるじゃないか)
音彦はただ、自嘲を含んだ笑みを浮かべていた。触れるか触れないかの際で、やはり手は弾かれてしまう。それでもー……。
抗った。
手が、指が、皮膚が焼ける。力を込めて札を剥がそうとした指はみるみる熱く、刺すような痛みに焼かれてゆく。
左手がいよいよ結界に跳ね飛ばされようとした時、無理矢理に引き千切ったそれは、一瞬で火花を発した。
手の中で燻され灰となるさまを、眺めながら。
「何が『僕が詩織を守る』だ……」
雨音に掻き消された言葉は、音彦自身も気付かぬ、ある種の強さを帯びていたのかもしれなかった。