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6 路地裏のアンダンテ



「ここか……」

 大学から2駅。

 バイト先であるバーは、路地裏にこじんまりと店を構えていた。

 『ルシーク』

 ふんわりとしたランプの明かりで照らされた金属の看板とメニュー板。煉瓦の壁から伸びた蔦が木製の扉にも固着し、雰囲気を醸し出している。

 プレートが『オープン』になっていることを確かめ、音彦は店に足を踏み入れた。

 瞬間、心地よい喧噪が音彦の身を包み込んだ。

 場を見とめ、音彦は目を見張った。予想に反して店内はとても明るく、オレンジ色の灯りが吊り下げ式のハンガーのグラスに反射し眩しい程だ。広いカウンターとテーブル席が5つほどあり、ほどよく席が埋まっていた。

 きょろきょろと店内を見回していると、その内の1人からの確かな視線を感じ、音彦は思わず立ち止まった。足の長い椅子に腰かけ、こちら側に背を向けている人物だ。

(もう、ここにもいるのか)

 神出鬼没の監視の目。初めての場所に来て浮ついた様な気持ちが即座に霧散し、重苦しいものに変わった事を音彦は感じていた。

「いらっしゃいませ。お1人様で宜しいですか?」

「! いえ、私は客ではありません。ピアノ奏者のバイトの代役で来ました、沢木と言います」

 音彦に声を掛けた男がいた。落ち着いた、それでいてこの喧噪に負けない澄み切ったテノール。その声は青年の容姿も合わさり、音彦の中に鮮烈に印象を残した。

 日本人にしてはかなり高めの身長にバーの制服がよく似合っている。店内の照明の為だろうか、深い赤毛が(さい)たる輝きを放ち、ひと際目を引いた。

「そうでしたか、お待ちしていました。時間までこちらで座ってお休み下さい」

 切れ長の瞳が音彦に向かって和らげられる。

 青年の視線に促されるまま、音彦はカウンター脇にある椅子に腰を落とした。

 客のガヤと食器の音。

 監視役を視界に収めるのが嫌で、音彦は自然とその青年を目で追ってしまっていた。

 青年は注文のメモを見ながら、手慣れた様子でカクテルを作ってゆく。

(シェーカーを振るう動作を近くで見るのは初めてだ)

 小さな逆三角形のグラスに薄いピンク色の液体が注がれてゆく。

 しゅわしゅわと小さな気泡が生まれるさまをじっと見ていると、目の前に何かを置かれたことに音彦は気が付いた。

「この店の場所、すぐに判りましたか?」

「! はい。なんとか」

 綺麗に磨かれたロックグラスの中には透明な液体とスライスされた檸檬(レモン)が入っている。

「ただの檸檬水ですので、安心してください」

 グラスを観賞するだけで止まっていた音彦を怪訝に思ったのか、青年が声を掛ける。

「ありがとうございます」

 口にした水は青年の言った通りのものだった。爽やかな味が口内に広がる。音彦はほぼ一気に飲み干した。

(美味しい)

 榊家によって軟禁状態にされてから、満足に食事も採れていない音彦にとっては、まさに命の水の様なものだった。

 榊家では勿論何も手をつけない。外でも監視の目が気になり、摂取することを極端に避けるようになっていたのだ。

 誰が敵側で、誰がそうでないのか。何もかもを疑ってしまい、袋小路にはまってしまっていた。

(結果自らを追い込んでいる気もする。でも……)

「もう一杯いかがですか?」

「はい。ありがとうございます」

 この青年には、音彦は何故か不思議と何にも捉われる事がなかったのだ。


 音彦がバイトを終えたのは、日付を越えた頃だった。

 休憩を2度挟みつつ約5時間店にいたことになる。

 実際に演奏していたのは2時間にも満たないだろう。それが何故閉店の時間まで店にいたのかというと、居心地がよかった。それに尽きる。

 久しぶりに味わった息をつける時間。バーでピアノを弾くという初めての経験。

 はじめは緊張をしていた音彦だったが、数曲弾くうちにそれも無くなり、ゲストを引き込むに十分な演奏を披露した。

 のみならず、即興や常連の客らしきグループにリクエストされた曲をジャズ風にアレンジをして弾いてみたりと、音彦自身驚くような時間を過ごしたのだった。

 憂き目の中の、一時の解放だった。

「お疲れ様でした」

「お疲れ様、です」

「はい。お疲れ様~。じゃあ沢木君、今度は金曜日に。久野君、駅まで送ってあげなさいね」

「判りました。じゃあ、行きましょうか」

 店主に答える久野の手には大型のバイクのグリップが握られていた。バーテンダーの制服から黒シャツとジーンズに着替え、バイクを従えた久野は、先程とはまた違った雰囲気を纏っている。

 それが何なのか瞬間判らず考えあぐねている音彦をよそに、バイクを引きながら久野が先を歩き出した。

(あ、そうか)

「髪、長かったんですね」

「? ああ、店では邪魔にならないよう後ろで丸めてます」

 今は後ろに1つでくくっているものの、その細く(かさ)の無い束は肩口から下に、無造作に下ろされている。光り輝く鮮やかさは夜闇に奪われているが、この暗闇でも判るはっきりとした濃い赤毛だ。

 音彦自身、色素の薄い髪の色をしているが、久野のそれは、より抜きん出た色味だ。

 そして切れ長の双眸は黒。高身長も合わさり、赤と黒の絶妙に混ざり合ったアンバランスさが、こんなにも目を引くのかもしれない。

 駅までは徒歩10分程だったはずだが、斜め前を歩く久野を観察していた音彦には短い時間に感じられた。

「そうだ」 

 目と鼻の先に駅が迫った時、久野が足を留めた。

「はい?」

 視線に示されるまま、久野が肩にかけていたワンショルダーバッグを音彦が開ける。

「そう、それです」

「これって、もしかして」

 促されてバッグから取り出したのは、小さな透明の袋に金色のシールが貼られた菓子だった。

「さっき、気に入ってたみたいだったので」

 受け取って下さい、と久野はバッグを肩に掛け直した。

 2回目の休憩時に珈琲と共にパウンドケーキが出されたのだ。林檎と木の実がふんだんに使われていて、甘さ控えめのケーキは本当に美味しかった。

「でも……」

「俺の手作りです」

「えっ」

「それで今日の分、最後だったので。良かったら、どうぞ」

 言い終え再び歩き出した久野に、音彦は気の利いた《ことば》台詞1つ返せなかった。

 戸惑っていたのだ。音彦の胸に湧き上がった感情の靄は言葉にし難く、上手く表現できない。


(見知った友人でもないのに)


「では、また金曜日に」 


(どうしてこんなにも、寂しいと感じるのだろう)

 


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