5 静と動の音階
酉の刻、千切れた柔らかな綿の様な雲に緋色が射していた。もうすぐ日が落ちる、赤と黒の僅かで儚げな時間。
表通りから一本奥に入った路地にあるビルの扉が、金色のベルを軽やかに鳴らしながら開いた。
寂しげで懐かしさも感じさせる緋の空間と同じ色の髪をしている青年が現れる。
黒いベストとパンツが長身に映える。その青年はシャツを肘近くまで捲り上げると、てきぱきと仕事をこなし始めた。
今夜のメニューが書かれた黒板を扉の側にあった小さな椅子に立て、小さなホウキで店回りを手早く掃いてゆく。
バーの制服で身を屈めると少々窮屈そうに見えるのは、上背があり、すっきりとした肢体が鍛え上げられた筋肉で包まれている故だろう。
ふいに青年の肩に1羽の鳥が降り立った。しかし彼は表情1つ崩すことはない。
鴉は羽を畳むと青年の耳元に嘴を寄せた。その姿はまるで自らの意思を持ち、囁きかけている様にも思える。
「判ってる」
青年が切れ長の瞳を細め、ポツリと言った。
「久野くん、外それくらいでいいから中を手伝って~」
小さく答えた声に被さるように背後の扉が再び開かれた。
扉から顔を覗かせた熟年男性が久野の姿を見とめ、声を掛ける。
久野のユニフォームにプラス蝶ネクタイといういで立ちだ。一見して善人と解る程の人相と、綺麗に整えられた口髭が眩しい。
「了解です、マスター。すぐ行きます」
「よろしくね! 今夜は予約のお客さんが多くいらっしゃるから準備早めにしておかないとなんだよね~っと……」
すっと上体を整えた久野に、マスターが目を丸くする。
鴉が羽をはためかせたのだ。
「久野くんは本当に背が高いんだねえ。いやいや、私がオジサンになって縮んじゃったのかなあ、はは」
だがその黒い鳥が見えているわけではなかった。言葉通り、マスターは久野の事を言っているだけに過ぎない。
常人に見える筈がない。何故なら、久野の肩に止まっている鴉は隠世の住人であり、切れぬ絆を持つ眷属と呼ばれる存在なのだから。
久野が答える代わりにだろうか。一声鳴いたその黒い鳥は、もう消え入りそうな夕の光に吸い込まれるように空気に溶け込んでいった。
「ん、何か付いていたかい?」
「糸くずです」
そうしてこの青年、久野 櫂も。現世と隠世の存在を知る者。
男性の肩に見え隠れしていたソレをそっと祓うと、手に煙る残り香も赤い炎が一瞬で燃やし尽くした。
(また、憑いていたか)
「わあ、ありがとう。久野くんは、そういうところも目が行き届いてるねえ。朝からなんだかしんどかった心も急に晴れたよ~。あ、そうそう今日仕入れたセロリがねえ」
「中に入って準備しましょう」
この店のマスターは見ての通り人が良く、お人好しのきらいがある。その気に寄せられた浮遊霊をよく取り込んでしまう所があり、それに気づいた久野が度々祓ってきた、という経緯だ。
2週間程前、久野がこの店に勤め始めてから見かける度に幾度となく祓ってきたが、無くなる気配もない。
(いや、お人好しは俺か)
「あ、いいねいいね。久野くんの笑顔いいよ~」
「そういうのはいいです」
バツの悪そうに口元を整えた久野が、マスターを店の中に追いやる。
振り返り見た空は、その大半が藍に染まっていた。
迫りくる闇に心を正すと、久野は扉にかかっていたオープンクローズプレートをひっくり返した。
榊家の主、ミヤコの命のまま音彦は日常のローテーションをこなしていた。いつものように大学に通い、専攻の課題をこなし、自宅に帰る。
いつもと違うのはそこに監視の目があること。例の男、野坂が来ることもあれば、違う者の時もある。恐らくミヤコの息のかかった関係者なのだろうが、特に音彦に話しかけるわけでもなく、ただ、ずっと周囲のどこかに身を潜めているのだった。
言うまでもなくそれは、音彦の逃亡、そして誰かにコンタクトをとられることを防ぐ為だろう。
(そんなことをしなくても、僕にはどうにもならないというのに)
詩織とは、あれから一度も顔を合わせていなかった。
姉妹に連れられ姿を隠してしまったのだ。あの屋敷のどこかにいるのは確かだろう、だが、場所の僅かな情報すら今の音彦には得る事は出来なかった。
行動を制限されている中、先日野坂から詩織の休学届を出したと聞かされ、いっそう音彦の不安は大きくなっていた。
姉妹の意図することが全く見えてこない。そして誰かに助けを求めることも、自分自身でどうにかすることも出来ない現状は、音彦をますます疲弊させていった。
しかし周囲にそれは悟らせない。音彦の持つ堅忍さが、何とか精神を支えているのかもしれなかった。
「じゃあ、沢木。例の件、頼むな!」
「はい。判りました」
そして今日もまた、音彦は1人日常を過ごしていた。
急ぎ足で教室を出ていく先輩を見送り、帰り支度をする。約束の時間にそう余分な時間はない。
『例の件』とはピアノ奏者としてのバイトの事だ。
課題の提出期限を勘違いしていたらしい先輩が、どうにかバイトの代わりを頼める人物はいないかと探し回っていたらしい。友人繋がりで白羽の矢が立ったのが音彦だった。
ピアノ専攻でそれなりの曲数を一定のレベルで弾ける人物、と条件が条件だけに他に頼める者がいない。大学に勤めている講師の知り合いの店らしく、急なキャンセルも角が立つということで、「頼む!」と拝み倒された音彦はしぶしぶ引き受けたのだった。
(こんな時だからこそかもしれないな)
何があったとしても、音は好きだ。音楽に触れることはそれだけで心が満たされ、雑念を一時でも忘れさせてくれる。
『ドアが閉まります』
電車に乗り込み、扉脇に立った。まだ社会人の帰宅ラッシュの時間ではないらしい。席は埋まっているものの、車内は十分な空間が残っている。
その時音彦の脳裏に、ふいに音が思い浮かんだ。心の内に、響く。音彦にとって抱くこの音は、家族の姿と同じモノであるのかもしれなかった。
音彦の記憶の中では変わらず今も、皆、音を奏で続けているのだ。
(この記憶も、段々と薄れて何も、聞こえなくなるのだろうか……)
月に何度かあった家族揃ってのアンサンブルは、今はもう、遠い。
両親の死から自宅のピアノには長らく触れていなかった。そして今は詩織もいない。
1人で過ごす今の家は広すぎて、そしてあのピアノは思い出が深すぎる。
掛けていた眼鏡を取って目を伏せる。
両親の事。
協会の事。
榊家の事。
詩織の事。
ずっと、考えている。
だが己の中にある記憶の隅々を全部浚っても、何も出てこない。
退魔師、能力者、人成らざるモノについて、少ない知識ながら熟考し、解決策を思い描いても。
「……遠い」
電車の窓を占めるは緋色の空。おぼろげな視界の中で、夕日に染まった赤い雲が規則的な振動音と共にゆっくりと流れてゆく。
明と暗の狭間。音彦はそこに、今の自身の姿を見ていた。