4 愛おしい唄が眠る
協会からの決定として連絡があったのは、あの男が言っていた通り音彦の両親の死から1週間が過ぎた頃だった。
山間の街。その場所に居を構える遠縁の親戚の屋敷がある。そこで納骨の事、協会の手続きに関して話がされるらしいというのだ。
榊の家。生前の父から聞いた事のある名だった。当時の父は何となく、あまりこの話題には触れたくないという体だったのを、ぼんやりと覚えている。
(榊家と父との間に、一体何があったのだろうか)
今となってはもう、確かめようもないけれど。
「ようこそいらっしゃいました。沢木音彦さん、詩織さんですね。どうぞこちらへ」
指定された駅に着くと、2人を出迎えたのは黒塗りの車だった。車の横で整列して待っていた使用人と思しき数人の女性に促され、音彦と詩織は車に乗せられたのだった。
数十分の後、眼前に現れた屋敷は予想以上の大きさだった。
純和風の日本家屋だ。屋根のある和風門をくぐり敷居を跨ぐと、敷石の両端に広がった日本庭園が音彦達を迎え入れた。美しく手入れされた木々と植物はその生命力がこちらに伝わってくる程に生き生きとしている。
(なんだ? この違和感は)
しかし、音彦は妙な胸騒ぎを覚えていた。
先程敷居をまたいだ時に感じた冷気。出迎えた使用人達も、何かが違う。だが、違和感の正体が何なのかが判らない。不明瞭でいて、不気味。ここにいて良いのかという不安が胸の中を占め始めた。
1歩後ろを歩く詩織をちらりと見やる。
少し不安そうな表情だったが、音彦と目が合うと花が咲いた様に顔をほころばせた。音彦の中にあった靄が、ふっと軽くなる。
詩織はいつもそうだ。何気ないことで、見る者を温かで穏やかな気持ちにさせてくれる。
この笑顔を消してはいけない。傍で見守っていきたいと、音彦はずっと思っているのだった。
(大丈夫、ここへは手続きに来ただけだ)
「こちらです」
庭園を抜けると、大きな玄関が見えた。だがそこではないらしい。
使用人が指し示す先には渡り廊下で繋がった離れらしき建物があった。母屋よりは古く感じられるが、しっかりと手入れはされているようだ。戸も土間も整えられており塵1つ落ちていない。
しかし中に入ると、音彦の意識は一変した。更に冷気が増したのだ。息を吸い込むと胸の奥が冷たくなる、それほどに。
(ここに居ては危険だ)
「どうぞ、こちらへ」
使用人の貼りついた笑みに背筋が泡立った。これは音彦の中に確かにあったとも言うべきモノ、1つの予感。えも知れない恐れの様なものから全身が逃げろと叫んでいる。
「今日は帰ります」
後ろにいた詩織の手を取った。筈だった。
しかし音彦の手は空を掴んでいた。すれ違いざまに見た詩織の瞳は、すでに彼を見てはいなかったのだ。
「詩織?」
「ほお、この距離で我らの術にかからぬとは、並以上の術力を持っているのではないか? どう思う? シヨウ」
それでも掴んだ詩織の手は、だが次の瞬間には振り解かれてしまう。
「どういうことだ!」
妹の背の向こう、いつの間にかそこにいた人物らを、音彦は睨みつける。
「声を荒げなくとも宜しいのではなくて? そうね、ミヤコ姉様、予想外の力をこの方はお持ちのようです」
「そうなのよツキミはそう思うのよ。ミヤコ姉様とシヨウ姉様の言う通りなのだわ。せっかくの麗しい男子が台無しですわよ?」
3人の女がそこに座っていた。
豪奢な座布団に行儀よく座り、音彦を見つめている。
まるで日本人形かと見紛う姿だ。丁寧に切り揃えられた髪が艶やかに輝き、口元は控えめな紅で彩られている。
音彦を視線で見下ろす女は尊大な態度で中央に座っている。名をミヤコと言ったか。
長い髪を後ろで緩く結んでいるシヨウと呼ばれた女は優美な所作で向かって右に。ツキミと言った巻き髪の女は狡猾な笑みを浮かべ左側に座している。
同じ和装で語る。矢継ぎ早の声、その異様な雰囲気に飲まれそうになる。
女達は音彦の動揺が判るのか、可笑しそうに笑い出した。
三者三葉の声は、不協和音にしか感じられない。
「詩織!」
音彦が声を荒げる。
しかし、詩織は無反応だ。音彦の呼び掛けに見向きもせず、うつろな瞳でミヤコの膝元に腰を下ろし、動かない。
「ああ、じっとしておいで」
駆け寄ろうとした音彦の足が止まった。ミヤコの開いた掌から何かが放たれたのだ。
畳の上に弧を描き、とぐろを巻いて、その首をもたげる。
「蛇?」
にじり寄り、威嚇の音を上げるそれは、とても小さな蛇だ。だが確かに感じる圧迫感が音彦の足を留めていた。
(これは、霊体か)
音彦の顔が険しくなる。
両親は退魔師だが、その実子である音彦らは退魔師としての訓練を受けてきたわけではなかった。
それは音彦の両親の、協会に関わらせまいとする意思の表れだったのかもしれない。だが、血を継ぐ音彦らは両親の能力の一端を確かに受け継いでいた。この世の成らざる者が見える、聞える、触れることが出来る。
2人、特に兄である音彦の資質に気付いた両親は護身用として最低限の対処法や術の類を音彦に教えていた。理解力、飲み込みの早さから教えられた事はしっかりと音彦の中に記憶として残っている。
音彦自身、今まで何度となく霊体にも遭遇したこともある。しかし実戦となれば話は別だ。敵意を向けてくる霊体など今まで遭ったことがない上に、未知の相手が3人、しかもよりによって妹を盾にされる状況など……。
音彦の表情が厳しくなる。
「ああ、音彦君。抵抗は止めた方がいい」
その時だ。
聞いた事のある野太い声が音彦の背後から聞こえた。
音彦は目を見張った。振り返らずとも判る。病院に来た、野坂と名乗ったあの男だ。
「妹さんの事もあるし。ねっ」
「お前……」
ようやく音彦は振り返り、その男を睨みつけた。
男はミヤコ達にゆっくり丁寧に会釈をすると、音彦の方に歩み寄ってくる。
「協会の人間ではなかったのか」
「いやいや! 協会の関係者というのは本当さ。おっと! 怖い顔だね。大丈夫大丈夫、君が大人しく従ってくれれば妹さんは何もされないさ。たぶん、ね」
相変わらずの愛想の良い笑みもいっそ腹立たしい。しかし目は笑ってはいないのだ。むしろ男の黒い瞳には何ら感情すら浮かんではいないようにも思え、音彦は思わず苦笑してしまっていた。自らの落ち度にぐっと拳を握り締める。
意図はまだ判らないが、嵌められた。ここに誘い込まれたことは間違いないからだ。
「しかし驚いたな。榊家の内部に居ながら術にかからず、ミヤコさんの使い魔の影響も受けないとは」
感心したように顎髭をさすりながら、男は蛇と音彦の間に立った。
「両親の身体をどこへやった。言ったことはすべて嘘だったのか!?」
音彦の強い眼差しに男は一瞬怯んだが、すぐにいつもの笑みを取り戻す。
「ソレが協会にあるのは本当だよ。だが君達の事を話したら、こちらにいるミヤコさんが是非君達に会いたいとおっしゃってね。先に榊家へ案内したってわけさ」
「こんなことをして、何が目的だ!」
「我らは力が欲しい。ゆえに、お前達を使う、それだけだ」
男の代わりに答えたのはミヤコだ。大きな瞳が細められる。しなやかな指で傀儡となった詩織の顎をくいと上向かせた。そこに見えたモノに音彦の目は大きく開かれる。
尾を細かく震わせ、裂けんばかりに開いた口から覗く半透明の牙。
蛇だ。
「止めてくれ!!」
音彦が叫んだ。
蛇はミヤコの指を伝い、今にも詩織の喉元に噛みつかんとしている。
「従うがいい。お前だけではない、お前の妹にもきちんと役目は用意してある」
当然、という顔でミヤコは微笑んでいた。彼女の表情に反して音彦の表情がかたくなる。
袋小路に立たされた。
「あらあら、まぁまぁ。野坂から聞いた通りのようです、ミヤコ姉様。沢木のかたの血の繋がった妹を憂惧するその心、素晴らしいですわね」
「ツキミ、ツキミはね! 美しいモノが大好きなの。その心、美しい。美しいのだわ! だけれどツキミはそれが可笑しいの。あっははは!」
女達の言葉、男の満足そうな笑み、威嚇する蛇の乾いた音。
そして、なす術もない自分。
「……判った」
頷くほかなかった。
だが悟らせてなるものか、吐き出してなるものか。
音彦は唇を噛み締める。しかしその瞳の奥に宿る光は、まだ失ってはいないのだ。
ミヤコの使い魔である黒蛇が一瞬身構えたことを、その時はまだ誰も気づいてはいなかった。