3 四重奏の欠片だけ
両親は退魔師をしていた。
だが、音彦と詩織にとっては、名ばかりであったことは確かだった。
それほどに、音彦の両親は仕事の素振りも、話も2人にしてはいなかった。
唯一音彦が聞かされていたのは、退魔師の任務中に2人は出会い一緒になったということ。それはどうやら両家から大変な反対にあったらしく、実家とは絶縁状態であることのみで……。
ゆえに音彦も詩織も親族との面識は直接にはなく、写真で祖父祖母を知っているのみだ。そして任務で家を空けることも多い両親。必然と詳しい話を聞き出すことは困難になる。
幼少時はともかく、手がかからなくなってからというもの、両親は頻繁に家を空けていた。だが2人の時間を寂しいと思ったことは無かった。
ピアニストの父とバイオリニストの母を持つ音彦と詩織の間には、常に音の庭があった。まるでそれは日々のルーティンのように、音に触れる。
まだ幼き日、両親不在時も音彦がピアノを弾いて聞かせると詩織は泣き止んだ。2人が成長するにつれてその時間はアンサンブルとなり、奏でる音色はまるで2人の絆の様に兄妹を繋いでいた。
特に音彦の才はめざましく、音楽大学に3年在学している現在、国内外の数々のコンクールに参加し、優秀な成績をおさめていた。
奏者としても活動していた両親はそのことを手ばなしに喜び、応援もしていた。そしてずっと、退魔師という裏の顔や力を音彦達に滅多と見せない姿勢を貫いていたのだった。
平和だった。表面上は何も無かったのだ。ゆえに思い込んでいた。
退魔師の任務で日に数時間、最大で1、2日家を空けることはあった。だが言われなければ、そのくらい奏者としての仕事と同様だ。何も変わらない。
でも、変わってしまった。
両親の死、それに起因して次々と表に浸食し始めてきた事実に翻弄されている。
今まで両親が保ってきた日常が、こんな唐突にすべて奪われる理不尽があるものか。
あの日現れた男も退魔師協会も、音彦にとっては己の領域を侵す火種でしかなかった。
両親の亡骸も奪われ、気持ちの区切りも付けられない現状は酷く苦しく、情報に関しても、明らかに両親の裏の仕事に疎い事が今は仇となっている。
あの日現れた退魔師協会の男は便宜上の話しかせず、一片の情も感じなかった。そうであるのに、あの男からの報せを待つしかないのだ。
自宅で両親の遺品の整理をしている今も、しっかりしていなければならないのに、未だ音彦の頭の中は暗い霧に覆われているのであった。
「そういえば……」
ふっと思い出した出来事に、音彦は自室に戻った。
デスクの奥に仕舞っていた小箱を手に取る。その箱はまだ音彦が幼かった頃、母に渡されたものだった。
何の変哲もない木箱。何が入っているのかは判らない。
『音彦が本当に困った時は、この箱を開けなさい』
記憶の中の母は変わらず微笑んでいた。
箱はオルゴールにも思えて、小さかった音彦は何度開けたいと思ったかしれない。だが、続けて言った母の一言がそれを押し留めていた。
『詩織をお願いね』
『うん! 僕がしおりを守る』
以来、仕舞ったままだったその箱は、今手にすると驚く程小さく感じられた。
細やかな彫りが幾つかあり、造りに対しては少々の重さがある。
(やっぱりオルゴールだ)
開けるとヒンジが小さく軋んだ。流れ出した音色は『パッヘルベルのカノン』。母が好きだった曲だ。
「ラリエット?」
中にはラリエットが入っていた。母が身に付けている所は見たことがないデザインだ。
トップには小さな石がついている。手に持ったままかざすと、角度によって少し色が違って見えた。
「赤……?」
無色透明だった石が唐突に赤く色付き、太陽光が反射したように、突如強い光を放った。
「えっ」
思わず条件反射的にラリエットを手放してしまう。トトン……と、何度か跳ねて床に落ちたそれを拾い上げようと、音彦が屈んだ時だった。
何も無かった空間に、突然紅い鳥が出現したのだ。
薄暗かった部屋の中が、鳥が発する炎で赤く照らされた。鳥の纏う炎は羽を撫でるように揺らめき、うねりを繰り返している。
爆ぜた火が頬を掠めていった。感じた熱は確かに本物だ。
その鳥はまるで伝承に伝え聞く、不死鳥。
あまりの現実に言葉を失っている音彦を見下ろすと、鳥は広げていた翼を大きくはためかせた。
『契約を履行する。契約者の願い、確かに聞き届けよう』
脳に直接語り掛ける声が、音彦の中に響き渡った。
(契約? それにこの声は一体)
しかし音彦が問い掛ける間もなく、紅い鳥は一際高く跳躍し、音彦の頭上で消えてしまった。
「……」
とばりが下りた部屋に残ったのは、無色透明に戻ったラリエット。
しん、と再び静まり返った室内で、オルゴールの音色が1音、シリンダーコームのピンを弾く音が聞こえた。