2 休止符の喪失
突然の訃報は立夏の過ぎた頃、自宅で休日を過ごしていた時だった。取るものもとりあえず、妹の詩織と共に連絡のあった病院に向かったのだ。
その時の情感は思い返すたびに、例えようの無い重苦しい動悸を伴う。嘘だろう? と信じたくない気持ちと、何かの間違いであってくれと真偽を逸る思いが沸き立つのだ。
警察から伝え聞いたのは、あっさりとした事故内容だけだった。高速道路で中央分離帯を越えたトラックが両親の乗った車に正面衝突。一瞬の出来事であり、恐らく即死だったろう、ということだった。
「……」
搬送先の病院で対面した両親の側、音彦らはただ項垂れるしかなかった。
暫くした後、横たわるモノにそっと音彦は手を伸ばした。しかし側で見守っていた警察署の男が、音彦の手を制止したのだった。
音彦が怪訝に思ったのは一瞬だけだった。部屋にいたのは音彦だけではない。恐らくそれは音彦の服の裾を掴み嗚咽していた妹の存在があったからなのだろう。
結局、遺体の顔にかけられた布を取ることを音彦はしなかった。
「詩織」
名を呼ばれた少女は兄の声でようやく顔を上げた。細い肩を撫でるように流れた色素の薄い髪から覗くのは、白い卵形の小さな顔。愛らしい目元は涙で濡れ、潤んでいる。
音彦は薄く微笑むと、ハンカチでそっとその涙を抑えてやる。詩織はしゃっくりを堪えながら音彦を見上げた。
「ごめんなさい。お兄ちゃんだって……かなしいのにっ」
「謝らなくていい。詩織は兄ちゃんの分も泣いてくれた。さ、父さんと母さんに挨拶して」
「……うん」
未だ溢れる涙をハンカチで抑えながら、詩織は両親が乗せられたベッドの枕元に跪いた。祈る両の手でぐしゃぐしゃになったハンカチは、嗚咽と涙が滲んでゆく。
まるでそれは、音彦の心の内を表しているかのようだった。
「失礼、沢木音彦君、で間違いないだろうか」
その時だった。背後のドアが開き、1人の男が部屋に入ってきた。
一瞬、病院関係者か警察署の者かと思ったが、どうやら違うようだ。目配せをしたのみで、入れ替わりに警察署の男は落ち着かない様子でそそくさと部屋を後にしたからだ。
「貴方は?」
訝しげな音彦に深々と頭を下げた男は語気を速めて話し出した。
「この度は、突然の事で大変だったね。お悔やみ申し上げる。私は君達のご両親が所属していた退魔師協会の者だ。少しでも話を聞いた事はないかい?」
ハキハキとした、よく通る声だ。がっしりとした体格と短く刈り上げた髪が精悍さをより表している。この場で会っていなければ、良い印象を持つ割合が高い人物と言えるだろう。
野坂と名乗った男は張り付いた笑みを浮かべている。
差し出された名刺にサッと目を通しはしたが、音彦の瞳は更に細められた。
「あります。ですが私と妹は両親の仕事について詳しくは聞かされていません。貴方方にはどう伝わっていたのか存じませんが。それにしても事故直後に訪れるとは、協会も耳がお早いですね」
瞬間、男はひやっとした空気を感じた。だが心得のある男の目にも、この時は何も見えなかった。鈍く光る眼鏡の下、冷たい視線を投げかける音彦の霊気を確かに感じたというのに。
「おっと。そんな怖い顔をしないでくれ。すまない、気遣いが足りなかったね。君達に何かしようって事じゃないさ」
多少の違和感を残しつつも、男はすぐ調子を取り戻すと、大仰に続けた。
祈りを終えた詩織が音彦の背後に隠れるようにしているのを見やり、ニコニコと頷く。
「君たちのご両親はウチでも有能な退魔師でね。詳しくは言えないが、所属する退魔師が任務で亡くなった場合、その亡骸の処遇は協会が持つことになっている」
「! どういうことですか」
「言葉通り、納骨までをウチが管理するということだよ」
常識では考えられない物言いに耳を疑う。しかし男はまるで業務連絡を告げているだけだとでも言うように、淡々と言葉を続けた。
「この事は生前、ご両親が協会に所属した時の誓約に則っている。誰にもそれは覆せないというわけだ」
「そんなっ……」
「警察、病院。表の手続きもこちらに任せてくれて構わない。初7日を過ぎた頃に一度連絡を入れるので、それまでは、どうか判ってほしい」
場に似つかわしくない笑顔も、異様にしか映らない。
音彦が眉を寄せ、口を噤む。すると突然その横で男は屈んだ。
「これを、その証にしよう」
詩織の手に小豆色の小さな巾着を握らせる。
中には小さな白い石がついた指輪が2つ入っていた。
音彦が目を見開く。途端に詩織が再び泣き崩れた。
詩織の様子に音彦は言葉にならず、ただその細い肩を支える事しか出来なかった。
「では、失礼するよ」
男が軽く手を上げて部屋を後にする。部屋に詩織と2人きりになって音彦が感じたのは、己の脆弱さだったのかもしれない。
握り締めていた拳が震える。何とも形容し難い感情の波が音彦の心をかき乱していた。
今受け取った指輪には酷く見覚えがある。日毎夜毎目にしていた、確かに両親が身に付けていたものだったのだ。
それは同時に、今この場で横たわる物体が真に両親であるのだと肯定するものだった。
「どうして……」
だが、答えは永遠に返ってはこない。もう、二度と。
仰ぎ見る。小さな部屋の電灯の光が何故か揺らめいて見えた気がして、音彦は静かに目を伏せた。