15 紅の羽音
「何者だっ!?」
その時、こちらに気付いたミヤコの叫びが聞こえたと同時に、視界にいた久野の姿が消えた。
「灼!!」
それは大空に羽ばたく紅の眷属の名。ミヤコに向かって疾走していた久野の頭上から、獲物を見つけたかの如く鴉が急降下した。
「焼き払えっ!!」
鴉の黒い翼は空を裂き、全身に炎を纏わせながらシヨウとツキミに向かっていった。
「ぐっ……!!」
何かが壊れる音と共に、キラキラと、氷の欠片が音彦の周囲を舞っていた。
一瞬後に襲ってきた爆風を両腕を盾とし、庇う。屈めていた身体を起こし目にした光景は、音彦の思考を停止させるのに十分足るものだった。
(すごい……)
シヨウ達を留めていた壁がえぐり取られるように破壊されている。コンクリートと地面に、点々と炎が散り、残骸をちりちりと焼いているのだ。
そして眼前で繰り広げられていたのは、水場の中ではなく、いつのまにかその外で戦闘を繰り広げている久野とミヤコの姿だった。
久野が繰り出す、火の力。
紋が光を帯びると同時に炎が生まれている。詩行も印すらも必要としていないその様に、音彦の眼は釘付けになっていた。
ミヤコは突然現れた久野の動きに翻弄されているのか、悔しげな表情だ。
その瞬間、久野の視線が音彦をとらえたのだった。
(そうか……)
久野が水場の外で戦っていたのには、理由があったのだ。
音彦は急いでそちらに駆け出した。
久野は恐らく、わざと水場から遠ざけるように仕向けていたのだろう。水場の淵に立った音彦は祭壇岩に寝かされている妹を見定めると、その場に膝をついた。
(この水に入るのはまずい)
以前にあった事を思い出し、選択する。
音彦が少々術を使えるようになったといっても、身体の能力値が上がったわけではない。以前と同じ結果になる可能性が残っている以上、安易に水の中に入るのは危険だろう。
(今の僕に出来ることは……)
「『白のみうみ けけれあれや 氷雨のみうみよ』」
白く、深く。
まるで青白く光る紋が、両手から水面へと光を移したかに思えた。水面すれすれにかざした掌から、次第にそれは白く広がってゆく。
詩行を唱える。最初は詩を辿っているだけだったが、実践を通しある変化が音彦の中に生まれていた。
意識を集中し、余裕を持つこと。額の一点を支点とし、念を全身に張り巡らせる。脳内にあるイメージを、より濃くするのだ。
そして、自分自身の力を、信じること。
音彦の手から溢れ出る光はより一層大きくなり、水場はしめやかに動から静へと姿を変えるまでに至った。
暫くののち、音彦はそこに降り立つ。表面に霜を走らせ、白煙が生じはじめた氷の床は、少し前までの水場だった面影はすでに無い。
足を踏み入れた瞬間、どくんと心臓に違和感が走ったが何とか顔を顰めるに留める。
(詩織……)
久野がくれた時間を一切無駄にしてはならない。
慎重に、だが出来るだけ早く歩を進めた。
眠れる詩織の片隅に膝をついた音彦は、そっと瞼にかかる髪をはらう。やはり意識が無いようだ。
血の気の薄い顔色。しかし外傷は見当たらないことに安堵する。胸が上下していることを再度確かめ、音彦は残る力を振り絞って詩織を抱き上げた。
その時。
「!?」
氷の床に突如、ひびが入ったのだ。
亀裂はあっという間に放射状に広がり、僅かな段差を幾つも生み出しはじめた。
音彦の表情に焦りの色が浮かぶ。
咄嗟に見た先には、ミヤコと相まみえている久野の姿があった。
(大丈夫。落ち着け)
1つ息をつき、一歩一歩、確かめながら進んでゆく。
驚いた事には、音彦の視線の先には久野の眷属『灼』がおり、音彦の行く先を示すかのように飛行していたのだった。
(まるで意思を持っているかのようだ……)
灼との出会いは、今でもはっきりと思い出せる。
母からもらった小箱。入っていたラリエットの光から発現したのだ。
眩い光と、記憶に焼き付いている、紅の熱。
『契約を履行する。契約者の願い、確かに聞き届けよう』
「君は確か、そう語り掛けてきたね」
部屋の隅に移動した音彦は、側に降り立った灼に呟いていた。きっと心の声も読まれていると、何とはなしに思ったのだ。
だが、灼の声は聞こえてはこなかった。炎舞う翼を1度、はためかせただけだ。
(契約者の願いとは、一体何だったのだろうか……)
思考の世界に入りかけた音彦の肩越しに、氷の床はついに崩れ去ってしまう。水が粉々になった氷を食らうさまを、音彦は息を呑んで見つめていた。
灼の案内がなければ、詩織共々水にのまれていたかもしれない。




