13 仲を爪弾く切れた絃
(あれは、何だ?)
ミヤコが祭壇岩の前で屈んだ。
詩織の他に誰もいなかったはずの場所に、何かがいたのだった。
「人?」
「そう。我が兄だ」
(兄!? あれが?)
音彦は信じられないといった表情をミヤコに向けている。
恐らく、誰も信じられるわけがないのだ。
詩織から人間1人分の幅を開けた場所に寝かされていたのは、明らかに齢10もゆかぬ子供だった。
特徴といえば真っすぐに切り整えられた黒髪、そして詩織と同じく神道の着物を着せられている、そのことのみだろう。
「沢木よ、以前お前は問うたな。『何の為に……』と。これがその答えだ」
「?」
振り返ったミヤコは微笑んでいた。今までに見たことのない、慈愛に満ちた笑みだった。
「アオイ兄さまは大変に優しい人であった。幼い頃から私達姉妹を可愛がり、ほんに大事にしてくれた。だが生まれながらに身体が弱く、病弱であった。健やかに成長する私達とは対極に、兄の身体は次第に成長を拒むようになった。身体は弱り、精神は脆弱になっていった」
「……」
「ある時、兄は私に言ったのだよ。置いていかないで欲しい。と……」
そうして視線を横たわる男子に向ける。
ミヤコの表情が隠れた。髪の間からちらりと覗く襟足が、その肌が蠢いて見えたのは、気のせいだったのだろうか。
「わたしも人の子だ。最初から『他に』欲したわけではないよ。手をかけ育てた植物。飼っていた文鳥たち。兄の生を願った両親と、祖父母」
静かだった。着物が擦れる音が、やけに耳につく。再び音彦へと向き直ったミヤコは無の表情で何もない空間を見据えていた。
(何を、言っているんだ? こいつは……)
「……それでも兄は衰弱していく一方だった。これは我が家系の、黒蛇の呪いなのか……と、蔵の書物を読みあさったこともあったさ。だが、何を調べても、誰を呪っても、何も見つけだせない!!」
ミヤコの唇は次第に震え出し、声は嘆きに変わる。己が胸を掻きむしる両手は、爪の間までいつしか紅となる。
「嗚呼……兄は、アオイ兄さまはこのまま朽ち果てるのか。我らの目の前で!? そのようなこと、我が許しはしない」
「まさか……」
音彦は息を呑んだ。1つの答えが脳裏で音を立てのだ。
癒しの力だと、街人を集め、力を行使する。集めた力は数珠から詩織へ。生まれた『命の水』はー……。
「すべて、兄に与えていたのか!?」
激しい怒りの感情を感じる。
目を大きく見開き、感情を爆発させているミヤコは、近寄れぬ何かを全身から放っていた。同時に、深い哀しみの波動も、音彦は確かに感じ取っていた。
だが、同情は出来なかった。今ミヤコが発した言葉の数々から推測するに、街人らの御霊の一部のみならず、肉親の命をも奪ってきたのだ。
榊家の持つ『癒しの力』。それはまやかしだったのだ。人々を言葉巧みに騙し、少しずつ生命力を奪い取っていた。
兄の為とはいえ、いつしか理性からたがが外れ、禁忌に手を染めてしまった。その罪は許されるべきではない。
「ねえさま……」
「ミヤコ姉様、助けて」
音彦が声のする方に顔を向けると、壁と同化する形で氷の像にされていたシヨウとツキミが目に入った。
体温の低下からか唇は紫色となっており、途切れがちな声は弱々しい。
彼女らの視線は姉であるミヤコへ一心に注がれており、縋る姿は敵と言えど憐れみの情を抱かせるに十分足るものだった。
しかしミヤコにとっては違ったようだ。
ミヤコは姉妹2人を鼻で笑うと、すでに錆色がかり始めた手を2人に向けたのだった。
「いや、あああぁ」
「ミヤコ姉様……ぁ」
シヨウ、ツキミの絶叫が、響き渡る。
その時も、どこから吹いているのか、未だ見当もつかぬ風がそよぎ、白い水面を静かに揺らしていた。
閉鎖された白い空間の中、行われてきた秘め事。
静かで、それでいて残忍な、命のやり取りを。
ミヤコの両手に嵌められている数珠から伸びた霞が、姉妹の口元に伸びてゆく。
まるでそれは冬の日。吐く息が白くなるように。ぐんぐんと靄はミヤコの手元へと吸い取られてゆくのだ。
「我はすべてにおいて嘘は言っていない」
「?」
「治癒はしていたさ、並々と受け継がれる榊の偉業はな。我らの持つ能力は、その個体の持つ自力を限界まで高めることで肉体の活性を促すもの。力加減さえ違えねば、それは治癒を施したと、言えるだろう?」
耳に響く、ミヤコの声。しかし音彦はそこから目が離せなかった。
シヨウとツキミ、2人の変貌する様を。
身体はびくびくと跳ねるのを繰り返し、開いた口からは白い泡が噴き出す。紫色の血管が浮き始めた肌は至る所が裂け、そこから鮮血が溢れ出した。
「やめろ……血の繋がった姉妹じゃないのかっ? どうして、そこまで!」
思わず音彦は叫んでいた。
血が沸騰する。その様を。
治癒のイメージとは程遠い光景を目の当たりにし、震えが走る。
「お前などにしてやられるモノに興味など無いわ。最後にせめて役にも立てば、シヨウ、ツキミも浮かばれよう」
血族を手に掛けんとするミヤコの眼は、すでに先程までの影は消え去り、何も映してはいないのだ。最愛の、兄以外は……。
先日の女もそう。今まで一体何人の人間の命を奪ってきたのか。
(狂ってる……)
何者であろうとも、易々と命を奪ってよい理由にはならない。先程まで敵対していたとはいえ、血族に手を掛けられようとしているシヨウ達に対し、音彦の中に憐みの心が生まれていた。
音彦が手に力を集中した、その時。
「大人しく待っていろ。コレが終われば次はお前達兄妹の番だ」
燃えるような赤の視線が音彦を貫いた。
先程見えたモノは幻などではなかったのだ。重く、緩く、ミヤコの中に蠢いていたのだ。
音彦が凝視する中で、あっという間にミヤコの赤い瞳には蛇の瞳孔が宿り、白い肌には鱗が浮かび上がった。
「蛇……」
ぞわり、と音彦の背筋を寒気が駆け上がっていった。
詩織が、妹がそこにいるというのに。
逃げ出したい、恐れという感情が全身を支配したかに感じられたのだ。
何とか瞼を閉じるのが精一杯だった。




