12 鈍くゆがむ調律
「ぅ!!」
にじり寄ってきていた蛇が飛び掛かってきた。
瞬間に刺すような痛みが頬を走り抜けてゆく。
「わたくしの眷属が嫌いですって? 聞き間違いかしら」
震えが走る指で頬をたどると、赤い血がついてきた。その向こう、しゃなりと近寄り、膝をつく音彦の目の前に立ったシヨウは見たことのない表情をたたえている。
直後、音彦の眼に鋭い緊張が走った。咄嗟に腕を上げる。
「っ!!」
シヨウが音彦の顔面を蹴りつけたのだ。音彦の視界に火花が散る。
続いて腕を振り上げたシヨウは何度も音彦に向かって腕を振り下ろした。激しい痛みに、音彦は堪らずその場に倒れ込んだ。
両腕で頭を守るので精一杯だった。音彦は激痛に呻き、身体を丸めるしか出来ない。
「今日は静かにしていてもらわないといけないの」
動かなくなった音彦の身体から刃物を引き抜く。鮮血が豪奢な着物に跳ねたが、今のシヨウはどうやら気付いていないらしかった。
しゅるりと刃物から成り戻った黒蛇は、シヨウの手首を伝い、細い首元にぐるりと輪をかける。
「貴方は生かすよう言われているのだけれど、わたくしの気持ちも姉様は理解して下さるはず」
「最初からこのお兄ちゃんも傀儡人にしていれば良かったのにねえ」
このやりとりの中、音彦の意識は激痛に虚ろとなろうとしていた。白い部屋。霞む視界の中、姉妹の声も次第に遠くなろうとしていた。
(このまま、傀儡となって、そうしたら、楽になれるのだろうか)
決意し、ここに来た。たった1人の妹を救う為に、自分達の未来の為に。でも、届かなかった。もしかしたらという気持ちが無かったというなら嘘になる。所詮、甘い考えだったのか。
拳を握り締める。
悔しくても、哀しくても。
(涙も、出やしない……)
さっきはあんなにも、何度も溢れてきたというのに。
久野といる時には図りかねていた自身の気持ちが、今やっと判ったのかもしれない。
(そうか。あの時僕は、嬉しかったんだ。きっと……)
「静かにしろと言っただろう」
直後、女の声がした。地面を通して伝わってきた硬い声に、ゆっくりと視線をそちらに向ける。
ミヤコだった。1人ではない、側には例の男、野坂もいるではないか。
そして、その傍らの存在を見とめ、音彦の眼が見開かれる。
「詩織……」
音彦に気付き、詩織が小さな悲鳴を上げたのが判った。
駆け寄るのを野坂に阻止され、強引に祭壇へと連れていかれてしまったようだった。
(傀儡が、解けている?)
朧げな頭で考えていると、ふいに詩織の方を凝視していた視界が遮られた。
何者かに後頭部に手が掛けられ、強引に顔を上げさせられる。
「ごめんなさい、ミヤコ姉様。ですがほら、きちんと役目は果たしましたわ」
「褒めてっ! 褒めてっ! ツキミも頑張ったのよ?」
「……まだ生きているではないか」
冷ややかな笑みを向けるミヤコの眼光が赤く光った。
瞬間、冷たいモノが音彦の中に走り抜けた。
「!! ……まだ動けるですって?」
今まで音彦がいた場所に、衣服の一部がはらりと落ちる。
喉元を狙った姉妹の一撃は、音彦の衣服を切り裂くにとどめたのだ。
咄嗟の判断が生死を分けた。力を手足に込め、地面を蹴ったのだ。増幅されていた身体能力は速さと跳躍を生み、音彦は何とか難を逃れることに成功したのだった。
膝をつき、肩で息をしている音彦の胸元にうっすら裂傷が浮かび上がる。滲んだ赤い線からは、ぷくりと幾つもの血の玉が顔を出しはじめていた。
「一体どういうことなの……」
悔し気なシヨウの言葉に、音彦自身も驚きを隠せない。
徐々に身体が動かなくなっていた筈だ。だが今は、不思議と身体が動く。傷の痛みは変わらないが、不自然な程あった不快感がほとんど無くなっていたのだ。
(まだ、やれるのかもしれない)
「水よ……」
(我に、従えっ!!)
音彦の掌に紋が青白く浮かび上がる。
突如、部屋の中の水場から水柱が立った。
「なによ、これは……」
怯んだシヨウとツキミに向かってソレは、まるで意志を持ったの如く突進した。水龍の一閃は2人を抱え込んだまま跳ね飛ばし、壁に向かって弾け飛んだ。
(まだだっ)
「『白のみうみ けけれあれや 氷雨のみうみよ』」
壁に叩きつけられた姉妹が、よろめきながらも立ち上がろうとした、その時。
足元に散った水が変化した。姉妹の身体に這い上がり、それは徐々に白く変化してゆく。
「いやっ…あぁ」
見る間の出来事だった。
足元から、口元を覆うまでに氷の像と化した姉妹は両眼を見開き、口をパクパクとさせている。
「ひぃっ」
その光景を見た野坂の悲鳴が上がった。見ると、野坂の側に詩織が仰向けで倒れている。その瞳は、また固く閉じられている。
「詩織に何をしたっ!?」
祭壇岩の上には明らかに儀式めいた道具が置かれ、何かが行われようとしている事は明白だった。
「……腰抜けが」
音彦の叫びに、脱兎のごとく逃げ出した野坂の背中は、あっという間に見えなくなってしまった。
呟いたミヤコはゆっくりと、水場へと入っていった。着物が濡れるのも構わず、静かに、進む。次第に水は潮の満ち引きかの様に白く色を変えてゆく。
そして何かの始まりを告げる光が、音彦の眼前、祭壇上で眩い光を発した。




