11 まとわりつく不穏な序曲
「貴方、いつの間に力を使えるようになったのかしら?」
(今のは、幻影だったのか)
音彦は後ずさった。
「お前に答えるつもりはない。本物の詩織はどこだっ!!」
広く、耳をつく緩い風の中、音彦の声が僅かに響く。
「今日の日はとても大切な日。いい子だから、騒がしくしないでおいで? ミヤコ姉様に叱られてしまう」
「そうなのよ、シヨウ姉様の言う通りなのだわ。でもねえ、ツキミは知りたいの! ねえねえ沢木のかた、どこで術式を習ってきたの?」
だが、すでに背後にも邪悪な気配は迫っていた。
耳をつく高らかな音。三女のツキミがそこに立っていたのだ。
くりくりとした大きな瞳が意地悪げに歪む。赤く光っていたのは見間違いか、いや、そうではない。
「あっはは! わたしと遊ぼうっ!!」
軽やかに跳ねたツキミから放たれた何かが弧を描き、音彦に迫りくる。
「くそ……!!」
痛みで手は痺れているが構っていられない。何とか力を込め1つ印を切ると、そのまま腕を払った。
音彦の目の前に構築された氷の壁が出現したのと、鈍い音が聞こえたのはほぼ同時だった。
突き立った2つは小さな刃だ。切っ先は僅かに氷壁を貫通していた。
(もう少し迷っていたら……)
息を呑んだ音彦が僅かに怯んだ。途端に穴から亀裂が起き、ばらばらと氷壁は崩れ去ってしまう。
その氷の瓦礫の中に蠢くものを見止め、音彦の顔色が変わった。
「そんなっ……まさか」
氷壁に突き刺さっていたのは刃物などではなかったのだ。
「かーわいいでしょう? 私の大事な黒蛇ちゃんたち。ねえ、沢木のかたも可愛がって?」
「あらあら、ツキミったら我儘なのだから。控えなさい? わたくしも一緒にとミヤコ姉様と約束したでしょう?」
シヨウとツキミは可笑しそうに声を立てて笑っている。
蜷局を巻き威嚇していた2匹の黒蛇が地面を滑るように迫ってきた。蛇、ツキミ、そしてシヨウ。音彦は距離を取りながら3者に視線を走らせる。
身を隠す場所も無いこの空間で敵に囲まれ、自身は傷も負ってしまっている。
(どうする!?)
ずくんとずくんと、シヨウから受けた傷が先程からずっと痛みを伝えている。
音彦は何気なくふっと、視線を腕に向けた。その時の粟立つ感覚は例えようもない。
何かが頭の隅に引っ掛かっていたのだ、ずっと。
「ぅあっ……!!」
シヨウから受けた刃物は、『ソレ』ではなかった。
腕に刺さっていると思っていたのは、喰らいつく蛇だった。皮膚に牙を突き立てていた蛇は衣服を喰い破り真皮に達し、深く肉を貪っていたのだ。
認識した途端、視界にあった刃物は完全に蛇の姿へと実体化した。
腕に喰いついていた蛇を己の肉ごと引き千切ると投げ捨てる。
「……っぅ」
強い瞳をシヨウ達へと向けた音彦だったが、ぐらりと身体が傾き、膝をついてしまう。
「あら、ひどい」
そのまま自らの肩に戻ってきた黒蛇を、シヨウは愛おしそうに撫でている。
「生憎、蛇は好きじゃない……」
軽口をたたくが、肩で息をしている音彦の状態は誰が見ても明らかだった。
予想以上に体力の消耗が激しい。身体中、いたる所から熱そのものを搾り取られるような感覚が音彦を襲っていた。血が巡るその度に、器官が、肢体が、徐々に冷たく、動きが鈍くなっている気がするのだ。
明らかに気のせいではない。
(術を使うことである程度体力が削られるとはいえ、ここまでの倦怠感は異常だ。まさか……)
毒。
考え浮かんだ1つの答えはシンプルなものだった。
「あ! ねえねえ。寒い? そうやってね、じっとしてる方がいいのよ~? 動くと早く冷たくなっちゃうからね。ツキミ、貴方の苦しむ姿をもっと見たいから。ねえねえ、痛い? 苦しい?」
そしてそれはツキミの言葉によって肯定される。
音彦は唇を噛んだ。




