1 はじまりの音色
そこに水は流れていた。
水の音のなんと心地いいことだろう。音彦は仕切られた淵の側まで行くと、その光景を黙って見つめていた。
目の前に広がる空間は100平米程で、ほとんどを水が占めている。
空間の奥、中央に白い祭壇が鎮座しており、他に無駄なものは何もない。今聞こえているのは、そこから伝い流れる水音、ただそれだけなのだろう。
まるで深い水底にいるようだ。
思い出されたのは幼き日に潜った夏の遊び場。遠くに聞こえる誰かの笑い声、くぐもった振動を肌に感じ、音彦は瞳を閉じて意識を集中した。
とぷん……と、耳に音が響き、意識が底に沈み込んでゆく。
水の中を手でかき、足を蹴っても平地のように身体は動かない。身体は鈍くしか動かず、息も出来ず、水に、泡に阻まれる。
今もまた、同様の感覚に音彦の全身は包まれ始めていた。
ここは水中などではないのに、身体のあらゆる器官が誤認識をしているかのようだった。
音彦が先程歩いてきた土間に点々とあったのは、雨上がりにある水たまりに形状が似ていた。似た白い水、今眼前に広がる水辺からも同じ干渉を音彦は感じていた。
「くそ……」
音彦は閉じていた瞳を開ける。
そこはただの、足首の高さ程までの水があるだけだ。しかし気持ちを強く保っていなければ、今にも水の激しい渦に心ごと浚われてしまう。呼ばれる、引き寄せられる。そう言った方がよいだろうか。
本心は行きたい筈であるのに、音彦の中にある血族の証が警笛を鳴らしている。それは水に囚われそうになるぎりぎりの淵で身体を押し留めようとしていたのかもしれなかった。
(こんなにも力の差があるのか……)
音彦は思わず唇を噛み締めた。
足元にある水と淵を隔てていた幾つもの札が揺れたのはその時だ。
確かめるように伸ばした手が、静電気に触れたかのように弾かれる。白く散ったそれは冷気だろう。
(この結界も、自分の力だけでは解けない)
両手を握り締め耐える音彦を嘲笑うかのように、水はただ美しく、静かに煌めいていた。
口惜しい。取り巻く現状の理不尽さと己の不甲斐なさで、音彦の心にさざ波が立ちはじめていた。
音彦が見つめる先にある祭壇の中央、一段高い所に銅鏡が粛然と立て置かれている。銅鏡の中心には蛟の文様、その外周を幾何学的文様が巡る。
水は銅鏡から溢れ、流れ落ちているのだ。白い、半透明の水だった。傾斜をつけた樋に集められた水が竪樋を伝い落ちる。
ぬるりと、ゆっくりと辿るように静かに。水が流れる先にあるのは、大人が寝そべっても余りある程の平らな祭壇岩があった。
白い水を受け止めるのは、なんだ。
「詩織……」
神道の装束を身に纏い、眠る少女。
あの日以来、妹と言葉を交わした記憶はない。
次の言葉を飲み込み、音彦は踵を返した。
己が犯した過ちを、苦く、深く、反芻をしながら。