伏魔団地 旧館
差し替え前のお話です。
【第1章】
【第0号棟 悪泥啜る混沌の住民】
【サブタイトル】
第001号室 無限回廊
【本文】
生温い風に頬を撫でられ目を覚ました少女、小夜は素早く辺りを見渡した。
海に溺れて逝く夕日が廃墟同然のマンションを不気味に染め上げ、夕日の届かない階段の陰からスズムシにもコオロギにも似た耳障りな羽音が響き不安を煽ぐ。
じっとりと湿った空気に生臭くカビた臭いが鼻をつき思わずえずく。ざらざらとしていながら何処か滑り気を感じさせるコンクリートの床は冷たく接地面から体温を奪う。
地平の果てまで続く、細く真っ直ぐに延びたマンションの通路、壁を背に脚を投げ出して座っていた小夜は立ち上がりスカートの汚れを払うと、顔を拭い靄のかかった意識をはっきりとさせると、肩に掛けていた真っ赤なランドセルから、身代わりのおままごと人形を取り出し異常が無いか確かめる。
「フフン………」
人形の服がぐっしょり水に濡れ、襟を捲ると首に締め上げられたような痕がくっきりと残っていた。悪性の憑依霊にでも取り付かれていた所を、身代わりになってくれたのだろうがいつものことである。
一通り調べ終わるとすでに効力の失われた人形をマンションの塀の外へ投げ捨てる。下の階から年老いたカラスのような囁き声が聞こえると上の階から新品の人形が降ってきた。
素早く人形へ馬乗りになり動き出す前に首を締め上げる。さらに念押しで四肢を折っておく。仕上げに花柄の折り畳み式果物ナイフを取り出して人形の背中を割き、自分の髪の毛を数本抜いて中に押し込めば完成。
身代わりとしての効力を取り戻した人形をランドセルへしまうと、もう一度辺りを今度はゆっくりと見渡し立ち上がった。
果てしなく続くように見える通路は恐らく両端がつながってループでもしているのだろう。このマンションでは至極有り触れた仕様ではあるが一応確かめることにする。
リコーダーのようにランドセルへ逆さまに差した小型の釣り竿を取り出し、壁面の小窓の鉄格子に釣り糸を結び付けて歩き出す。この釣り糸は蛍光色の黄色い糸に10mごとに赤、100mごとに青と印が付いていて距離が分かりやすいのでお気に入り。
このマンション内では時間は無限なのでのんびり、ゆっくり、、じっくり、、、細心の注意を払って進む。
壁側には槐色の塗料が剥げて錆び付き、床側がボロボロになったドアが等間隔で並び、その横に磨りガラスのはめられた格子付きの小窓が付いていた。その小窓から時折、人の視線を感じたが人である訳は間違いなく無いので気付かない振りをする。
吐き出した釣り糸が600mを越えた辺りでガラスの割れる音が遠く何処からともなく聞こえて来て、ハッと息を吞みつつ震え上がった。
足元には伸ばして来た釣り糸が何週分も積み重なっている。先程はなぜか見ようとも思わなかった表札の部屋番を見ると1から7部屋分の通し番号の後、番号の振られていない部屋が挟み込まれ、その後また1から7が続いていることに気付いた。
無駄に伸ばした釣り糸を巻き取りながら欠番の部屋を見つめる。外観は他の部屋と遜色無くボロボロ、錆び錆びであったが、それとセットの小窓からは他の部屋の小窓から感じる人の気配とは少し違った違和感を覚えた。
「あやしいわね」
人のようで人ではない、人の霊でもなさそうで、人ではない何かが人の振りをしているような、そんな存在を思い浮かべ、巻き終わった釣り竿をランドセルへ戻し、代わりに水鉄砲を取り出す。
「………」
悪魔や霊的な存在ではなく、しっかりとした肉体を持ち、有機的で知性を持ち合わせているモノだろうか、恐々とドアノブに手を伸ばす。
「………?」
言葉を持たず、老獪で、悪意に満ち、生臭く、汚らしく、醜い、名状しがたき邪悪の権化、団地ダゴンは気付かれたと覚るや否や、通路を塞ぎ欠番の部屋へと擬態していた触手でもってマンションの深淵、奥深くへと少女が「あっ!!」っという間に引きずり込んだ。
------------------------- 第2部分開始 -------------------------
【サブタイトル】
第002号室 人形
【本文】
老木のように太く巨大で、競走馬のように黒く筋肉質で、タコのように吸盤が生え揃い、ナメクジのように滑り気のある分泌物で覆われた触手はランドセルの少女、小夜に巻き付くと、猛烈な勢いでマンションの階段を駆け上がり、加速して通路を横切り、のたうちながら配管を抜け、建屋の吹き抜けを自由落下、生活感はあれど人のいない部屋の中を縦横無尽に駆け抜けて行く。
途中、入り組んだ場所や急な曲がり角では、速度を落とし小夜が壁や障害物にぶつからないように気を払い、おもちゃとしての価値を損なわぬよう、あくまで生きたまま運ぶことに注力しているようだった。
全身に密着する様に巻き付いていた触手だったが、背中のランドセルごと取り込んでいた為、僅かに隙間が出来ていた。何度も身じろぎして態勢を整え、ランドセル横のストラップに手を伸ばし、防犯ブザーの代わりに取り付けていたスタングレネードを引っこ抜く。巻きつく触手を渾身の力でこじ開けてスタングレネードと身体の間にランドセルをねじ込み、力いっぱい目を瞑る。
既定の再利用回数を数十回とオーバーしたスチールケースに、家庭科学の自家製炸薬を詰め込んだスタングレネードは、純正品には及ばずとも強烈な閃光と爆音で触手を怯ませ一瞬の隙を作り出すと共に、無防備だった小夜の聴覚を破壊、三半規管は平衡を失い見当識障害を引き起こすほどの衝撃で、小夜の小さな肉体のリミッターを決壊させた。
「いゃあああああああ…………………!!!」
限界を超えた怪力で滑りを物ともせず触手を押しのけ拘束から抜け出す。
朦朧とする意識の中、一緒に巻き込まれていた水鉄砲を拾い上げ、次にスタングレネードのケースに取り付けられたワイヤーを思い切り引っ張り、その反動でワイヤーを左腕に巻き付けケースを回収すると、転がりながら必死に走り出した。
すぐにバランスを崩して壁面に向かってつんのめる。庇おうと突き出した両手が壁を突き破り、厚手のプラスチックが割れて出来たような穴に飲み込まれる。
「はっ!?」
異形に飲まれたかと戦慄するが、すぐに緊急避難時に破壊できるようになっているベランダの仕切り板を抜いた事に気付き、開いた穴に身体をねじ込む。
エアコンの室外機、鉢植えのチューリップ、どこか見覚えのあるアサガオのプランター、一世帯分の家族の値段の高そうな洗濯物、穴の先はだだっ広いベランダだった。
ランドセルを下ろしガラス戸に叩き付ける。一度目は上手く割れず跳ね返えされた。焦る気持ちを抑えて角度を変え、ランドセルの金具が上手く当たるように調節しながら何度も叩き付け、ガラスが砕けると手をつっ込み戸のロックを外して、跳ね飛ばすように戸を開き室内へお邪魔する。
嫌に発色のいい緑黄色野菜のサラダ、食品サンプルのような出来栄えのオムライス、虹色の油が浮いたコンソメスープ、5人分の食事が用意されたテーブルには、炭化して真っ黒になった成人女性のマネキン人形が一体、子供のマネキンが三体、綺麗な洋服を着て座っていた。
ガサガサと音を立て炭化した首を回し、一斉に小夜の方を向くマネキン達。小夜が土足でリビングを駆け抜けて行くのを見るや、座っていた椅子が吹き飛ぶ勢いで立ち上がり、バレリーナを彷彿とさせる優雅な所作で、焼け落ちた関節を軋ませ、爪先立ちになり超高速で襲い掛かる。
マネキン達よりも更に素早く水鉄砲を構え連続ヘッドショット。
半導体メーカー御用達の超純水に、地中海の清らかな乙女が煮詰めた塩を溶かし、バチカンの女祓魔師が祝福した塩分濃度20%の聖水は、炭化したマネキン達から瞬時に穢れを払い、取り憑いていた悪霊を浄化し消滅させた。
回復しつつある聴覚に甲高い耳鳴りと混じって、ベランダからバキバキと蹴破り戸を割る触手の音が聞こえて来る。
再びリビングを抜けようと身体を向き直した瞬間、乱暴に玄関の扉が開かれ、天井に届きそうなほど高く、廊下の横幅いっぱいに広がるほど巨大な炭化したマネキンの塊が雪崩れ込んで来た。
炭になっていても分かるほど筋骨隆々とした成人男性型のマネキンに、三体の子供型のマネキンと一体の女性型のマネキンが熱で溶け固まって癒着している。
ヘッドロックされた女性型のマネキンが狂ったように手足をバタつかせ、床板をえぐり、電灯を叩き割り、壁紙に爪を立てて剥がし取ると、真っ黒に焼け爛れた壁の下地が露わになった。
チッと短く舌打ち、水鉄砲の聖水を放射するも抱き付くように張り付いた子供型のマネキンが盾になっている上、男性型自体が大き過ぎるのか効果が薄い。
聖水を嫌って猛狂ったマネキンが怪腕を振うと剥がれた子供型が床に、壁に、天井にとバウンドし、バラバラに砕けて飛び散ってくる。
米軍仕込みのカバーリングで廊下からリビングの陰に隠れて躱すと素早く反撃、水鉄砲で男性型の両膝を撃ち抜き、部分的に浄化して動きを止める。
水鉄砲のタンクボトルを手早く回して取り外す。脚のもげた男性型の手を引っ張って引きずる女性型を、タンクボトルが取り外された水鉄砲に残った聖水だけで浄化。男性型へはタンクボトルから直接聖水を、たっぷりと浴びせて贅沢に浄化。
最期の悪足掻きに巻き込まれぬようリビング中程まで戻り、水鉄砲にタンクボトルを繋げ直しながら様子を伺っていると、不意に背後から悪意を感じ、足元を水鉄砲で掃射する。
先程飛び散っていた子供型が小夜の足首を掴もうと伸ばした手を聖水で弾く。小夜の間髪入れない追撃を子供型が躱しベランダまで飛び退くと、猛牛のように突進して来た極太の触手に跳ね飛ばされ、粉々に砕け散った。
「あぁ………!」
物言わぬ触手から明確な殺意を感じ取り足が竦む。ガラス戸を突き破り、リビングを触手がなぎ払う。倒れ込むようにして身を躱し、リビングと直結したオープンキッチンに滑り込んで素早く祈る。
ガスで焼いてやりなさいな、と天の声が聞こえた気がしたので、コンロの摘みをカチッと捻り、ガスを充満させる為、火が付かないよう摘みを調節して火の付かないことを確認、確信、息を飲み、ガッカリ、鼻を鳴らす。
「フフン、これI・Hじゃないの………」
嘲笑うかのように触手が鎌首を擡げた。
------------------------- 第3部分開始 -------------------------
【サブタイトル】
第003号室 触手
【本文】
今ランドセルの少女、小夜のいるマンションのリビングは、富裕層向けの大型物件のようではあったが、小夜の後を追いベランダからガラス戸を薙ぎ払ってリビングに侵入して来た巨大な触手にとっては手狭なようで、とぐろを巻き窮屈そうに先端を擡げていた。
永遠と後から続く触手の胴体が波打ち、その都度バネを押し込めるかの如く太く、堅く、馬並みに膨れ上がり、しっかりと狙いを定めその蓄えた力を解き放つ瞬間を伺う。
脈打つたびに触手から搾り出された生臭い粘液が、泡立ち白濁して触手の先端から飛沫を飛ばす。
コンロの端を掴み肩をいからせる小夜、触手と正面から睨み合い出し抜く手段を考える。
触手の膨れ上がった胴体が天井の照明を押し潰し火花が散った瞬間、分厚い鉄板を打ち抜いたかのような轟音を響かせ触手が爆ぜた。
身を捩ってなんとか躱す。あれだけ正面から仕掛ける気満々の構えを見せられれば、攻撃の軌道もある程度は予測出来るので、この一撃に関しては避けられる自信があった。しかし、躱した触手が背後の壁を打った際の衝撃は凄まじく、押し退けられた空気が鈍器となって小夜の全身を打ち付け弾き飛ばす。
沸き立つ視界の隅で黒光りする物体が蠢く。
もたれ掛かった収納棚が開き包丁の柄が見えた。順手で包丁を握り、壁を貫通してしまいもたつく触手へ思いっきり振り下ろす。
包丁の刃が見えなくなるまでめり込んだかと思うと、次の瞬間、触手の締め固まった強靭な筋繊維によって弾き飛ばされ、包丁は小夜の手を離れて天井に突き刺さった。
半狂乱に取り乱し台所用品を手当たり次第、掴み上げては触手に叩き付ける。
壁を貫通して引っ掛かった触手が先端を細く、壁に出来た穴より小さく伸縮させて脱出、小夜に向き直る。
まな板で触手の先端を弾き飛ばす、重量の軽い先端部分は小夜の筋力でもいなす事が出来たが、まな板を保持しきれず弾いた反動で手から離れて飛んで行く。
フライパンでぶっ叩く、握り心地は最高だったが触手の吸盤に張り付き奪われた。
ひと抱えほどもある巨大な縦長のガラス瓶容器、持ち上げる前に触手に払われ悲鳴を上げる。床に叩き付けられたケースの蓋が開きパスタが床一面に散らばった。
いくつか並んだプラスチック製の調味料ストッカーの中から手近な一つを掴んで叩き付ける。ストッカーが砕けて割れ、細かい粒子状の粉がキッチンいっぱいに広がり目を眩ます。
触手がフェイントを仕掛けて二つ目のストッカーが宙を切り、持ち手が遠心力に耐え切れず壊れて容器が床に叩き付けられる。茶色いザラザラとした砂粒状の結晶が跳ねて、床に散らばったパスタと混ざり合う。
小夜の腕と同じくらいまで細くなった触手が、隙をついて左腕に絡みつく。全身が筋繊維で出来ている触手の締め付けは、それと同サイズの蛇など比べ物にならない馬力で腕に食い込み、ギリギリと締め上げて行く。
「ぎゃ………!」
肉を掻き分け直接骨を掴まれているかのような激痛が、腕へ螺旋状に巻き付く触手に沿って伝わって来る。痛みによって全身が萎縮し、筋肉が強張ってほとんど抵抗出来ない。
捻り上げられた腕を起点に小夜の身体が床から浮き上がり、その場でゆっくりと回転するごとに触手の胴が小夜の身体に巻き付いて行く。
肺が潰され否応なしに息が吐き出される。血液の流れが阻害され脈が乱れ、心臓が唸る。胃が押し上げられ口の中が酸っぱくなって嗚咽する。
死に物狂いで右手を伸ばし砂粒ほどで透き通った結晶が入った三つ目の調味料ストッカーを掴む。壁に打ち付け蓋を飛ばす。丁寧に逆さまにして触手の上へ被せ、ゆっくりとなすりつけてやる。
一つ目の舞い上がった細かな粉が小麦粉、二つ目の茶色がかった粒がおそらく黒砂糖、この三つ目が塩ならまだ可能性があると思った。
触手が一瞬戸惑ったように静止すると、表面が文字通り白黒と点滅し出す。触手全体から粘液が滝のように流れ出し、その分胴回りが細くなり、塩を掛けられたナメクジのように身悶えのた打ち始める。
「お塩って、だいたいのに効くのよね………」
緩んだ拘束を解こうと手を掛けた瞬間、触手が波打ち小夜を背中から壁に叩きつける。ランドセルがクッションになって衝撃を吸収するが、固定されていない首がムチ打ち前後にしなる。
脳が揺らされ意識が飛びそうになる。再び触手が波打ち今度は天井へ叩きつけられる。またもランドセルがクッションになったが、同時に首と脳が千切れんばかり揺さぶられる。
小夜を押し潰そうと天井にへこみができるほど圧を強める触手、小夜の朦朧とする意識の端に天井に突き刺さった包丁が映った。
「フフン………」
不自然なまでに身体を捩じり関節が悲鳴を上げる。渾身の力で触手を掴み身体を押し出す。ランドセルの肩紐がずれてスペースが空き、拘束から外れて上半身が自由になった。
包丁を両手で掴み身体を引き寄せると、靴を残して触手から足が抜け空中で全身が自由になる。同時に天井から引き抜いた包丁を体の中央で構え、塩が多く付着し、粘液が剥がれ、色が抜け、白く変色した箇所へ、全体重と落下の勢いを重ねて突き立てた。
先端から3m地点の胴体に突き立てられた包丁は、最初に切りつけた時とは比べ物にならないほど、あっけなく触手の胴体半分を切り裂いて神経を切断、瞬時に切り口から先が真っ白に変色し意思を失い渦巻き状に丸くなる。
手痛い反撃を受け、著しく機能を欠損した触手は混乱し戦意を喪失、力なく白く渦巻く触手の先端を後ろの胴で不器用に巻き込むとマンションの一室から小夜を残して姿を消した。
------------------------- 第4部分開始 -------------------------
【サブタイトル】
第004号室 水子
【本文】
触手に特に強く巻き付かれた左腕の袖を捲り上げる。手首から肩の付け根にかけて鬱血し、螺旋状の痣がくっきりと出来ていた。手のひらを開いては握り直し、何度か繰り返して怪我の具合を確かめる。鈍く芯に響く痛みがあったが我慢できないほどではない。
「………久しぶりに、ヒヤッとしたわね」
過去に団地の公営スポーツジムでマッチョなゾンビから奪ったステロイドのど飴を痛み止めのつもりで舐める。捲っていた袖を戻し、せっかく制圧したのだからと、家主のいなくなった部屋を物色することにした。
お腹が空いたのでまずオープンキッチンの、ドアから赤い液体を滴らせる冷蔵庫を開ける。ルービックキューブ状に切り出され、鮮血溢れるランダムカットミートが一切の隙間無く押し込まれていた。これは団地の冷蔵庫を開ければ大抵手に入る食材だったが、全く血抜きされていないうえ、部位は疎か何の生き物から切り取られた肉か分からないので、ぱっと見でA5ランク霜降りサーロインっ!くらい分かり安いものでないと食べる気にはならなかった。
「ミートガチャは全部ハズレ。………最後にお肉食べたのいつだったかしら?」
冷蔵庫のドアポケットから紅卵をエッグトレイごと取り出し調理台に置き、その手前に食器棚から出した切子硝子の無骨なウイスキーグラスを、卵と同じ数だけ並べてその中に一つずつ割りいて行く。
団地にある外側から観測できない物体の中身は基本闇なので、卵の中から出て来るものは黄身と白身とは限らず、黄身の代りに大きな魚の目玉が出て来たり、人の胎児が出てきたり、ピンポン玉や生きてるヒヨコ、果ては100カラット近いブリリアントカットのただのガラス玉が出てきたりした。
「今回のたまごガチャは本物三個、ゴミが二個、良品が三個、………や、このヒヨコがメスなら、将来たまごの確保が恒久的に可能に?………晩成型のスーパーレアかも知れないわねぇ」
流しの三角コーナーへハズレの目玉と胎児を放り込み、ヒヨコとガラスはそのまま、本物の卵っぽいものはキッチンのボールに移して掻き混ぜる。
三角コーナーから微かな声がする。
「ママ………」
卵を混ぜる手を止めて三角コーナーに薄目で流し目をやると、先程捨てた胎児がモゾモゾ動き、魚の目玉に齧り付いていた。目玉からゼリー状の液体を啜り嚥下するごとに、胎児の身体がひと回りずつ大きくなり、醜く太って行く。
「ママ………!ママ………!!」
ちょっとうるさいので三角コーナーごと冷蔵庫の肉に突っ込んで収納。
「ママぁああ!!くらぁいよママ!!」
「………(卵をかき混ぜる)」
「ママぁあああああ!!」
「………(床から拾った砂糖大さじたくさん)」
「あああああああああ!!!」
「チッ、(床から拾った塩ひとつまみ)」
はぁ、と重々しく溜息を付き冷蔵庫を開ける。赤ちゃんサイズに育った異形を掴み上げ、お~よしよし今度は冷凍室にしまう。
「ママ!さむいのぉおおおお!!」
「わたしは、ママじゃないのぉ〜〜〜………(カチャカチャ)」
水子霊の扱いなど、こなれたものである。しばらくすると凍ってしまったのか何も聞こえなくなった。
IHコンロでテフロン加工のフライパンを温め、油は引かずに溶いた卵を流し込む。忙しなく菜箸を動かし続け、出来るだけ細かいスクランブルエッグに仕上げと、4枚切りの食パン2枚へ均等に盛り付け、残りのパンで挟み2つのたまごサンドウィッチが出来上がった。
触手を切ったものとは別の包丁で食パンの耳を切り落とし、十字に四等分、舐めていた飴を適当に吐き出し、効きやしなかったわねとサンドウィッチにかじり付く、あまりの味気無さにこんなものかと鼻を鳴らす。
食べきれなかったサンドウィッチを、ラップでくるんでランドセルにしまうと他の部屋を見る。どの部屋もドアを開ければそこは壁といった具合で取れ高が無く、しょうがないのでリビングに戻りテレビの傍に散らかったリモコンから電池を回収し、グラスに入れっぱしだったヒヨコを床に放してマネキンの部屋を後にした。
------------------------- 第5部分開始 -------------------------
【サブタイトル】
第005号室 悪魔憑き
【本文】
マンションの廊下は薄汚く煤けた打ちぱなっしのコンクリートに四方を囲まれ、隈なく影を落とす。片や質素な壁に不釣り合いな豪奢なドアが並び、片やクモの巣状にヒビが走る壁に劣化し粉を吹いたアルミサッシ窓が等間隔に並ぶ。
タマゴガチャから生まれたヒヨコはかわいいことにランドセルを背負った少女、小夜の後からピヨピヨついてくる。せわしなく走り回っては小夜を追い越し、何もない廊下の窪みをつついてはまた走り出す。途中、小夜が見つけた消火器を持ち上げようとして、予想以上の重さに取り落とし床を打った金属音に驚いてひっくり返るヒヨコ。
「おっと、失礼」
両手で消火器を抱え直して持ち上げる。持ち歩くには少々重く感じたがどうせ直ぐに使ってしまうので問題ない。
早速、後ろから消魂しい悲鳴と共にスパイダーウォークして来た悪魔憑きへ噴射する。消火剤が悪魔祓いに有効であることは言うまでもなく常識的で、まともに食らい焼け爛れた顔面を両手で抑え絶叫するその土手っ腹にサッカーボールキック、自分のブラウスに襟首から手を突っ込んで首飾りを引っ張り出す。指に掛けて振り回し、風切り音と共に悪魔憑きの腕へ、脚へと叩きつける。100年禁欲を貫いた鍛冶師の打った十字架をあしらえた退魔絶品のロザリオは、レーザー光線のようにその珠数でもって悪魔憑きの肢体を切り落とした。
うつ伏せに転がり喚き散らす悪魔憑きに跨ると、素早く十字を切りながらロザリオを掌に巻き付け、十字架を握るように背中へ押し付ける。何か気の利いた聖書の一節でも唱えられれば良かったが、全く門外漢だったので十字架が心臓を潰すまでただ押し付け続けるのみだった。
「………はい、アーメン」
十字架が胸を貫通し悪魔憑きが沈黙したのを確認すると、締めの言葉くらいは知っていたので決めといた。
消火器の粉に塗れて真っ白になったヒヨコをピヨピヨ従え、階段から降りて来たゾンビに脚を引っ掛けると、バランスを崩したゾンビが窓に突っ込みガラスを破壊する。もがくゾンビの両足を掬い上げ窓の外へダイブさせてあげる。
階段を中段まで登り上階の様子を伺う。微かにゾンビの唸り声が聞こえたかと思うと一体、階段を転がり落ちて来たのでひょいっと脇に避けて躱す。階段の手すりに登り、立ち上がろうとするゾンビの首筋めがけて、ダイビングヒールストンピン。腐れ落ちたゾンビの首程度なら小夜の軽い体重を乗せた一撃でも十分に破壊することができた。が、着地失敗、背中から転げランドセル受け身、事なきを得る。
ゾンビがまだまだ、たくさん蠢いていそうなので上階は諦め下階へ進むことにした。
人間にとっては何でもない階段でもヒヨコにとっては体長の倍以上ある絶壁で、ピーチクパーチク散々右往左往した後、意を決したように飛び落ちる。
「………フフン」
ヒヨコを待ちながらゆっくりと降りて行く、一段下るごとに冷たく重い空気が足首に纏わりつく、階層を跨ぐと気温や湿度が変わることはよくあるのであまり気にしていなかったが、数段降ったところで眠るようにヒヨコが動かなくなり、眠るにしても脈絡がなさ過ぎるなと思い直す。
ぐったりと動かなくなったヒヨコを拾い上げようと手を伸ばし、身体を屈めようとして直ぐにやめる。
「………ガスかしら?」
この団地の中で生き残りたければ、平常時は疑り深く緊急時は殊更大胆で無ければならない。手を戻し指をこすり合わせ、微かに覚えた空気の冷たさを確かめる。手すりから身を乗り出し下段を覗き込むと、動かなくなったゾンビや生き物の死体が折り重なるように倒れていた。
「ガスかもしれないわね………」
真っ赤なクレヨンを取り出し、他の生存者へ向けてメッセージを残しておこうと、階段横の案内板を見ると、くすんで色褪せてはいたがすでに赤色のドクロマークとその横に『謝謝茄子』と書かれていた。
「あら、前にも来たことあったかしら?」
自分が残したメッセージなのに、見落とすなんて我ながらドジっ子よね、とランドセルからメモ用紙や付箋が切り貼りされて、分厚く膨らんだ学習ノートを取り出す。芸術的なまでの細工が施された飛び出す絵本式のアナログ3D地図は、空間を捻じ曲げ歪に重なり合うマンションの一部を無理やり図式化したもので、小夜お手製の一品だった。
「赤、ドクロ、階段、ガス、………ここね」
ページを捲り仕掛けを伸ばしてルートを検索する。知覚出来ずに飛ばされていたかと思えば、触手に方々連れ回され、散々な目に遭ったがまだまだツキが残っていたらしい。団地の中でしか放送されていない、謎の女児アニメの主人公のシールを張り付けたノートの一角を指で弾く。
「フフン、図書室行きのエレベーターがあるじゃない⤴︎⤴︎⤴︎」
給食袋から簡易ガスマスクと水泳ゴーグルを、ランドセルのポケットからゴミ袋を取り出す。ゴミ袋いっぱいに空気を溜めて膨らまし、マスクのカートリッジに細工して繋げたビニールホースを突っ込んで口を縛る。
予備としてもう一枚、ゴミ袋を膨らませ、水泳ゴーグルと即席の供給式ガスマスクを装着すると、ヒヨコの死骸を飛び越えてガス階層への階段を降りて行った。
------------------------- 第6部分開始 -------------------------
【サブタイトル】
第006号室 焼死体
【本文】
一歩一歩と進むごとにガスの粘度は濃く、より冷たくなって行く。ガスの比重が空気より重いため、ボンベ代りのゴミ袋が風船のように浮き上がり、天井から垂れ下がった吊り電球にぶつかって揺らし煤を落とす。
低所得層向け木造ワンルームの物件が、中廊下を挟んで向かい合うように並んでいたが、火事によるものか階層全体が焼け落ち、部屋と部屋の仕切りが無くなって、一つの大きな空間になっていた。
奥に進むほど酷くなる火事の痕跡、原型のなくなった雑貨が足下に散らばり、砕けた陶器や溶けたガラス、積み重なった電化製品の外装がケロイド状に爛れて溶け落ち、その影が何処となく苦悶に満ちた人間の顔を想わせた。
炭と化した柱や崩れた天井、光の届かない薄暗い空間、足元に目を凝らし大きな瓦礫と障害物を避け、壁と共に焼けて倒れたドアの上に乗る。2歩目を踏み出した時、下敷きになっていたドアノブがズレ動き、バランスを崩して尻餅を付く、ボンベ代わりのゴミ袋は意地でも離さない。破れていないか確認して立ち上がり、また歩き出したところで、焼けた柱から飛び出した釘に引っ掛け予備のゴミ袋が破ける。
「あら?」
比重の異なるガスと空気が混ざり合って光を屈折させ、暗闇に揺らめく陽炎を創り出す。ライフが半分になってしまったわと先を急ぐと、また、釘に引っ掛けて使用中のゴミ袋も破いた。
「あらら⤵︎」
ダッシュ!である。今更戻れる距離でもないので、息の続く間にこの階層を渡り切ろうと走り出す。
多少の障害物は飛び越える。木組みの丸い座卓を踏み台にするが、勢いよく踏み抜いて一回転、ランドセル受け身、がはっ!と空気を肺から全て吐き出す。
床に雪のように積もった漆黒の炭と灰を掻き分け立ち上がる。消毒液を鼻に流し込まれたような刺激に、咽返りそうになるのを真っ黒になった両掌でマスクごと抑え込み、また走る。
一室を突き破り爆発炎上して骨組みだけになった軽自動車のヘッドライトが輝き、漂う煤や塵と共に小夜を照らして対面の床に大きな影を映し出す。ガサガサに炭化し痩せ細った焼死体が関節を軋ませ追いすがる。
何処から湧いて来たの?さっきまでこんなの居なかったでしょ?ピンチになったとたんコレよ!心の中で悪態を付き、廊下を塞ぎ正面から這いずり迫る焼死体をトーキック、松の木の皮のように炭化した皮膚が刮げ取られて宙を舞い、ピンク色にローストされた皮下組織の表面をつま先が滑る。
どうにか反対側の階段に辿り着き無い息を更に吐き出す。ますます粘度を増すガスを掻き分け絶え絶えで階段を降る。階段の中程から身を乗り出し下の段へ頭から落ちる。最早液体と同等の密度をもったガスに包まれゆっくりと下降する。もう一度手摺から飛び降り、重力の裏返った階段の裏側に回り込む。
ランドセルを逆さまにして胸に抱き、今度シスターのお姉さん?と一緒に使おうと思っていた炭酸入浴剤の梱包を震える手で破き、逆さまのランドセルに突っ込む。我慢できずに息を吸い込もうとするが、液体がマスクのカートリッジに詰まり、数滴のガソリンが口腔内に吹き付けられただけだった。
炭酸入浴剤がブクブクと発泡し、二酸化炭素で逆さまになったランドセルを満たしていく。小夜の意識は朦朧とし、すでに指一つまともに動かせない状態であったが、二酸化炭素により浮力を得たランドセルによって引き上げられ、階段へ並々と注がれたガソリンの液面から顔を出した。
マスクを剥ぎ取り荒く呼吸をする。気化したガソリンの臭いが鼻を突き刺したが、吹きすさぶ風のお陰か死ぬほどの濃度では無かった、それでも肋骨が軋むほど咳き込む。
階段とガソリンの岸辺で息を整え、ランドセルからラップに包まれた、たまごサンドウィッチを取り出し齧り付く。ねっとりと舌に纏わり付きチクチクするガソリンを、パンで吸着して吐き出す。SM女王様の母から習ったご褒美を応用し、えげつない距離を飛ばして肺を酷使したのでまた咽る。
普段から濡れてもいいように、スクール水着を制服の下に着こんでいる為、ガソリンを吸って危険物と化したブラウスとスカートを脱ぎ捨て、革靴からガソリンを流す。
息も落ち着いてきたので壁に手を添え立ち上がる。全身が紅潮し眼球も血走っていたが構うことはない。前にウィスキーボンボンを、ただのチョコレートと思って食べてしまった時に似た、内側から脳みそを圧迫されるような頭痛に悩まされながら、中廊下を千鳥足でゆっくりと進み出す。
ガソリン階段から十分離れると、ランドセルから釣り竿を取り出して糸を外し、ガソリンに濡れた給食袋を先端に巻き付け伸ばす。コンタクトレンズケースから爆竹を取り出し床に置くと、釣り竿でしばき、安全に着火、小規模に爆発して心臓が止まるかと思った。
燃える給食袋を天井のスプリンクラーに押し付け作動させる。乾いた配管をボコボコと液体の流れる音が聞こえたかと思うと、直ぐに赤錆びた水か腐った血液が頭上から降り注いできた。ガソリンよりはましねと身体を洗いながら、これでもし、ガソリンや硫酸が降ってきたらどうするつもりだったのかと気付いて身震いした。
------------------------- 第7部分開始 -------------------------
【サブタイトル】
第007号室 魔鏡
【本文】
陰鬱と薄暗いマンションの中程、カタカタと整備不良の換気扇が音を立てて回転し、寿命間近の蛍光灯が乾いた放電音と共に点滅しながら、青白い光で共用のランドリールームを照らし出す。そんな中、スクール水着にランドセルな小夜は、着替えが欲しいと勝手に洗濯物をひっくり返していた。
洗濯機に溜まっていた水で身体に付着したガソリンと赤錆を濯ぎ、バスタオルで拭い取る。送風機の前に座り込んで髪を乾かし、白地のヨレヨレになった大きめのパーカーを羽織る。革靴と紺色のソックスを脱ぎ、水玉状に穴の開いた、偽ブランドのゴムサンダルに素足で履き替えた。
流し台の鏡に姿を写し、髪型が決まらないと毛先に指を絡めて捻る。ガソリンに錆水を被ったのだから、これは一度トリートメントしなきゃ駄目ねと、団地内サークルの草野球チームのロゴが入った、黒いベースボールキャップを深く被り、取り敢えず繕った。
帽子の角度や着こなしの微調整をしていると、突然鏡との同期が途切れ、鏡の中の自分が睨み付けてくる。血涙を流し、顔面の皮膚が断裂するまで口を広げた鏡の中の逆小夜が、絶叫しながら鏡を突き破り両手を順小夜の首に廻す。
順小夜がフンと鼻を鳴らしながら一歩踏み出すと、首を狙った逆小夜の両手が、打点をズラされ順小夜の背面で交差する。殴りつけるように順小夜が鏡から出てきた逆小夜の襟元を両手で掴むと、巴投げ、自分はランドセルで受け身を取りつつ、鏡から引き摺り出した逆小夜の脳天を、ランドリールームの床に叩き付ける。
ずっと鏡の中に居られれば、どうしようもなかったのだが、相手から出て来てくれるのなら話は別で、海老反りで跳ね上がる逆小夜の首を小脇に抱え、ジャンピング・ネックブレーカー・ドロップ、首を圧し折る。
なお立ち上がる逆小夜の鳩尾へ前蹴り、透かさずタックル、両足を抱え上げお尻からドラム洗濯機に押し込む。ドラムからはみ出した足首を掴んで押し込みガラス扉を勢いよく閉めると、這い出そうと抵抗しドラムの縁に掛けた逆小夜の指が拉げる。それでも足掻く逆小夜へタックルするように扉の開閉を繰り返し、完全に逆小夜を洗濯機へ閉じ込めると、洗濯機の電源を入れ適当にモードを選択、洗濯を開始する。
金切り声を上げる逆小夜が収まった洗濯機の扉にロックが掛かりドラムが回転を始める。徐々に加速する洗濯ドラム、暴れる逆小夜も直ぐに遠心力で押し付けられ指一本動かせない様子。それにしても回り過ぎでしょうと、洗濯機のモード表示を見て驚愕する。
【団地脱出速度乾燥】
「ウソ………!?ここから出られるってこと………っ?」
一瞬都合良く解釈し、期待に胸が高鳴ったが、際限なく加速を続ける洗濯機と、その中で何処までも薄く引き伸ばされていく逆小夜を見て、これは使えないなと冷めきってしまう。
「フフン、これはぬか(喜び)」
辺りの空気がざわつき途端に膨らみ始める洗濯機、ドラムの中が輝きミラーボール状態へ、プラズマやレーザー光が眩しく弾けたので、ちょっとこれは離れた方が良さそうと、少しだけ行く末が気になりながらも踵を返しサイドステップ。直後ドラムの中心がスーパーノヴァしてガンマバースト、極小ブラックホールが誕生と同時に消滅。
「あら………?」
ランドリールームの一画が直径4mの球状に刳り抜かれ、重力波が世界中を駆け巡った。
「ぎゃ!!!」
幽霊や悪魔、怪物に異形だけではなく、人知を超えた意味不明、理解不能な家電や雑貨、衣服に食べ物と、人々を貶めることに対しては妥協が無いと言うことを、この団地は生意気かます少女へ言葉無く示したのだった。
------------------------- 第8部分開始 -------------------------
【サブタイトル】
第008号室 名を伏せられし者
【本文】
団地の共用ランドリールームに出来た球状の穴を覗き込み、これだけの破壊力、いつか役に立つ事があるかも知れないと、残りの洗濯機も調べて見るが、特に変わりの無いただの洗濯機ばかりだった。
「小夜ちゃん、小夜ちゃん」
洗濯機と壁の隙間から、馴れ馴れしい合成音声が聞こえて来た。反射的に背筋が仰け反り冷や汗が噴き出す。名前を言っていけない例の者、小夜がこの団地の中で唯一、恐れ慄く絶対的存在の呼び声だった。
「どうも、お久しぶりです」
例の声が社交辞令的に挨拶をする。
小夜に返事を返す余裕など無く、唾を呑み込み乾いた喉を潤す。耳を澄まして相手の位置の把握に全神経を集中させる。瞬きも一切せずに視野角を広く保ち、如何な些細な動きも見逃さないよう努める。
(カサカサ、カサカサ!)
「あっ!」
視界の端をよく磨かれた、焦茶色の革靴のような物体が、弾丸のように横切って行った。あまりの速さに視界の焦点を合わせる間も無く、しっかりとした輪郭で捉えることは出来なかったが、小夜にとってその視覚情報は、人体のコントロールを失い尻餅を着くのに十分過ぎる精神汚染をもたらした。
「まって、まって、待って………!」
反射的に物体の影を追ってしまう首と眼球。洗面台の足元から二本、細長く炭素繊維のように柔軟で、艶のある髪の毛のような触角が嬉しそうに上下しているのに気付いてしまう。
「あ〜ダメダメ………」
触角を見詰めたまま、洗濯機の間に置かれていたスプレー洗剤を拾い上げて構える。
「………え?」
一切視線を外した覚えは無く、瞬きすらしていないというのに、洗面台から伸びていた触角が消えてしまっていた。
「洗剤なんて勘弁して下さい(嘲笑)死んでしまいますぅ(爆笑)」
頭上から声が聞こえたのと同時に、身体が反射的に動き、スプレー洗剤を真上に発射、天井へ届く前に重力に負け小夜の顔面に降り注ぐ。
「いあぁ!………目がぁあ!!」
「あ、目が潰れましたか?丁度いいです。そのまま、話を聞いてください(^。^)」
団地の魔に適応する為、量子電脳化し高度にサイボーグ化された団地・ SNGは、天井に張り付いたまま、黒光りする子猫サイズの身体を震わせると、諭すように話し始めた。
「個G的にですが、私はあなたのお父様に、大変深い恩義が有りま「そんなの、知らないわよ」
洗面台の蛇口から流れる水で顔を洗いながら、小夜がSNGの話を遮る。
「どうせまた、危ない真似するなって、言いに来たんでしょう?」
「え〜………はい、その通りです。我々のSNを駆使すれば、容易に安全地帯を確保出来ます。そこに滞在していれば、危険を冒してまで観測不能地帯を探索する必要は無いはずです。だから、探索なんて危ない事は辞めて、安地で暮らしましょう。先程も見てましたけど、あれ、洗濯機の正面に立っていたら、ガンマ線に撃たれて死んでましたよ?」
「必要あるわよ、行った事ないとこ探索するのは、………この団地の外へ出る方法が、必ず何処かにあるはずなんだから。…………?………さっきも見てたって、なによ?」
「ありませんよ、あったら教えていますとも」
「団地出身の奴に言われても、信用出来ないからね?………で、見てたっていつからいたのよ?」
「………ず~~~っと、見てました」
「………うん?」
「ヒヨコ死なせた辺りから………」
小夜が洗い終えた顔をパーカーで拭うと、SNGの不意を突き、スプレー洗剤を斜めに構えてに発射する。
「ちょ、やめて下さい(焦)」
驚いたSNGが天井から、ぽとり。剥がれ落ちて飛翔する。
「飛ぶのは、あまり得意じゃ無いんです(笑)」(ブーーーン!カシャカシャ、カシャカシャ!!)
「ひゃん………!!!」
真っ直ぐ小夜の顔面目掛けて飛び掛かるSNG、小夜が心臓から悲鳴を上げ横っ跳びで躱す。
「あ〜、乱気流発生!(笑)流されるぅ〜」
「ひゅっ!!」
小夜が急激に動いた事によって、発生した気流に流された事にしてSNGが悪ふざけ。進路を変え小夜の胸元目掛けて飛び掛かる。がしかし、小夜の後ろ回し蹴りが炸裂、SNGは(ギュワギュワ!ギュワギュワ!!)蝉のような断末魔を上げて吹っ飛ぶと昏倒して床に転がった。
「う〜ん、お見事(没)」
SNGが泡に塗れて見えなくなるまで、スプレー洗剤を吹き付ける。洗剤に含まれる塩素の臭いが立ち込め鼻をつき、思わず、ほんの一瞬、瞬きほどの、間、顔を背けてしまった。
「う〜ん、流石ね(憔)」
当然のように消えるSNGを讃え、虚空へ話しかける。
「洗剤で死ぬんじゃなかったの?」
「あなたの前に姿を現す時、私はいつも気門に酸素玉を取り付けています!」
何処からとも無く響くSNGの声が、ランドリールーム全体に反響して小夜を包み込む。
「まあ、取りあえず、今日は小夜ちゃんの元気そうな顔が見れて良かったです。もう、危ない事は程々にしてくださいね?どうせ、聞き入れちゃ貰えないんでしょうが………」
「あら、わかってるじゃない」
SNGの言葉が別れの挨拶のように聞こえたので、いなくなる前に真面目な質問をしてみる。
「ところであなた、でかい触手のこと何か知らない?」
「でかい触手?どの触手でしょう?」
「ドラム缶みたいに大きくて、色が変わって、片面にだけ吸盤がついてるタコの足みたいな奴。今まであんなの見た事ないんだけど」
「小夜ちゃんが見た事ないっとなると、あれですね。団地ダゴンの腕ですね。最近調子乗ってまして、貯水池から腕だけ伸ばして、団地の中ひっかき回してるんですよ」
「なあにそれ?ダゴンも貯水池も全然知らないんですけど?」
「そりゃ、小夜ちゃん、あなた、そんな事聞いたら見に行っちゃうでしょ?………あっ、」
小夜がフフンと鼻を鳴らす。団地SNGともあろう者が、不用意に話を漏らす訳無いので、小夜なら対処出来ると踏んでいるのだろう。
「そ、そう言えば、隊長と聖母様が小夜ちゃんのこと、心配して探し回ってましたよ。特に聖母様、結構無茶な事しているようですから、早く行って安心させて上げたらどうですか?」
わざとらしい失言を取り繕うように話を逸らす。暗にその二人を随伴させるよう、促しているのだと小夜は理解した。
「そうね、装備も丁度、底を潰いたところだったの。一度拠点に戻って、教授にも話しをして後で出直すわ」
「ええ、ええ、それがいいでしょう」
何処からとも無くカサカサと、遠ざかる足音が聞こえる。
「それでは、小夜ちゃん、お元気で!」
「バイバイ、ゴキちゃん、次は殺す!」
小夜は急に静かになった洗濯機や配管の影をしばらく眺め、SNGがが本当に居なくなったのを確かめると、肩からずり落ちたパーカーの襟を直し、数少ない協力者に心の中で感謝を述べつつ、ランドリールームを後にした。
------------------------- 第9部分開始 -------------------------
【サブタイトル】
第009号室 ブリキのおもちゃ
【本文】
小夜はランドリールームを出ると、直ぐ横にある団地中央エレベーターの呼び出しボタンを押した。経験則からこういうところは大体何かいるので、直ぐに距離を取って様子を伺う。『チンッ』と乾いた音と共にエレベーターの扉がスライドし、一抱えほどあるおもちゃのブリキロボットが現れると、エレベーターと廊下に出来た30cmほどの段差を飛び降り、ビープ音を響かせながら小夜に向き直って高速で突進して来た。
ロボットの顔の殆どを占める大きな二つの真っ赤な眼球に、光が収束し致命的なレーザー光線が放たれる。ロボットの頭上を飛び越え躱す小夜。
ロボットが首を一回転させレーザーで薙ぎ払う。ゴム飛びのように足踏みして躱す。
ロボットの首が二周目、突然首が伸び高さが変わり小夜の胴を狙う。息を吐き出し全力で仰け反ると、重力に引かれるよりも速く身体を床に叩きつけて躱す。
三周目、フェイントを織り交ぜ悪意に波打つレーザーを、ダンス振付師だった父から受け継いだ世界的センスと、キレッキレのフィジカルで流麗、華麗に掏り抜ける。
ロボットが射ち止め、頭部を戻してアフロ化、右手で天を指し、脚を開いてサタデーナイト☆フィーバー!高速回転でミラーボール状態の頭部から全方位レーザー照射で仕留めに掛かる。ロボットが変形する間に、床を蹴って後ろ向きにお尻で滑り、エレベーターの前へ移動すると側転で乗り込んだ。
死角に隠れてレーザーをやり過ごすと、エレベーターの閉ボタンを連打する。ゆっくりと移動するロボットの頭部が、煙を上げて真っ赤に赤熱し、外装が溶け落ち悪魔染みた形相の頭蓋骨が現れる。肩や胸、脚の外装が開きピンク色の肉を突き破って血に塗れたミサイルが展開される。
「はやく、はやく………!!」
ミサイルが点火され花火のような火花を噴き出し、徐々に勢いを増してロボットがガタガタと震え出す。
「………えいっ!」
火花が収束し今まさに発射されるといった瞬間、小夜がゴムサンダルを脱いで投げつけた。サンダルを肩に受け仰向けに倒れるロボット、ゼンマイの軋む音を上げ手足をバタつかせて起き上がろうとするも、小夜のもう片方のサンダルが飛んできて試みを挫いた。
「よし!」
エレベーターの扉が閉まり始めると同時に、ロボットのミサイルが床沿いに発射され、エレベーターと対面の壁に突き刺さり爆発、爆風に吹き飛ばされたロボットがエレベーターの中に飛び込んで来る。エレベーター内の扉横、操作盤の陰に隠れて爆風をやり過ごした小夜を見つけ、仰向けのまま笑うようにカタカタと揺えるロボットと、そう来たかと困惑する小夜。
「………フフン」
ミサイルの爆発をもろに受け、化けの皮を剥ぎ取られたロボットの中身は、充血した瞳から血涙を噴き出し、半分に割った米粒のような白い歯を剝き出してカチカチと鳴らす。生の手羽先に似た血塗れの腕を回転させ上体を起こすと、太い釣り針を重ねたような肋骨をバキバキと圧し折り観音開き。蛋白質の心臓とステンレスのゼンマイが、分子レベルで融合し中央から針の突き出した臓物を転び出す。
メトロノームのようにカチカチと左右に針を揺らす臓物、次第に針の往復する間隔が狭く、速くなり、ロボットがケタケタと笑い出す。
明らかに自爆するようにしか見えないので後先、向こう見ずに考えず、ロボットを掴み上げ閉まり切る寸前の扉にヘッドスライディング、何とかねじ込むも扉にロボットが挟まってしまった。
団地のエレベーターに安全装置等はなく、扉に挟まったロボットを容赦なく圧し潰していく。ロボットの背中を何度も蹴り突けるが、ガッチリと挟まってしまっていてビクともしない。メトロノームの間隔が益々狭くなる。
床に突っ伏しロボットのメトロノームを直接、掴む。渾身の力で引っ張るが、肉と銅線が絡み合い人力ではとても引き千切れそうに無い。エレベーターの扉が閉まり切っていないまま上昇を始める。
扉の隙間から、落ちてくるように見える廊下の天井を仰ぎ見て、小夜にイヒッ!と団地の魔が差した。
「腕とか一本あれば、じゅ~~~ぶん⤴︎⤴︎⤴︎」
エレベーターの内側に残らないよう、メトロノームを掴んだまま腕を扉の外に突き出す。目を見開き、歯を剝き出して笑っているかのように顔面が引き攣る。全身の毛穴から冷や汗が噴き出し、ゾクゾクと背筋が震える。
「~~~~っぱ、むりっ!!!」
寸前で日和、腕を引っ込める小夜。残されたメトロノームは扉の内側に戻るより先に、廊下の天井とエレベーターの隙間に挟まれ捥ぎ取られていった。
手に付いた血液をパーカーで拭い呼吸を整える。一瞬、間をおいて足元から爆発音が轟き、エレベーターが揺れる。
「あれ?………おかしいわね?」
ふと、エレベーターが動いていることに違和感を覚える。そういえば、まだ扉を閉めるボタンを押しただけで、行先までは設定していなかったはずなので、扉が閉まった時点で何者かが外部から、呼び出しボタンを押したのかも知れないと考え、再び顔が引き攣った。
------------------------- 第10部分開始 -------------------------
【サブタイトル】
第010号室 肉塊
【本文】
とりあえず、出鱈目な記号が並ぶエレベーターの操作盤に、図書室最寄り階行きのコマンドを入力する小夜。果物ナイフを咥え、エレベーターの壁に手を付き、その対面の壁に足を突っ張ると少しずつ登って行く、天井近くまで登り切ると途中乗車の異形に備えてただ耐える。
先に図書室に着けばいいなと思って見ても、団地の中では悪いことほど優先されるので、直ぐ知らない階層に止まって扉が開く。
唾液を吹き出し荒い息遣いを響かせ、段々に重なりとろけたチーズに廃油をぶちまけ、どうにか人の形を繕った、といった外見の巨大な肉塊が、酸えた悪臭と共に乗り込んで来た。扉に閊えた腹とも胸とも言えない脂肪の塊を、滝のように汗と火山のように膿を噴き出しながらエレベーターに押し込むと、無理に閊えを抜いた反動でバランスを崩して倒れ、エレベーターを大きく揺らした。
天井から肉塊のこける姿が見えたので、目一杯、手足を突っ張り耐える小夜。ひゅっと小さく鼻を鳴らし、手を使わずに鼻の穴を塞ぐ芸当で臭いを堰き止める。
重量オーバーの警告ブザーが鳴る中、扉は関係なく閉まり、苦し気なモーター音を鳴らして、ゆっくりと動き出す。ちらりと操作盤の上に目をやる小夜、最大積載量800kgと書かれた表示を見つけ、目を細め眉も顰めた。
時々モーターの空回りする音を立てずり下がったり、金属ケーブルの繊維が切れる音を響かせたりしながらも、何とか移動を続け図書室のある階層まで到着する。
エレベーターの扉が開くと重量オーバーの肉塊を無理やり運んだせいか、廊下側の扉と同期できておらず、ズレ落ちていて、下半分が廊下の床下に阻まれ壁のようになっていた。
それでもやるしかないと、小夜が咥えていたナイフを、扉とは逆方向の床の隅へ向けて吐き出し、肉塊の注意をそらす。
その見た目とは裏腹に俊敏な動きを見せ肉塊がナイフを拾う。脂肪が詰まって醜く膨れ上がったその手は、指一本動かせないほどの肥満であったが、膿と高粘度の汗が混じり合った粘液が糊のように働き、ナイフを張り付かせていた。
猛烈な興奮を見せ、ナイフが降ってきたであろう天井を、肉塊が蜆のような眼を輝かせて見上げる。小夜が天井に突っ張っていた手を離し、扉の上部の出っ張りに指を掛けると、扉と対面の壁から両足を離して肉塊を蹴りつける。
人肌に温められた濃厚な汗、膿、油と肉塊の感触が、生足の足裏からダイレクトに脳を貫き、小夜の全身が総毛立つ。小夜の生足が肉塊の潤滑油に飲み込まれて滑り、体表を覆う醜く盛り上がった吹き出物を足の裏で扱くと、粉瘤が一気に弾けて、黄白色のドロドロとダマになった熱い膿が吹き上がり、ぶっ掛かって小夜の生足を犯す。
想像を絶する悍ましさに平静を失い、扉の出っ張りに掛けていた指が、身体を支え切れなくなりすっぽ抜ける。エレベーターの外の廊下に臍から上の半身を投げ出し、両手は空を切って受け身を取り損ね、顔面を木組みの床に強打した。
反射的に床に手を付き身体を起こし、大きく咳き込む。咳をするたび、鼻から霧状になった血が噴き出し床を汚す。水道の蛇口を捻ったように流れる小夜の鼻血。顔面が引き攣り、口角が耳まで裂けんばかりに上がって震える。口から唾液と混ざった血液が糸を引いた。
血を流せば流すほど、頭に登った血が下がり冷静になっていく。肉塊がエレベーターへ引き戻そうと、その手で粘着質の膿汁を、小夜の生足に絡めるたび怒りが沸騰する。
「ほんと、気持ち悪いんだけど!!!」
身体を横にし兎に角、蹴りまくって肉塊の手から逃れようとする。小夜が初めに肉塊を踏みつけ滑った時、生足に付着した油のせいで、肉塊の手の粘着液が弾かれ保持し切れず、肉塊側もこれ以上逃げられないようにするので精一杯のようだった。
「ムリ!ムリ!ちょっと、ホント無理だから!!!」
後、少しで肉塊の間合いから抜け出せるというところで、油の乗りの薄かった左踝が絡め捕られ一気に引き戻される。
「最ッ…低!!足、触んな!!!」
大きく反動をつけて「汚ったない、豚がぁあああ!!!」と、怒号と共に蹴り飛ばす。
完全に手が離れ、エレベーターの中に尻餅を着く肉塊、その衝撃でエレベーターのシャフトやケーブルから悲鳴が上がり、ガクンとエレベーター全体がずり下がった。
即座に起き上がり、廊下へ這い上がろうとする肉塊の頭上を飛び越え、小夜がエレベーターを釣るケーブルの、剝き出しになった屋根に上がる。
「落ちろ!ブタぁああああ!!!」
廊下側の扉の上辺に掌を押し当て両足を踏ん張る。そこら中から金属の弾けるラップ音が響き渡り、肉塊が這い上がろうと藻掻き、暴れるほど不安定になっていく。
遥か上方から金属が引き千切られるような、轟音が響くと同時にエレベーターが自由落下を始める。
小夜が廊下に尻餅、膝から先をエレベーターの奈落に投げ出す形で着地、一瞬で冷め上がり、勢いよく廊下側の扉を平手打って、床に転がる。
機関銃の乱射そっくりの銃声音を響かせ、砕けた金属片がエレベーターの吹き抜けを跳ね返りながら落ちてきて、一部が廊下に撥ねて小夜のランドセルを撃つ。
這いずってエレベーターから離れる小夜、腕ほどの太さの金属ケーブルが扉から飛び出し、蛇の舌のように木組みの床に壁、天井を舐め取り破壊すると奈落の底へ、肉塊の野豚染みた断末魔と共に消えていった。
------------------------- 第11部分開始 -------------------------
【サブタイトル】
第011号室 小人
【本文】
小夜は涙が嫌いだった。自分が泣くのも、他人が泣いているのを見るのも、苦痛で仕方なかった。
涙を流せば心が弱くなる気がしたし、人の涙を見ると言葉では言い表せない不安に駆られる。
しかし、小さな身体は正直で、意識的に抑え込もうとしても、肉体的な痛みを我慢したって、精神的苦痛にどれだけ意地を張ったとしても、痛ければ、悲しければ、止める事違わず、涙が流れてしまう。
今回、小夜の自己診断の結果としては、顔面、床キッスによる鼻骨骨折なので、ちょっとくらい涙も止む無しな状況だった。
鼻を摘んで上を向き、喉を鳴らしてレバー状に固まった鼻血を飲み込む。舌に纏わり付いた血の味を歯で濾し取り、切れた唇を舐める。
所々、血で赤黒く染まった白地のパーカーの袖で、感情や意思とは関係なく零れる涙を拭う。
ボールチェーンの付いた小さな、チューリップ型の手鏡を取り出し、疎らにひび割れた鏡に目元を写す。
パーカーを脱ぎ、まだ血の付いていない背中の部分で、潤んだ瞳から水分を奪い、既に出血が止まり、乾燥し掛かった鼻血を拭き取る。
木組みの廊下に脚を投げ出して座り込み、脚の汚れをパーカーで拭き取り、長めに息を吐き出し呼吸を、落ち着けようとするもうまくいかない。
小さな身体は熱を帯び、全身の毛穴から汗が吹き出し、靄が掛かったかのように視界が霞み、耐え難い吐き気が込み上げて来る。
ランドセルのポケットからピルケースを取り出し、予め半分に割ってある大人用の頭痛薬を水無しで飲み込む。喉の奥に張り付いた薬から、強烈な苦みと蘞味が溢れ返し嘔吐きそうになるのを、干上がった唾液の代わりに空気を飲み込み、何とか押し留める。
床に敷かれた木板の軋む音と、何者かの気配を感じ無理やり身体を動かそうとして、脳を揺さぶらるような立ち眩みに襲われ、平面のはずの床を踏み外し踏鞴を踏んでつんのめる。
「ちょっと、しっかりしてよね」
抑揚の少ない、湿っとりと落ち着いた女性の声に肩を抱かれ、飛び切りの懐かしさに眠気が吹き飛び脳が覚醒する。
「………ママ?」
ベージュ色のトレンチコートを羽織り、小夜を一回り大きく成長させたような容姿の女性は、長い前髪を掻き揚げ耳に掛け直しながら、酷く取り乱す娘に困惑の表情を浮かべる。
「どうしたのよ?そんな、みっともない顔して、何かあったの?」
「どうしたのって、ママこそ、今までどこに行ってたのよ!?」
訳が分からないといった表情を浮かべる母を、不安げに覗き込む小夜。
「何で、私を一人にしたの?ママが居なくなってから大変だったのよ!?今日だって、触手に巻かれたり、マネキンに襲われたり、ガソリンで溺れそうになったり………!」
「なぁに、それ?馬鹿ねぇ?あんた、変な夢でも見てたんじゃないの?」
「………夢っ」
自分の手を見返し全く汚れていないのを不思議に思う。いつの間にか周りの景色が、古びた木組みの廊下から、懐かしいマンションの一室に変わっていた。部屋中に所狭しと敷き詰められた細い姿見鏡に、映る制服姿の自分を見て何が何だか分からなくなる。
「あ、あれ?………でも?」
小夜が疑問を口に出す前に、母親が娘を胸に抱きしめる。
「なんだか、分からないけど、怖い夢でも見ていたのね?」
困惑、喜び、混乱、両眼が憂いを帯び、声を詰まらせながらも、母の温もりを感じ取ろうと手を伸ばす。強張り固まった小夜の身体を母が包み解きほぐしていく。
「あっ………?」
見つめ合う母の瞳に違和感を覚える小夜、一度瞬きする合間に、血が乾いて薄くパヴェ状に張り付き、スクール水着を着てランドセルを背負う、憔悴し切った自分の姿が映っていたような気がした。
団地での長く忌まわしい記憶が全て夢だったのか、それとも今この母親の存在こそが夢なのか、小夜には分からなくなっていた。
「どうしたのよ?そんな、みっともない顔して。私、今から調教に行ってくるから、ちゃんと留守番してるのよ?」
「え?ちょうきょう??」
「? そうよ、今夜も哀れな男共を、立派な人豚へと調教するの。そして、骨の髄までしゃぁああぶりつくすぅのよぉおお(レロレロ~)!!」
親指と人差し指で輪を作り、迎え舌の口へ持っていくと、片眼を瞑って下品に首を振る。世間一般の親が、自らの子に対して見せる模範としては、評価に値しない程度の低さに、我が親ながら舌を巻く小夜。自身にその血が受け継がれていると思うと、自分はこうは成らないと心に誓う。
母が出かけ一人になった小夜、辺りを舐めますように観察しながらリビングのソファに座ると、クッションの間に挟まっていたリモコンを取り上げテレビの電源を入れる。
恐竜に跨る年老いた白人の学者が主人公の冒険映画、機関銃を両手に抱えゾンビの大軍を薙ぎ払うマッチョな黒人のスプラッタ映画、妙齢な聖母様のエクソシズムが何だかエッチな大人向け映画、ペストマスクを被った黒装束の医師を追う難解なゴシックホラー、熱帯特有の陽気の中マフィアのボスが血みどろの抗争を繰り広げる任侠映画、どれも特別好きなジャンルの映画という訳でも無かったが、なぜだか目が離せなかった。
支離滅裂なストーリー、視聴者に向けられるメタ的なセリフ、意味ありげに挿入される知恵の輪の映像、なんだか無性にやりたくなったので、テレビの中に腕を突っ込んでパクる。知恵の輪自体は何かの伏線といった訳でも無かったらしく、全ての映画は夢落ちで唐突に終わりを迎えた。
「ただいま~帰ったわよ~」
突然の声に驚く小夜、どれだけの時間テレビを見ていたのだろう。窓辺から朝日が差し込み部屋中を鮮血に染め、遠くから尋常ではない電車のブレーキ音が響き耳を劈く。正面から向き合った母は娘の持つ、9の字型の針金が円環部分で連結した簡単な作りの知恵の輪を見て、小首を90度、骨の砕ける鈍い音を立て直角に傾げ、極度の緊張を隠し切れず震える声で囁く。
「なあに?それは?」
「これは………知恵の輪?」
カラリと気持ちのいい音を立てて外れる知恵の輪、外れたそれぞれのパーツを表、裏と食い入るように見つめる小夜。美しく屈曲した9の字の交点部分に視線を奪われ、魚眼レンズ越しの景色のように認識が歪んでいく。
「違う!………フフン、これは、不可能知恵の輪、現実と夢を見分ける為の私の分度器」
「何を言っているの?」
母親の顔が醜く歪み血の気が引いていく。
「これはね、一見解けそうで、でも絶対に解けないイライラアイテム。そう、ここが現実であったなら、位相幾何学的に絶対外れる事がないの。だから、この知恵の輪が解けたってことは………」
頭を掻き毟り地団太を踏む母親を模した何者かに冷たく小夜がほほ笑む。
「………ここが夢の中だってこと」
小夜は怒りというものが嫌いでは無かった。自分が我を忘れるのも、他人が本性を曝け出すのも、可笑しくって堪らない。
成熟し切っているとはとても言い難いその精神は、純粋無垢の天真爛漫で、どれだけ抑え込もうとしても、身を打たれればその激痛は怒りとなって、アドレナリンを火山の如く噴き上がらせ、肉体のリミッターを取り外し、今を生き抜くために骨と肉を軋ませる。悪意の言霊がナイフとなって心を刺せば、その苦痛は激情へ変わり、灼熱の業火となって心の陰を焼き尽くし、今を切り開く白刃となって冴え渡る。
爪に白い筋が入る。夢の外にある肉体が床でも引っ掻いたか?歯茎から血液が滲み出す。歯が緩むほど強く噛み締めているのか?トランス状態に突入した精神は、正常な判断能力を失い、怒りによって焦土と化し、夢魔に付け入る隙を与え無い。
「稀に居るのよね。夢の中なの気づいちゃう子が………!なあに?」
小夜が母親の姿を模った夢魔の両手を掴む。
「ママの真似なんて、許せない………最低、死ね!」
掴んだ両手から煙が上がり、夢魔の身体が炎に包まれていく。
「そんな事をしても無駄よ?ここは夢だもの」
「夢魔達って皆そう。夢の中なら自分が絶対って勘違いしてるんだから」
ゆっくり揺蕩う炎に包まれたマンションの一室、万華鏡のように雑貨が分裂し、ルービックキューブのように部屋が組み変わる。
「この夢から覚める方法などないの。結局のところお前は永遠に夢に捕らわれるのよ?」
骨の折れたビニール傘が隊列飛行で窓から飛び込み、小夜の首筋を掠める。
「芸がないのね。どうせ、夢の中で死ねば、現実の精神にも反映されて廃人になる~とか、言うつもりなんでしょう?」
血染めの床が地平の果てまで裂けて、奈落の底が瞳を開き、複眼のように敷き詰められた黄白色の人歯が迫る。
「全くその通りよ。それが分かっていたところで何が変わるというのかしら?」
「あなたみたいな夢魔とヤルのは、初めてじゃないの。もちろん対策してるのよ?」
壁面から突き出した数百世帯分の配線を支え、傾いた電柱から伸びた電線を掴んで堪える。
「あなた、一体、ナニに取り付いているのかしら?」
「?………どういう意味かしら?」
閉じた奈落の瞳から稲妻が走り電線を駆け上がって小夜を穿つ。
「あなたが夢落ちさせたのは、私じゃないわ。私はあなたが夢落ちさせた物に引っ張られただけ」
「うん!?なぜ何ともない?」
雷に撃たれたはずの小夜は、何事もなかったかのように電線の上から奈落へ踏み出すと、まるで見えない階段があるかのように空中を登り始める。
「どうなってるの?まるで我らと同じじゃない?」
「あなた達のは初見殺し。タネさえ割れれば逆に、こっちが仕掛ける事だってできるのよ?」
小夜がそういうとウィンク、小夜と夢魔の間の空間が消失し間合いが無くなる。ねっとりと腕を夢魔の首裏に伸ばす小夜。その腕は夢魔の身体をすり抜け空を切る。
「だとしても、我らが夢の中で後れを取るわけないでしょう?」
「そう?なら現実で勝負よ」
目を見開きつばを飲み込む夢魔。この娘ならやり兼ねないと思い始めていた。
「無理よ、夢から目覚める方法なんて無いわ………」
「さっきも言ったけど、夢落ちしたのは私じゃないの。それに、夢から醒める方法なんて幾らでもあるんだから」
再び解けてしまった解けないはずの不可能知恵の輪を取り出す小夜、円環部分を指輪のように人差し指にはめ拳を握る。
「例えば、三半規管。ここは熟睡状態でも機能しているわ。ここを責めれば誰だってイッパツで、逝ッちゃうんだから!」
鍵に見立てた知恵の輪を耳の穴、奥深くに差し込み、鼓膜を勢いよく突き破る。目の中でチカチカと火花が弾け痛みを感じる間もなく意識が遠のく。三半規管を貫通し蝸牛の渦巻きの中心に突き立てられた鍵をねっとり捻る。内耳のリンパ液が堰を切って流れ出し、平衡感覚を認識する感覚器官が異常をきたしパニックを起こす。
耳に煮え立つ油を注がれたような耳鳴り、縦に横に、斜めにどこか明後日へと回転し飛び上がる平衡感覚、狂った色彩が多次元的に空間を埋め尽くす。
肉がほどける毛糸のように骨から剥がれ、虚空に渦巻く地平線の中心目掛け、虹を追い抜き飛んでいく。
剥き出しの内臓は全て心臓に飲み込まれると、圧縮されパルスを撃ち出す超新星へ、晒された白骨は際限なく膨れ上がり、綿飴のように溶けて消失する。
取り残された脳髄と神経系は、片側を日に焼かれもう片側を暗黒に凍らされ宇宙を漂うと、薄れゆく意識の中、星をプランクトンのように銀河星雲ごと呑み込む、団地クジラを確かに見た。
目を覚ました小夜は、木組みの天井と壁の隅に背を向け、手足を突っ張り、その腕力だけで張り付いていた。
「うん?………なんて寝相のわぁっ!?」
重力を物ともせず身体を壁へ天井へと、張り付く程の筋力の解放は、心身の覚醒と共に正常を取り戻し、二度瞬きする間に保持力を失い、小夜を床へと突き落とした。
つま先から前のめりに着地、ほとんど落下そのままの勢いで両膝を床に打ち付ける。両腕を広げて何とか顔面を庇い、肘と掌で同時に床を叩く。首が振り子のように撓り、額が床にのめり込む。土下座体制の小夜の髪が翻り床をはたく。ランドセルの留め具が外れカバーが開き、中身を床にぶちまけられた。
「痛ったいわね!」
悲鳴を上げる肉体をもう一度だけ酷使し、ランドセルから飛び出した身代わりのお飯事人形に、抱き着く汚らしい瘤のついた小さなおっさんを両手でもって抑え込む。
「このっ、雑魚ぉおおお!!」
キィキィ甲高く情け無い叫び声を上げもがく、小さいおっさんを握る手に力を込めて黙らせる。
「フフン、雑っ魚!ホント弱い、夢の中でイキってても現実でこれじゃねぇ?」
人形の衣装に皺を付ける程度の抵抗空しく、圧倒的腕力の差に人形と引き剥がされる小さいおっさん。
「こんな女の子に玩ばれちゃって何も出来ないなんて!?惨め過ぎでしょ!恥ずかしくないの!!?」
揺るぐことない絶対的優位性は、小夜の母親から受け継いだ嗜虐嗜好を呼び覚ます。
「あは!汚ったな!顔真っ赤にしちゃって、必死!雑ぁ~~~魚♡」
釣り糸で縛り付けられる小さいおっさん、当たり前のように繰り出される母親直伝、後手縛りと屈脚固定縛りの合わせ技によりM字開脚状態で緊縛される。
「ホント、無駄骨、ご苦労様ぁ♡」
自由を奪われ身動き取れず、生き人形と化した小さいおっさんは鼻息荒く、怒りと恐怖そして一つまみの快楽に苛まれ、小さな女王様の一挙手一投足に怯えと期待を持って身体を震わせるのだった。
------------------------- 第12部分開始 -------------------------
【サブタイトル】
第012号室 生き写し
【本文】
団地というよりは古びた小学校の木造校舎を思わせる木組みの廊下、材木の乾燥した臭いが漂い、ガラスを斑点状の白い汚れに覆われ明かり取りの窓は、溝にびっしりと苔類が繁茂して窓枠を固定しており、実質はめ殺しになっていた。
小夜が吊るし上げた小人を揺らし、時折り前後に振って勢いをつけ一回転させる。虚勢を張り声を押し殺している汚らしい小人も、遠心力で身体が押し込められると、情け無い声を上げて人間には理解できない鳴き声を漏らし、小夜の耳を楽しませた。
廊下を進む途中、壁の窪みに嵌め込まれた、塗料が剥がれ錆の浮き上がった消化器箱を開いて、消化器を取り出し、身代わりに使ったお飯事人形を、代わりに詰めて箱を閉める。
「………!」
しばらく耳を澄まして箱の中の様子を伺っていると、衣擦れの音が微かに聞こえてきた。さらに耳をそばだてると箱を内側から叩く音が鳴り、次第に大きく激しくなっていく。
どうやら復活したようなので、早速いつものように身代わり人形にしてあげようと、箱を開くもすでに蛻の殻だった。
「うん?………なるほど、そうゆーこともあるのね」
どうやって逃げたのかは分からなかったが、居なくなったという結果は受け入れるしかなく、とりあえず納得したことにして、苛立ち紛れに小人を振り回した。
ーーー
図書室前の廊下に張り巡らされた紐に吊るされた鳴子を避け、足音をさせぬよう忍び足で、木の床を軋ませぬよう慎重に近づき、引き戸に手を掛け、叩きつけるように開け放つ小夜。
図書室内の水を打ったような静寂を、乾いた木材同士のぶつかり合う破裂音が引き裂く。気の毒なことに、入り口近くの開けた空間で団地の立体地図を作成していた人物が、驚きのあまり声もなく硬直して固まる。
「ただいま、教授〜」
笑いを堪えてニヤ付く小夜を見て、還暦を迎えている割に背筋が伸びているせいか、一回り若く見える白人男性の教授は、躊躇いながらも懐から大口径の回転式拳銃を取り出した。
「うん、お帰りなさい………」
「やめてよね、子供に銃を向けるなんて。………何のつもりなの?」
「君と連絡がつかなくなって、もう、十日経つからね。今、僕の前にいる君は、君のフリをした何か、別の物かも知れないじゃないか?だからまず、君が本物だという証拠を見せてくれないかな?」
「証拠?そんな物は無いわよ?私が本物かどうかは、あなたが自分で決めて」
目を見開き、一歩進み出る小夜に対して、再度、銃を突き出すように構え直し牽制する教授。
「じゃあ………その服はどうしたんだい?前に出て行った時とは違う服を着ているようだけど」
「フン、十日も経ってるのよ?服くらい着替えるわよ」
教授が務めて自然に見えるよう、小さく息を飲み込んだの事に小夜は気づき、じっとりとした目付きで見詰め首を直角に傾げた。
「いったい………何処で手に入れたんだい?」
「ベランダに干してあった洗濯物を貰って来たのよ。どこで取って来たか案内しましょうかぁ~?」
教授が恐怖で上擦る声を必死に抑え、銃の撃鉄を起こす。
「これは、昔、君から聞いたのだけど、記憶を読み取り擬態するようなタイプの物は、対象の長期記憶、つまり深層に刻まれた古い記憶を参考に擬態を創るんだってね?………だから、このタイプを見分けたければ、ごく最近の他愛もない出来事を尋ねると良いと」
「おっ?なになに、なになに??」
残像が出来る勢いで首を振る小夜、尋常では無いその挙動に思わず教授が引き金を引く。小夜が人間離れした速度で身を捩るも右腕を銀弾が掠めた。
「ちょ………いたい!痛い!!何すんのよ!!」
右腕を抑え床に転げ悶絶する小夜を教授が冷たく突き放す。
「へ、下手な芝居よせっ!それ、出て行った時と同じ服じゃないか!それにまだ二日と経ってないんだぞ!!」
教授が床に蹲る小夜の背中に銃口を向け引き金を引くより一瞬早く、小夜の身体が不自然な挙動で跳ね上がり、天井に背中合わせで張り付くと、振り乱した髪の毛の隙間から教授を覗き込んだ。
「あら、ばれちゃった?」
「いやぁ………」
痛みを感じる気配を微塵も見せず、糸が切れたように表情を無くす小夜、見る見るうちに眼底が沈み込み墨汁のように黒く、肌は灰のように白くなってひび割れ、粉を吹く。
「やっぱり、偽物じゃないか!」
教授が頭部を狙って銀弾を撃ち込むも、捕食形態へ移行したドッペルゲンガーの反射速度は、銀弾の速度を上回り、側面へ回り込まれるように回避される。
「高説垂れずに撃てばよかったのに、甘いのね〜〜〜!!」
大口径の反動で仰け反る教授の隙を付き、ドッペルゲンガーが飛び掛かる。相手の白く鋭い指先が届くよりも速く、自ら倒れ込み巴投げの要領で、腹を蹴り上げ図書受付棚の反対側まで蹴り飛ばす。
教授がうつ伏せになって棚ごと撃ち抜く、一発二発と大穴を開け、三発目が棚を吹き飛ばすと影からドッペルゲンガーが飛び出し、天井に張り付いて教授に狙いを定める。
ドッペルゲンガーが天井を蹴って勢いを付け、再度飛び掛かる。途中、身体を捻って教授の放った銃弾を躱し、向き直るように態勢を入れ替え、教授を跨ぐように着地、リロードに手間取る相手を組み伏せる。
「あぁ………」
教授が諦めの表情を浮かべつつも膝蹴り、ドッペルゲンガーの股間を打つが、死相に覆われた小夜の顔は顔色一つ変え無い。耳まで裂け鋸状に生え揃った牙の並ぶ口を剝き出しに、教授の首元へ齧り付こうと振り被り、頭をもたげ口腔を限界まで拡げると、横合いから打ち振るわれた消火器に顎を砕かれた。
「小夜ちゃん!!」
消火器を携え現れた本物の小夜に驚き、年甲斐もなく喜ぶ教授。
「いいタイミングだ!!」
「ええ、初めから見計らっていたんだもの「うん?」当然よ」
突然の横槍を受け、教授の上から飛び退き態勢を整えるドッペルゲンガー、消火器を抱える自身がトレースした少女を見初めると、爪を床に叩き付けギリギリと引っ掻き、怒りを全身で体現する。
「あら、それって私のマネ?………おっとっと」
消火器に振り回されるようにふらつく小夜を見て、もう、消火器を貰う事は無いと考え、教授の銃を捌くことに集中したドッペルゲンガーの脚に、消火器を捨て身軽になった小夜が抱き着く。
「「!?」」
小夜の予想外の動きに不意を突かれ、おとなしく組み付かれるドッペルゲンガー。
「早く、撃って」
ついでに不意を突かれていた教授が、小夜の言葉で我に返ってクイックリロード。一発だけ装填し直し、小夜を蹴り飛ばし隙を晒すドッペルゲンガーの眉間に銃口を突き付け、決め台詞も言わず引き金を引くと、熟して弾けたザクロのようにその頭蓋を吹き飛ばした。
------------------------- 第13部分開始 -------------------------
【サブタイトル】
第013号室 トイレ
【本文】
古びた木造の図書室、天井まで届く本棚と本棚に挟まれた通路に、積み重ねられたプラスチック製の大容量衣装ケース、これは小夜が捕まえてきた団地に生きる小型生物を飼う為の、飼育ケースになっていた。
「あった、これ」
お目当ての夢魔用飼育ケースを乱暴に引っ張り出し、蓋を外すと新しく捕まえてきた小さいおっさんを中に放り込み蓋を閉めた。先輩のよく調教されたおじさん達が新入りの緊縛を解きながら、肩を抱き何やら囁き掛けて慰めた。
「小夜ちゃん、怪我は平気なのかい?」
「フフン、平気よ。いつものことじゃない」
教授がドッペルゲンガーの死骸をゴミ袋に片付けながら小夜を気遣ったが、当人はどこ吹く風で、痛々しく腕に出来た螺旋状の痣をひけらかすように手を振っている。
「一体何をどうしたらそんな痣が出来るんだい?」
「これ?団地ダゴンよ」
想定していたよりも直接的な返答を受け逆に困る教授。
「ダンチダゴン………?一体何者なんだい?」
「触手よ。太さもドラム缶だいから缶詰サイズまで、伸縮自在って感じだったわ。後、長ぁい」
ゴミ袋の口を縛り、残った血痕が床に吸収され団地の養分になり、跡形も無くなっていくのを眺めながら、教授は団地ダゴンの容姿を想像し、タコのような触腕を思い浮かべた。
「もしかして、その触手、吸盤が付いていたりしなかったかい?あ~後、色が変わるとか」
「吸盤は………あったかも。色は、塩掛けたら赤から真っ白に変わってたわね」
職業柄、未知の存在に対しては童心に帰ってしまい、探求心を抑えられない教授。目眩く神秘と団地の深淵に、死への恐怖が薄れていく。山のように巨大な化け蛸が、その巨体に似合った極太の触腕を団地の通路一杯に這いずり廻し、獲物を絡め捕っていくさまを思い描き感嘆の吐息を漏らす。
「何か粘液のようなものを分泌していただろう?」
「そうね、ヌルヌルしてたか「吸盤の並びはどうだった?」えっ?「綺麗な二列だったか?これで性別がわかる!」さあ?そこまでh「他に何か、気付いた事は!?」………フフン」
教授による矢継ぎ早の質問に、愛想の尽きた小夜が背を向け悪い顔をする。
「名前に団地って付いてるんだし、高級住民目録に載ってるんじゃないの?」
「高級住民目録!そういうのもあるのか!!で、それは何処に!?」
「~~っと、覚えてな~~い。本棚のどこか~~~」
小夜の言葉を真に受け、本棚を引っ繰り返し息巻く教授を尻目に小夜は、着替えとシャンプーの試供品、それに金魚柄のラップタオルを抱え、図書室を出て向かいにある女子トイレに入って行った。
白熱電球はスイッチを入れても、無いよりはマシ程度の明るさしか無く、壁と床を覆う正方形の小さな陶器製のタイルが、その光を微かに反射してチラチラと妖しく揺らめいている。深緑色のゴムサンダルが踏みしめるたび、ゴムと陶器が擦れ合いキュっと窮屈そうな音が鳴る。
洗面台に着替えとラップタオルを載せ、スクール水着を脱ぎ捨て脇の小皿に盛られた盛り塩を一摘み、鏡は幅広の透明OPPテープで隙間なく目張りしてあるので、鏡の住人である逆小夜は引っ付いて出て来れない。一番奥の個室のドアを開くと小夜は、塩が満遍なく行き渡るよう祓魔師の間ではよく知られた、腕を曲げ上から撒いて肘に当たるようにするやり方で、先客の花子さんに向かって塩を振り掛けて清めた。
「はい、わたし使うから成仏して」
(~~~~………!!!)
地縛霊も不意を突かれれば呆気ないもので、状況を理解する間もなく花子さんは成仏してしまった。
古い建築様式の和式トイレは個室の天井近くに水を溜めるタンクが設置されてあったが、その配管は過去に存在した生存者の手によって改造され、配管の途中にシャワーヘッドが取り付けられていた。
「ふ~~………よしっ」
小夜はゆっくり息を吐き出し意を決すると、洗浄ペダルを踏みつけた。シャワーから流れ落ちる水は当然お湯ではなく冷水なので、小さな悲鳴と共に全身に鳥肌が立ち筋肉が萎縮する。
「ぎゃ………………!!」
古代ギリシアの大理石彫刻のように裸体をくねらせ、震える指先でシャンプーの試供品を開ける。
「はわわ………ミントの香りがするぅ………」
手早く済ませようと高速で両手を動かし、頭の天辺から足の先まで隈なく泡塗れになる。最後に髪を撫で上げ泡をそぎ落とし、両手にたっぷり抱えてフッと一息、吹き飛ばす。ぽたぽたと雫を落とすシャワーヘッドを見上げてふと考える。
(ミントの香り………ハッカ油が含まれているのでは?)
肌はヒリつくような感覚を覚えながらも脳は鈍感で、足はいつもそうしているように、ほとんど無意識に洗浄ペダルを踏みつけ、冷水を降らせる。
「あ゛っ………!!!」
余りにも爽快が過ぎると結局製品化されなかったメンソール過多の試供品シャンプーは、小夜の感度を300倍に跳ね上げ、冷水が肌に刺さるや否や永久凍土へ誘った。
------------------------- 第14部分開始 -------------------------
【サブタイトル】
第014号室 うどん
【本文】
教授は小夜の言う高級住民目録なる書籍を、図書室で探していたが、暫くすると熱が冷め、それと同時に頭も冴えて、小夜の言った事は嘘で、そんな物ある訳無い事に気が付いた。
「いやぁ………悪い子だ………」
お目当ての物は無かったが、いつの間にか蔵書されていたらしい、謎の書籍を幾つか本棚から抜き取りテーブルに置いた。
「ヴォイニッチ手稿その三、続き物なのか?しかし読めない!団地訳ネクロノミコン、原文とはかけ離れていそうだが気になるな。図解でわかる天地創生初級編、小惑星の挿絵だろうか?わからん、どうも人の可視光域で読めるようには出来ていないように見える。あっ、月刊△ー?これはただのオカルト雑誌だ………」
どれもこれも出版社は団地書報となっていた。読めない本を読みながら理解できる部分を探し出し、前に似たような記述を見たなと、別の書籍を取り出してきては参照、比較、翻訳を繰り返し解読、少しずつ理解できる範囲を増やしていく。
小夜がシャワーを済まし顔面蒼白、唇真っ青、ガタガタ震えながら、歯をガチガチ鳴らして戻ってきたころには、テーブルの上に本のバリケードが築かれていた。
「………フッ、ちゃんと片付けてよ?」
「………………~~ぅ~ん」
小夜は教授のとても信用ならない生返事に天を仰ぎ、唇を尖らせ息を鋭く吐き出し、前髪を撥ねる。視界が曇ったような気がして睫毛を摘まむように瞼を拭うと、雪のような結晶が指先に付いて直ぐ溶けて消えた。
「うわ、まつげ凍ってる………」
とんでもないシャンプーがあったものだと思いながら、お菓子でも食べようと教授の拳銃で吹き飛んだ受付棚の引き出しを漁る。木屑を掻き分け銀紙で小分けに包装されたチョコレートを見つけては口に放り込む。
植物油で薄められた質の悪いチョコレートは、小夜の咥内でダマになりながら溶けて唾液と混ざり合い、舌全体に纏わりついて味蕾を塞ぎ、味覚神経を経由して脳を溶ろかしβエンドルフィンを溢れさせ、甘味とほろ苦さをもって服用者を依存させていく。
団地製菓産のチョコレートを一心不乱に頬張る小夜、正常な判断能力を失った精神は、自制を失い暴食の禍へと引きずり込まれていく。
包装紙に残ったチョコレートの欠片を歯で漉し取る。指に付着した香りに引かれ、口に入るだけ指を突っ込みしゃぶりつく。狂乱的に瓦礫を掻き分け見落としたチョコレートが無いか探し、似たものがあれば口に入れてから判断する。
チョコレートと唾液と木片と、木片で傷ついた咥内から溢れた血液を、舌と指で捏ね繰りながら新しい包みをそのまま頬張る。ひと噛みで中身が噴き出し口いっぱいに広がる。前歯で舌を扱き唇を窄めて両手の指で拭い取る。
中庭に面した窓辺に駆け寄り乱暴に木戸を開け放つと、人目憚らず団地チョコを噴き出した。
「チョコは依存性があるからね~~そんな事もあろうかと、カカオ99%のやつ混ぜといたんだよ~」
「………はぁ、いい仕事するじゃない。………助かったわ」
暗号解読に夢中な教授が間延びした調子で毛ほどの興味も示さず、チョコレート依存症を克服した小夜を気遣った。
「やっぱり、ある程度、手を加えてから食べないと危ないわね~」
まともな食糧が無いかと食糧棚を物色すると、賞味期限の切れた小麦粉が奥の方から大量に現れた。と言うよりは小麦粉しかなかった。
「教授~~この小麦粉、何なの~~~?」
「~~僕たちが図書室に来る前にいたらしい、イタリア人のため込んでいたものだね。まぁ………その人はもう居ないみたいだけど」
人の死の痕跡を感じ取り教授の集中が切れる。
「棚の横にレシピノートがあっただろう?色々な国の料理がそれぞれ異なる筆跡で書き残されてて、一番新しいページにパスタの打ち方が沢山書かれていたから、それの残りじゃないかな」
「フ~ン、パスタね~~」
小夜が立ったまま頬杖をするよな仕草で、かわいく考え込む。教授は小夜がそのポーズをとる時、全く別のこと考えていて、それを行おうとすでに決心を固めた後だということを知っているので、小さく肩を竦めて読書に戻った。
「パスタかぁ………よし、うどんにしよう!」
小夜はうどんを打つのは初めてでは無かった。幾度となく母親から直伝された鮮やかな手つきで粉へ、トイレから汲んできた水を廻し入れ、勢いよくかき混ぜる。程よく水分を含み黄色く、そぼろ状になった生地を、外側から内側へ巻き込み一つに固め、ひっくり返してまた繰り返す。
まとまった生地を大きな調理用ポリ袋に詰めると、教授が築いた本の山を薙ぎ払いテーブルに叩き付ける。
「!?なんだ?どうした、小夜ちゃん?」
「知らないの?うどんは踏んであげないとコシが入らないのよ?」
小夜がテーブルの上に置かれたうどん生地に鋭く踵落とし、勢いを利用してテーブルの上に登る。
「フニャフニャの生地を、こうやって(蹴り)こうやって(蹴り!)しっかり踏み込んで(蹴り!!)グニ…グニ…グn「グルテン?」グにテン!そうグルテンを、フフン、網目状に絡めてゴムみたいにするのよ………」
怪訝な表情を浮かべる教授を見下しながら、母直伝のステップで全身の体重を掛けて生地を捏ね上げていく。途中トゥキックで生地を折り層を重ねていく。
チョコ中毒の時よりもご機嫌なトリップ具合で一通り生地を捏ね終えると、テーブルに腰掛け生地を太腿に挟み人肌で寝かせる。上がった息を整えながらテーブルの上に横になる。背を向けたまま小さく上下する小夜の身体は、教授には急に小さくなったように、そして、少し震えているようにも見えた。
ーーー
図書室の中庭に面した木窓を外側から開くと、迷彩服に自動小銃を携えた大柄な黒人男性が、満面の笑みを浮かべながら、乗り込んで来た。
「ただいま、教授、お帰り~小夜~~~どこ行ってたんだ?」
「ハァイ!ボブ」
ボブと呼ばれた軍人のハイタッチを躱し小夜がタックル。お話にならない重量差と、桁違いの格闘練度、圧倒的な筋肉密度で受け止められると、小夜が次の一手を仕掛ける前に、丸太のような腕が胴に巻き付き、床に落ちていた紙切れでも拾い上げるかのような軽い動きで、担ぎ上げられ記憶が飛ぶ。途中、強制的に後方宙返りをさせられながら、小夜が次に気が付いた時は、ボブの肩に座っている状態だった。
「あぶなぁ~~~い!!」
図書室本来の扉を開き入ってきた修道服の上に派手なコルセットを巻き、ライオットシールドにトンファーを持った修道女は、空中で回転する小夜を見て心臓から悲鳴を上げた。
「お帰り、シスタ「も~~~!!!心配させましたね~~~!!!」ん~~…ごめんなさい」
盾と棍を投げ捨てシスターが、奪い取るようにボブの肩から小夜を降ろすとすかさず慈愛の抱擁。揺るぎのない信仰から生まれる強靭な精神、不屈の心に清らかな魂、嘘の無い他者への思いやりから零れる涙を見ると、小夜の良心はチクリと痛み、多少息が出来ないくらいでシスターを突き放す気にはならなかった。
「よかった!また、四人で揃う事が出来ましたね」
教授がそう言うと窒息仕掛けている小夜からシスターを引き剥がす。
「二人が出かけてる間に小夜ちゃんが、パスタ作ってくれたんですよ。「うどんだよ!」皆で食べましょう!」
中庭の焼却炉を改造した竈でうどんを茹で上げ、それぞれ絵柄の違うどんぶりに装い麺つゆを垂らす。窓のそばに置かれたプランターから、枯れかけた小口ネギを数本ちぎって刻み振り掛けた。
「「よし、食べよう!!」」
「その前に、神に感謝の祈りを捧げましょう」
色めき立つ男二人をシスターが遮り、四の五の言わせる前に祈りだす。
「天にましわす………」
「あ~始まった。短めで頼む」
悪態を付きながらも両手を合わせて付き合うボブ、シスターの祈りがあんまり長いので、祈り尽くしてしまい、祈る事が無くなって国家斉唱を始める。
「………我らの罪をお許しください………」
「………!」
シスターが青筋立てて睨み付けボブを黙らせる。
「………感謝の祈りを捧げます。アーメン」
「「「………以下同文」」」
四人とも団地生活は長いのでお箸の扱いも慣れたものである。器用にうどんを摘まみ掬い上げる。
「おお、なんて白いパスt「うどんだって!わかって言ってるでしょ?教授!」」
四人同時に口に含んだが誰も噛み切れない。
「「「「………………?」」」」
ボブが何とか噛み切り他の三人を見渡す。噛み切る事を諦めた教授とシスターが、うどんを運び全て口に含む。口の端からうどんを数本垂らしたままの小夜を、困惑の色を顔に浮かべて見つめる三人。
「何だこれ?ゴムじゃないのか?」
「うどんだよ?」
「すごい弾力ですね………」
「うどんだもの」
「硬すぎる。このパs「う!!ドン⤵︎」」
二口目を啜る小夜を無言で見詰める三人。
「言っとくけど、これ全然フニャフニャだからね?ママが打ったやつはホント噛み切れないからね?」
この子の母親は一体どれほど恐ろしい人物だったのだろうと、教授とボブとシスターは思った。