第2話 闇と光
リマ国、グレゴリー王の寝室――。
絢爛な天蓋が設けられたベッドの上に、一人の少女が小さく呻きをあげた。
首に真新しい包帯が巻かれ、滑らかな曲線を描く背には痛々しいアザが浮かぶ。身を包むものは何もなく、股からは白濁した精が垂れ落ちていた。
少女は身じろぎ一つしない。そんな横たわる少女を眺めながら、この国の王・グレゴリーはワインを傾けた。
「ぐぅふっふっ……空の女は締まりが最高だのう」
ベッドの上にいたのは、短刀で首を突き自決したと思われていた少女――シィエルの従姉妹・ピステであった。
「やはり若い女を抱けば、気持ちも若返るというも。――のう?」
グレゴリーはピステの尻を鷲掴みにし、手の中で形を変え続けた。
「あのノスキー国の悪党にも感謝せねばならん。奴らの手当てがなきゃ、お前は望むまま死ねていたからのう」
ピステは唾を飲み込むのも困難な様子で、わずかに顎を揺らす。
途中でザラムに刃を止められ、致命傷に到らなかったのだ。その後の止血などにより、奇跡的に命が助けられた。……が、彼女に待ち受けていたものは“煉獄”であった。
「これから、わしが面倒見てやるからのう」
近くにあった焼きごてに目を向けながら、汚い笑みを浮かべる。
◇ ◇ ◇
その数日後、ザラムはノスキー国の王としてリマ国を訪れていた。
用向きは盟主への挨拶である。……が、どこか機嫌が悪そうに眉間に皺を寄せている。
それもそのはず、馬で二日かかる道な上、正式に妾となったサシャも伴していない――しかも会うのは、“獲物”を権力で横取りしたグレゴリーだ。気分が下っても、上がる要素が何一つないのだ。
そのため、白い毛皮のコートに革紐を通した〈竜の牙〉、紺色のスロップドパンツに黒い光沢のあるブーツ……と、表敬訪問には到底そぐわない格好のまま城へと向かう。
当然、衛兵に「おい」と呼び止められるが、「あ?」と気だるげそうに返事をすれば、彼らの勢いはたちまち阻喪してしまう。
そしてこれは、国王・グレゴリーも同様であり、
「――よ、よくぞいらした!」
広い額に脂汗を浮かべながら、何とか権威と威厳を保ち続ける。
「新たに玉座に就くことになったザラムだ。今後ともヨロシク」
「う、うむ。ザラム……か。父のザナブ殿と名が似ておられるな」
「そりゃあ、俺はオヤジの寵児でもあるからよ」
ニマニマと笑みを浮かべているが、ザラムの鋭い目はグレゴリーを強く捉えていた。
だらしなく揺れる顎肉をそぎ落としたくなる。それが伝わったのか、グレゴリーは小さく顎を引く。
「ノスキー国もこれから大きく変わるだろう。今のうちに、ナイフをどこに置くか考えておけ」
ザラムはそれだけを告げ、静かに謁見の間を後にした。
しかし出口には向かわず、近くにいた兵を捕まえると、城の地下牢に足を向けていた。
「こ、このことは内密に……」
「わーってるよ」
衛兵はそそくさと戻ってゆくのを見届けると、ザラムはゆっくりと螺旋状の階段を下りてゆく。石が古いせいか、それとも各所に設けられている燭台のせいか――城が灰色であれば、地下牢は黄土色に染まっている。
「ご足労なこって」
年寄りの牢番は、何も思うことがない口ぶりだった。
「いつ逝ってもいいよう、老番も用意しとくべきだな」
「ひょっひょ、囚人どもが看取ってくれるさ」
近くにあった燭台を勝手に取り、橙の光の輪の中に鉄格子を浮かばせてゆく。
(リマの罪人はこんな小物ばかりか? ロクな奴がいねえな)
リマ国には複数の牢があり、大罪を犯した者などはこの城の地下に収容されると知っていた。鼻が曲がりそうな悪臭が漂う中、檻には弱者を食い物にしてきたようなの者ばかり。痩せぎすとなった身体は、もはや奴隷としての使い道もない。
無駄足だったか。ザラムはそう思った時、
「――女の匂いがするここは最高だよォ。糞や小便、泣き啜る音とかたまんねえよォ」
そう声をかけてきた男は、鉄格子にミイラのような顔を押し付け、すーすーっと大きく息を吸い込み始めた。
ザラムは『牢暮らしで頭がイかれたか』と思っていたが、やがて牢の終わりに差し掛かった時、これまでとは違った雰囲気を漂わせていることに気付く。
何だ灯りを向けた途端、ザラムの息が詰まった。
「……マジかよ」
そこにいたのは、青髪の女――目の前で、喉に刃を突き立てた天空の女・ピステだったのである。顔はハッキリと覚えていないが、地上にはない青髪、喉に巻かれた包帯が何よりの証拠だ。
向こうもザラムに気付いたのか、橙色の光に目を向けた。
「あな、タ……ハ!」
「あのオーク、生きてんの知ってやがったな」
女の目には怒りの色をたたえ、強く睨みつける。
「俺を恨むのは筋違いだぜ? 戦争は生きるか死ぬか。悔やむなら、自決を許さなかった神様を恨め――もしくは、そんな扱いしか出来ねえ豚だ」
ピステの身体は、見るに耐えない状態であった。
丸く堀りの深い目は落ちくぼみ、光に浮かぶ輪郭を深く描く。尻には奴隷の焼き印が押され、身体のあちこちには真新しいミミズ腫れが、手首は枷の形に青染まっていた。
「女の可愛がり方を分かってねえなあ」
「きさ、マ……!」
ザラムは鉄格子に指をかけ、覗き込むように体重を預けた。
「俺は日の当たる場所よりも、地下の方が好きだ。だが地下牢は別だ。俺が今いる場所、牢屋の外が好きだ。こうして中にいる敗北者を覗き込めるからな」
目元を赤く腫らしたピステは檻を強く握りしめ、ザラムをギッと睨み付ける。
「こちらかラ、見れバ、あなタは……囚われ人、ヨ……ッ!」
「ハッ! 檻の中は聖域ってか。飼いならされた獣は、扉を開けても出ねえっつーが」
一笑すると、女の股ぐらに目をやり、唇を舐めた。
「俺様が囚われ人ってのは正しいだろう。王様ってのは実に邪魔くさい」
「……ッ……」
「俺様の上前をハネたあの豚はいつか殺す。その時まで生きてりゃ、娼婦として引き取って面倒見てやんよ」
笑いながら立ち去ろうとした時、ピステはザラムを呪う言葉を投げた。
「声を聞イたッ! きさマ、らを、地上をすベテ闇に、葬っテ、やル――ッ!」
「ハッ、聞き飽きた遠吠えだ」
ザラムは牢を戻りながら、タウルが引き取ったシィエルのことを考えていた。
(あの様子じゃ、豚がゴネんのも時間の問題だな)
その時は――ザラムは口元に悪辣な笑みを浮かべ、薄暗闇の中で肩を揺らし歩き続けた。
◇ ◇ ◇
一方、ノスキー国の中庭では――
「このケダモノめッ、今日という日は噛み殺してくれるッ!」
怒り心頭のルトランは、目の前にいる白いブサイクな獣・ドゥドゥを追いかけていた。
初めは困難だった歩行にも慣れ、今では走る訓練も行っている。……と言うより、ドゥドゥが目の前が転がったり、尻を振ったりしてルトランをおちょくるため、必然的に歩き、走らされているようなものだ。
「芝生ぅー……」
芝生の管理も任されているロザリーは、見るに堪えない茶色の土と、黒い穴ぼこだらけの光景に、おろろと嘆くしかできないでいる。
彼女には申し訳ないが、とタウルとシィエルは苦笑を浮かべた。
「まぁしかし、ルトランの脚は速いな」
「そうかしら?」兜をかぶっているタウルの言葉に、シィエルは顎に手をやりながら小首を傾げた。「ドゥドゥより遅いわ」
「ははっ、それは当然だよ。あれは僕が知る中じゃ、一番速い獣だからね」
「え、そうなの!?」
シィエルは目を瞠った。
「ずんぐりむっくりの身体だけど、あれは馬よりも速くタフだよ」
「へぇ……」感心したように頷くが、すぐにその表情を暗くした。
「どうかしたのか?」
「地上って、私の知らない生き物も沢山だなって思ってね……。天空では本とか、ルトランに乗って、空の上で全部知った気になってた。だけどタウルが話すことや手紙の内容は、私が知らないことばかり……」
「それは僕も同じだよ。シィエルの話は、僕には空を掴むようなものだ」
「ふふっ。お互い知らない者同士ね」
「確かに。僕はもっと知ってゆきたいな」
「え……?」
目を見開いたシィエルに、タウルはきょとんとした顔を向けた。
「ど、どうかしたのか?」
「い、いえ、何でもないわ……っ!」
ふん、と鼻を鳴らすシィエル。
手紙の話をした日から、この地上の天候や習慣など、些細な質問を綴ってはタウルに送っている。
最初はロザリーが手紙を届けていたが、彼女の一日の運動量が倍増したため、今ではドゥドゥがこれを担うようになった。
「ああそうだわ。私を幽閉している塔だけど、天空の女を閉じ込めるなら窓塞いだ方がいいわよ」
「え……?」
「竜の風のブレスがあれば、上から飛び降りて塁壁を越えられるわ」
私は外に出る気はないけれど、微笑みを浮かべながら言う。
「ところで、まだ明るいけれど外に出てていいの?」
「ああ、今日は仕事の日なんだ」
「仕事?」
するとその時、城の方からメイドが一人やってくるのが見えた。
「タウル様。梱包と荷車の整えが終わりました」
「ああ、ありがとう」
メイドは封筒を手渡すと、踵を返して城に戻ってゆく。
それを懐に差し入れたタウルを見て、シィエルは頭に“?”を浮かべていた。
そしてこの日の夜――。
タウルは革の胴鎧と股履き、脛当てを身に着け、ドゥドゥと共に塔の外に出ていた。
月の無い空だが、兜を外したタウルの〈灰色の世界〉には快晴の空が映っている。
「いい夜だ。いくかドゥドゥ」
「うぉんっ」
ドゥドゥには革のハーネスがつけられ、そこから大きな車輪の荷車に繋がれている。
その上には五十センチほどの木箱が二つ。タウルが乗り込み合図を出すと、車輪がゆっくりと回りだし、次第にガラガラと規則正しいリズムを奏で始める。
城門の近くにはロザリーが立っており、恭しくお辞儀をすると「こちらを」と、そっと手紙を差し出してきた。
【何をやっているの?】
簡素な内容のそれは、シィエルからのものであった。
どこからか見ていたのだろう。タウルはさっと返事を綴る。
【配達だよ。僕も国のために何かやらなくちゃ】
タウルはひと月に一度、配達の仕事を行っていた。
主な荷物は、住み込みの使用人の家に送る給料の塩である。塩は余れば物々交換にも使えるため、金銀よりも実用的なこちらの方が好まれた。
だが当然、金になるものを運んでいると賊に狙われやすい。
ザラムが王座に就いてからというもの、賊の多くは蜘蛛の子を散らすように逃げ去っているものの、暗視の目を持つタウルと、猛獣のドゥドゥのコンビは最適解である。
「明け方には戻るよ」
「かしこまりました。どうかお気をつけて、いってらっしゃいませ」
ロザリーの見送りを背に受けながら、タウルは城門をくぐる。
跳ね橋からドゥドゥは次第に足を早め、橋を越えると同時に地面を強く蹴った。
「よぅし、思い切り駆けろドゥドゥ!」
「うぉ、うぉうぉんっ!」
ドゥドゥは歌うように吼える。
表向きにも、シィエルにも“仕事”と言っているが、実際はドゥドゥの怪足に興じて山々を駆け抜ける、狩りと同様の道楽なのだった――。