第5話 地上の味
ノスキー国は、リマ国から南東六十キロほど下った場所にあった。
温暖な気候で自然に恵まれた土地であるためか、民の性格は争いを好まない温和な者が多い。
しかし、突如として現れた竜は、そのような者たちにすら剣呑な空気を与えた。
「ハッハァーッ! 竜と女の総取りたァ大したもんだッ!」
「わ、わぁっ!?」
帰ってくるなり、ザラムはタウルの首に腕を回し、大喜びで兜をパンパンと叩いた。
父・ザナブに帰還の旨を伝えようと、謁見の間に赴いたのだが……得てきた“戦利品”が目的か、ザラムがそこで待ち構えていたのである。
「――で、あの女はお前のコレにする気か?」右手の小指を立てながら言う。
「に、兄さん……!」
「おいおい。まさかそのつもりなく連れてきたってのかよ」
「あ、当たり前だよ!」
「どんだけ甘ちゃんなんだお前。お前じゃ扱いきれねぇからよ。俺に女もよこせ、な?」
悪辣な笑みにたじろいだものの、タウルは「あ、あれは僕の“獲物”だよ!」と、毅然とした態度で答えた。
予想はできていた。しかしここで渡せば、リマ国から場所を移しただけにすぎない。
「おー、おー、言ってくれんねぇ」
ザラムは凄みを利かせた声で言ったが、そこに脅し取るような意図は感じられない。
僅かな間を見て、玉座に座っていた父・ザナブは「そこまでだ」と右手を挙げる。
「タウルの言う通り、女と竜はタウルの報酬だ――それに、お前には牙があるだろう」
「へへっ、まあな」
ザラムの首には拝領した〈竜の牙〉をぶら下げている。「今回は譲ってやっか」
「そして、タウルよ。帰途に就いていた時、民の顔をしかと見てきたか?」
険しさをたたえた父の顔に、タウルは「はい……」と、小さく返事をした。
檻に入った竜。域内の村や城下町の者らはみな、揃って歓迎とは呼べない顔を浮かべていた。兵や従者が触れ回ってなければ、たちまち罵声と卵を投げつけていただろう。
そしてこれは、少女を連れた父も同じだった。諫言する者もいれば、死を覚悟して『処刑して下さい』と歩み出る者までいたと言う。天空の者への恨みは、それほど根深いものだと痛感させられていた。
「竜のことは説明しているが、民や旗手、みなの反応は芳しくない」
「承知しております。僕、いや、私の管理の下、責任を持って面倒を見ます」
「その言葉が信用たるものか、示せるか?」
「一つだけ……まだどう転ぶか分かりませんが、あります」
話せ、とザナブは肘掛けの上で頬杖をついた。
「まず、あの竜にとって、連れてきた少女は痛みどころであります」
「なるほど、質にとる気か」
「聞こえは悪いですが、今はそれで大人しく従わせられるでしょう。連れてくる際も、彼女が手中にあることを伝えれば、自身の生き死にを僕に委ねるほどでありました」
ザナブは「なるほど」と一つ頷いた。
「竜は聡い生き物です。彼女の身の安全を保障し、それを示せば、必ず我々に頭を垂れるでしょう」
「お前はやはり甘い――」
嘆くような声に、タウルは「え……」と口にした。
「女は服従したフリをすればいい。女を質に取るのならば、責め苦で心身共に屈服させ、檻から出る恐怖を刷り込まねばならん」
「そ、そのようなこと、人道に反します!」
「何が人道だ! 奴らは何の前触れもなく我々を攻撃し、我が子や何千もの地上の者が死んでいるのだぞ! 奴らは略奪の限りを尽くし、食い物から財まで、何もかも根こそぎ奪うような連中に、人道など与えるべきものではない!」
このノスキー国も、東端の漁村らが死地とされてしまっている。
父の厳しい言葉に、タウルは返す言葉が出てこなかった。
「ま、オヤジの言う通りだわな」ザラムが首を左右に振った。「隙を見てお空に飛び立ち、仲間と合流すりゃいい」
これにタウルは、ハッとした表情で兄を見た。
「それはできません」
「ほう。どうして言い切れんだ?」
タウルは父の方を向き、ハッキリとした口調で述べた。
「鳥で言うところの、翼を支える上腕骨が折れ、また片方は私が矢で肩を射貫いています――対峙した時も、翼を広げた姿を見ませんでした」
父はこれに唸った。
「確かに、引き回されていた時も羽を広げて威嚇はしなかったが……。しかし竜は一体だけではないぞ。仲間が来たらどうする?」
「それは……確たるものはありませんが、恐らく救出には来ないでしょう」
「どうしてだ?」
「あの戦場で、最初に射落とした竜と騎手の救出に来たのは一人……あの少女だけです」
ザラムはこれに腕を組み、「その通りだ」と頷く。
「最初に墜ちた女が自決を図る前、『お前たちが望むまま死んでやる』と叫んでいたからな。ありゃ仲間同士……いや、組織の中で、デカいパイの取り合いをしてやがる。そうなれば仲間の繋がりは上辺だけ、誰もが口減らしを望む」
略奪らも、その一環だろうなと続ける。
「竜との絆は深いですが、仲間との絆は希薄……もしかすると、彼女の家族や身内が来る可能性も考えられますが」
「その時は、女と竜を囮にして射落としてやりゃいい」
くっくと笑うザラムに、父は顎に手をやって思案し始めた。
「それに、いざとなればドゥドゥもいます」
「あいつが?」
「地上であれに敵う生き物はいませんから」
少しおどけたような声であったが、これがダメ押しとなったようだ。
父は「わかった」と言うと、玉座からすっくと立ち上がった。
「竜の管理、女の処遇については任せよう。場所は中庭を使って構わん」
「わ、分かりました!」
姿勢を正したタウルに頷き、視線をザラムに移した。
「ザラム。タウルを任せた」
「へっ、元からそのつもりだったんだろ」
「新たな風を呼ぶには、今この時しかなかろう。竜を飼うなら尚更――古い者には到底理解できぬことだ。それに面倒を被りたくない」
「ジジイの統治に未来はねえのは事実だな。まぁお膳立てが条件だが……この城まで血で汚すのは、俺だってゴメンだぜ?」
分かっている、との父の言葉にタウルは何の話かと訊ねた。
いや、既に分かっているが、明確に言葉で聞かねばならないことであった。
「予定を早め、この席をザラムに渡すことにした」
父・ザナブはそう言って、玉座の肘掛けを叩いた。
◇ ◇ ◇
タウルが戻る少し前――長らく誰も使用していなかった塔の部屋に、新たな住人・鎖を解かれたばかりのシィエルが放り込まれた。
「……」
濡れ髪を揺らし、つんとした鼻を鳴らす。
カビと埃の臭いがする部屋だ。中央には丸いテーブルとバスケット、そして陶器の水差しが一つ。奥の壁際にはベッドが置かれている。
そこから頭を上げると、空気を取り込む小窓が一つあった。よじ登っても身体は通らないだろう。
シィエルは何日かぶりのベッドに横たわり、ぼうっと宙を見つめた。
差し込む光の筋の中で、小さな埃がチラチラと舞っている。
(もう、戻れないのね……)
シィエルは陰鬱な息を吐くと、ゆっくりと身体を起こし、長い青髪を手で梳いた。
水で洗い落としただけであるが、ベタベタになった不快さはなくなっている。
(この国の者は、私をどうするつもりなのかしら……)
シィエルは髪を触りながら、つい先ほどの出来事を思い出していた。
『タウル様の意向だから、お世話をしますがね』
この塔の真下のロビー。真っ裸にされるとすぐ、質素な黒いワンピースを着たメイド・ロザリーは、水を張ったバケツを乱暴に置いた。
身体を拭くための手ぬぐいもある。これを見たシィエルは『いよいよか……』と、身体を震わせてしまった。
『何を勘違いしているのか分かりませんが、そんな糞尿混じりの悪臭をまとったまま、部屋に入れるわけにはゆきませんからね。そもそも、タウル様はそのようなことをする方ではありません』
タウル……と、シィエルは口だけを動かした。それは、決して許せぬ者の名だ。
汚臭漂う牢から出してくれたことは感謝するが、仇敵から施しをどうして甘受せねばならないのか。水を張ったバケツを前に、シィエルは唇を噛み、手をぎゅっと握りしめた。
それを見たロザリーは、深いため息を吐いた。『呆れた』
『お空の女はどれだけプライドが高いのかしら』
そう言って、バケツを掴み中の水を思い切りぶっかけた。
『そっちから戦争をふっかけ、仲間が殺されたら敵を憎む……空の者はどこまで身勝手なの? あの方は、貴女を殺そうと思えばいつでも殺すことができたのよ。貴女の捕虜暮らしを哀れみ、殺しておくべきだったかもと胸を痛めていたと言うのに』
空に兄を殺されたにも関わらず、貴女を救うべく“褒美”に要求した。
感謝こそすれ、恨まれる筋合いはない――と、ロザリーは続ける。
『どうして……?』
ポタポタと雫を落としながら、シィエルはここで初めて声を上げた。
『そりゃあ、あの人の心根が優しいからですよ』
その声音は穏やかで、主君を讃えるのとは別の感情が交じっていると分かった。
シィエルは言葉に偽りがないのを感じ取ると、床に落ちた手ぬぐいを拾い上げた――。
(地上も天空も、“女”と言う生き物は共通してるようね)
シィエルは身体を起こし、ベッドから脚を伸ばして灰色の石畳を叩いてみた。
ひやりと冷たく、ぺち、ぺち……と弱い音がする。
(ここより下に、“世界”はない)
すぅっと空気を肺に取り込み、吐き出す――空気が違う。
天空は薄くてさらっとしているが、地上は濃くてねっとりしている。
この感動を書き残しておきたく、シィエルは部屋を見渡した。
「ん? これは……」
細い藤蔓で編んだバスケットの中に、細長いパンが二本入っていることに気付いた。
「へぇー、これが地上のパンなのね」
うす焦げ色の表面は硬いが、中はもっちりとした弾力がある。
芳醇な小麦の香りが空っぽの胃を刺激したかと思うと……次の瞬間には、がぶりと齧りついていた。
「美味しい……っ!」
柔らかな食感が癖になる。一口、また一口――あっと言う間に一本すべて平らげると、近くの水差しを掴んで喉を潤す。
一度にほぼ半分飲み干し、口の端から滴り落ちた水を手の甲で拭ったシィエルは、間髪入れず二本目のパンに手を伸ばしていた。